第82話 1年後
3月上旬、合格発表の日。
パソコンの前に座る僕と千尋。膝の上には、生後4ヶ月になった娘。
千尋の手が震えている。僕の手も、震えていた。
「見るよ」
「うん」
千尋が小さく頷く。
ブラウザを開く。筑波大学の合格発表ページ。
深呼吸をする。
クリック。
画面が切り替わる。
受験番号が、ずらりと並ぶ。
上から順に、僕の番号を探す。
あった。
僕の受験番号が、そこにあった。
「千尋さんのも……」
千尋の番号を探す。
あった。
千尋の番号も、そこにあった。
「合格……」
「合格……!」
二人同時に、声が出た。
その瞬間。
「ああああん!」
娘が泣き出した。
急に大きな声を出した僕たちにびっくりしたんだ。
「あ、ごめんね、ごめんね」
千尋が慌てて娘をあやす。
「びっくりしたね。ごめんね」
僕も一緒に、娘の頭を撫でる。
娘は涙を流しながら、僕たちを見上げている。
不安そうな顔。
「大丈夫だよ。パパとママ、嬉しかっただけなんだよ」
千尋が優しく話しかける。
僕も娘の小さな手を握る。
「ごめんね。びっくりさせちゃったね」
少しずつ、娘の泣き声が小さくなる。
千尋が娘を抱きしめて、揺らす。
娘が落ち着いてきた。
涙の跡が残る小さな顔。
「……ごめんね」
もう一度、娘に謝る。
千尋が僕の手を握った。強く、強く。
僕たちも、涙が溢れてきた。
「やった……やったよ、千尋さん」
「うん……うん……」
千尋が声を上げて泣く。
僕も涙が止まらない。
一年遅れた。
妊娠が分かって、休学して、出産して。育児をしながら、必死に勉強した。
夜中、2時間おきに起きされる。娘が泣くのだ。授乳の時間だ。ミルクを作る。お湯を沸かして、哺乳瓶を消毒して、粉ミルクを溶かす。眠い目をこすりながら、娘を抱く。哺乳瓶を口に含ませる。
娘が飲む。小さな口で、一生懸命。飲み終わったら、背中をトントン。ゲップをさせる。そっとベビーベッドに寝かせる。やっと眠れる。
でも、また2時間後には起きる。
夜中に3回、4回。
朝になると、目の下にクマができている。
千尋も同じ。疲れた顔をしている。
「今日は僕が夜中やるから、千尋さんは寝てて」
「うん、交代でやろう」
二人で支え合った。
昼間は勉強。
参考書を開く。でも、眠い。
目が閉じそうになる。
コーヒーを飲む。顔を洗う。
何とか目を覚まして、勉強を続ける。
娘が昼寝している間が勝負。
この時間に、できるだけ進める。
でも、娘が泣けば、すぐに手を止める。
おむつを替える。ミルクをあげる。抱っこする。
そしてまた、勉強。
正直挫けそうになったことも、何度もあった。
でも、千尋が頑張っていた。
疲れた顔をしながらも、参考書を開く千尋。
娘を抱きながら、単語帳を見る千尋。
その姿を見て、僕も頑張れた。
「一緒に、筑波に行こうね」
二人で、何度もそう言い合った。
そして、今。
二人とも、合格した。
筑波大学に。
娘が、小さな手を伸ばす。
僕の涙を拭おうとするように。
「ありがとう」
娘に、そう言った。
この子がいたから、頑張れた。
この子がいたから、諦めなかった。
千尋が娘を抱き上げる。
「見て、ママもパパも、大学生になれたよ」
娘が、にこっと笑う。
その笑顔を見て、また涙が溢れた。
すぐに母に電話した。
「母さん、合格したよ。千尋さんも」
「本当!? おめでとう!」
電話越しに、母の泣き声が聞こえる。
「頑張ったね、健太。千尋ちゃんも」
「うん……ありがとう」
次に、水野屋のおばあちゃんに電話する。
千尋が受話器を取った。
「おばあちゃん、合格しました」
『千尋ちゃん! よく頑張ったわね!』
「健太さんも、合格しました」
『二人とも、すごいわよ』
千尋の声が震える。
「ありがとう……おばあちゃん」
『筑波で、頑張りなさい』
「はい」
千尋が電話を切ると、また泣き出した。そっと千尋の肩を抱く。
娘も一緒に、三人で、抱き合った。
◆
数週間後、僕たちは筑波に向かった。
アパートを探すため。
三人で暮らせる物件。
予算は限られている。
育児をしながら受験勉強をしていたから、バイトもあまりできなかった。
水野屋のシステムメンテナンスで多少の収入はあるけれど、それだけでは厳しい。
大学近くの不動産屋を何軒も回った。
「この予算だと、ここくらいですね」
不動産屋が案内してくれたのは、1DKの小さな部屋。
六畳一間に、小さなキッチン。
狭い。
でも、家賃は安い。
「ここで、いいかな」
千尋が部屋を見回す。
「うん、十分だよ」
娘を抱いた千尋が、窓の外を見る。
「大学まで、歩いて10分くらい。保育園も近くにあるって」
「じゃあ、ここにしよう」
僕たちの新しい家が、決まった。
4月初旬。
引っ越しの日。
母と、水野屋のおばあちゃんが手伝いに来てくれた。
荷物は少ない。
ベッド、机、娘のベビーベッド、最低限の家具と服。
それでも、狭い部屋はすぐにいっぱいになった。
「狭いけど、これが私たちの家だね」
千尋が、部屋の真ん中に立って言った。
「うん」
娘がベビーベッドから、きょろきょろと部屋を見回している。
「頑張ろうね、三人で」
千尋が娘に話しかける。
娘が笑う。
その笑顔を見て、胸が熱くなった。
ここから、新しい生活が始まる。
母とおばあちゃんが帰った夜。
三人だけの、初めての夜。
娘はすやすやと眠っている。
千尋と二人、ベッドに座る。
「本当に、ここまで来たね」
千尋がつぶやいた。
「うん」
「一年前は……どうなるかと思ったけど」
千尋が、お腹に手を当てる。
妊娠が分かったあの日。
二人とも、真っ白になった。
でも、乗り越えた。
一緒に。
「これからも、大変だと思う」
僕が言う。
「育児と学業の両立……簡単じゃない」
「うん」
千尋が頷く。
「でも、二人でなら、大丈夫」
「そうだね」
手を握り合う。
千尋の手は、温かかった。
入学式の日。
キャンパスに、桜が咲いていた。
千尋と一緒に、並んで歩く。
娘は大学の託児所に預けてきた。
「桜、きれいだね」
千尋が、上を見上げる。
「うん」
「やっと、ここに来られたね」
その言葉に、胸が詰まった。
高校生の時から、ずっと夢見ていた。
筑波大学。
千尋と一緒に、技術と経営を学ぶ。
最強のビジネスパートナーになる。
その夢が、今、目の前にある。
一年遅れたけれど。
大変な道のりだったけれど。
諦めなくて、良かった。
「健太さん、ありがとう」
千尋が立ち止まって、僕を見る。
「え?」
「諦めないでくれて」
千尋の目が、潤んでいる。
「私を、ここに連れてきてくれて」
「僕も、ありがとう。千尋さんがいてくれたから、ここまで来られた」
千尋が微笑む。
桜の花びらが、舞い落ちる。
その中で、僕たちは並んで立っていた。
こうして、僕らの大学生活が始まった。




