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7時22分の電車で始まる恋  作者: ほしみん


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第09話 隠された本

 五月の半ば、季節は初夏に向かっていた。


「今日は暖かいですね」


「そうですね。もうすぐ衣替えの季節です」


 千尋との朝の会話も、もうすっかり日課になっていた。僕は毎朝この時間を楽しみにしている。


「千尋さんは夏服の方が好きですか?」


「どうでしょう。夏服は涼しいけれど、冬服の方が落ち着くかも」


「僕は夏服の方が好きです。軽くて動きやすいから」


 そんな他愛のない会話を交わしながら、僕は今日も千尋が読んでいる本が気になった。いつも面白そうな本を読んでいて、僕は密かに彼女の読書リストに興味を持っていた。


「今日は何を読んでいるんですか?」


 いつものように気軽に聞いただけだった。いつもなら千尋は普通に答えてくれるはずだった。


 でも、千尋の反応がいつもと違った。


「あ……えーっと……」


 千尋は慌てたように本のタイトル部分を胸に抱え込んだ。表紙が見えないように、まるで何かを隠すように。


 僕は困惑した。なんで隠すんだろう?いつもなら普通に教えてくれるのに。


「あの……大丈夫ですか?」


「あ、いえ……その……」


 千尋の頬がほんのり赤くなっている。僕は更に困惑した。まさか、変な本でも読んでいるのだろうか?


「別に、無理に教えてもらわなくても……」


 僕が気を遣って言うと、千尋は慌てた。


「いえ!そういうわけじゃないんです。ただ……」


 千尋は小さく息を吸って、決意したような表情になった。観念したような、でも少し恥ずかしそうな顔だった。


「『失楽園』です」


 声が小さくて、電車の音にかき消されそうで、僕は最初聞き取れなかった。


「え?」


「……『失楽園』です」


 今度ははっきりと聞こえた。僕の頭が真っ白になった。


「あ……あー……そ、そうなんですか」


 僕は慌てた。『失楽園』といえば、あの渡辺淳一の……男子校の友達の間でも話題になったことがある、大人の恋愛を描いた……


(千尋さんがそんな本を……)


 僕の顔が熱くなってきた。


「あの、文学として、とても美しい作品だと思うんです」


 千尋が慌てたように説明を始めた。でも、頬はますます赤くなっている。


「あ、はい……そ、そうですね」


 僕も顔が熱くなってきた。千尋がそんな内容の本を読んでいるなんて。しかも真面目に「美しい」なんて言って。


 どういう反応をすればいいか分からない。男子校にいると、こういう時の対応が全然分からない。


「なんで今日に限って聞くんですか!」


 千尋が思わず言った。顔は真っ赤で、でも少し膨れたような表情だった。


「す、すみません!知らなくて……」


 理不尽な言われようだが、思わず僕も慌てて謝った。


「い、いつもこういう本を読んでるわけではないんです、たまたま今日がこの本だっただけで……」


「あ、あの……」


 お互い赤い顔で、気まずい沈黙が流れた。


 電車の揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。周りの乗客たちは相変わらず静かに通勤している。誰も二人の会話を聞いているわけではないのに、なんだかとても恥ずかしかった。


 千尋は本をしっかりと抱えて、窓の外を見ていた。僕も、どこを見ていいか分からなくて、つり革を見つめていた。


 時計を見ると、まだ桜ヶ丘駅まで五分もある。この気まずい時間が、とても長く感じられた。


(何か話題を変えなきゃ……)


 僕は必死に考えたが、何も思い浮かばなかった。


「桜ヶ丘駅、桜ヶ丘駅です」


 アナウンスが救いの神のように響いた。


「それでは……」


 千尋は小さく会釈して、足早に電車を降りていった。いつもより早足だった。


 僕は彼女の後ろ姿を見送りながら、心臓がドクドクしているのを感じていた。


(なんで、あんなことを聞いてしまったんだろう)


 でも同時に、千尋の恥ずかしがる様子が、なぜか可愛いと思ってしまった自分もいた。真っ赤になって慌てる姿、膨れたような表情、全部が新鮮だった。


 学校に着くと、山田が気づいた。


「健太、今日は顔が赤いぞ」


「え?」


「なんか、朝から興奮してる?」


 山田の指摘に、僕はドキッとした。


「そんなことないよ」


「本当かよ?なんかあったんじゃないの?」


 山田は鋭い。


「山田、『失楽園』って小説知ってる?」


「昔ドラマ化されて話題になったやつだろ?なんかエロいってのだけ知ってるけどそれがどうかしたか?」


「別に」


「お前それ読んで興奮したとか?」


「ち、ちげーし」


 僕は読んでないぞ!僕は!


 と心のなかで言い訳しつつ、千尋の気持ちを察して悪いことをしたなぁという気持ちになった。


 ◆


 翌朝、僕は千尋に会うのが気まずかった。でも同時に、どんな反応をするのか気になってもいた。


 千尋はいつもの場所にいた。でも、昨日より少し遠いところに立っていた。明らかに距離を置いている。


 僕と目が合うと、千尋は小さく会釈したが、すぐに本に視線を戻した。今日は『坊っちゃん』を読んでいた。


 僕は少し安心した。そして、なんだか笑いそうになった。


『坊っちゃん』なら安全だ。夏目漱石なら、どんなに聞かれても恥ずかしくない。


 でもきっと千尋は、今日は絶対に本のことを聞かれないよう、わざと安全な本を選んだのだろう。


 そう思うと、僕は微笑ましい気持ちになった。

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