第81話 出産
12月中旬のある夜、午前2時。
「健太くん……」
隣に寝ていたはずの千尋の声で目が覚めた。飛び起きる。
「痛い……陣痛かも」
千尋が顔をしかめている。
「本当? 大丈夫?」
「うん……間隔測って」
僕はスマホで陣痛の間隔を測った。約10分間隔。
「おばあちゃん、お母さん!」
慌てておばあちゃんと僕の母さんを起こす。タクシーを呼んで、千尋を支えて病院へ向かった。
冬の夜は寒かった。
病院に着いたのは午前3時。
受付を済ませて、分娩室へ案内された。
「間隔はどれくらいですか?」
助産師さんが聞く。
「10分くらいです」
「分かりました。内診しますね」
千尋がベッドに横たわる。
助産師さんが確認する。
「まだ時間がかかりそうですね」
まだまだなんだ。
「今から麻酔を打ちますね」
これは無痛分娩というらしい。出産のときの痛みを緩和する処置だ。値段的には通常より高くついてしまうけど、負担を千尋にかけたくない、と二人で相談して決めた。
助産師さんが準備を始める。
千尋が背中を丸める。
「少しチクッとしますよ」
麻酔の注射。
千尋が小さく息を吸う。
「終わりました。しばらくしたら楽になりますよ」
10分ほど経つと、千尋の表情が少し和らいだ。
「……少し楽になった」
千尋が小さく言った。
「良かった」
僕は千尋の手を握る。
午前4時。
陣痛の間隔が短くなってきた。
7分おき。
麻酔のおかげで、千尋の痛みは和らいでいるはずだった。
でも、千尋が苦しそうに顔をしかめる。
「うう……」
「大丈夫、呼吸して」
僕は千尋の手を握る。
千尋が僕の手を強く握り返す。
「痛い……」
「頑張って、ちーちゃん」
千尋が涙を流している。
麻酔をしても、痛いんだ。完全に痛みがなくなるわけじゃないんだ。
午前6時。
千尋が苦しそうに顔をゆがめた。
「痛い……また、痛い……」
麻酔の効果が切れてきたんだ。
「麻酔、追加しますね」
助産師さんが言った。
また背中に注射。
千尋が耐えている。
しばらくすると、また少し楽になった様子。
「……ふう」
千尋が息を吐く。
助産師さんが確認する。
「まだ半分くらいですね」
助産師さんが言う。
千尋は疲れた顔をしている。
3時間、陣痛に耐えている。
眠れない。痛みが続く。
「水、飲む?」
「うん……」
千尋にストローで水を飲ませる。
「ありがとう……」
「頑張ってるね」
「もう、疲れた……」
千尋が弱音を吐く。
当然だ。ずっと痛みに耐えている。麻酔をしても、数時間で効果が切れる。そのたびに追加する。
でも、完全に痛みがなくなるわけじゃない。
「大丈夫、もうすぐ会えるよ。赤ちゃんに」
「うん……」
◆
午前8時。
助産師さんが確認する。
「だいぶ進んできましたよ」
助産師さんが言う。
でも、まだ産まれない。
陣痛は5分おき。
千尋が苦しそうに息をする。
「はあ、はあ、はあ」
「呼吸、上手だよ」
僕は千尋の背中をさする。
汗だくになっている。
「健太くん……」
「うん」
「無理、もう無理……」
「大丈夫、もうすぐだから」
5時間。
病院に来てから、もう5時間が経っている。
◆
午前10時。
千尋が苦しそうに叫ぶ。
「痛い……痛い……!」
また麻酔の効果が切れてきたんだ。
「麻酔、追加しますね」
助産師さんがまた注射を準備する。
でも、千尋の痛そうな表情はあまり変わらない。
陣痛が強くなってきて、麻酔だけでは抑えきれないんだ。
助産師さんが確認する。
「もうすぐですよ!」
助産師さんが励ます。
陣痛は3分おき。
千尋が激しく息をする。
「痛い……痛い……」
「もうすぐ、もうすぐだよ」
僕にできることは、ただ寄り添うことだけ。
手を握る。背中をさする。水を飲ませる。
それだけ。
でも、それだけでも、千尋の支えになれたらいい。
◆
午前11時。
ついに、その時が来た。
「準備できました! いきんでいいですよ!」
助産師さんが言った。
病院に来てから、8時間。
やっと。
「ちーちゃん、もうすぐだよ」
「うん……」
千尋が頷く。
疲れ切った顔。でも、目には力がある。
「次の陣痛で、いきみましょう」
助産師さんが準備する。
麻酔は打っているけど、いきむときの痛みは強い。
千尋の表情が緊張で強張っている。
陣痛が来た。
「はい、いきんで!」
「んんんん……!」
千尋が全力でいきむ。
顔が真っ赤になる。
「もっと! もっと!」
「んんんん……!」
千尋が必死にいきむ。
僕は千尋の手を握る。
頑張れ、頑張れ。
「いいですよ! 頭が見えてきました!」
助産師さんが言った。
「もう一回、いきんで!」
陣痛が来る。
「んんんん……!」
千尋が叫ぶ。
そして……。
「オギャア!」
赤ちゃんの産声が響いた。
産まれた。
午前11時。
病院に着いてから、8時間。
やっと、赤ちゃんが産まれた。
涙が溢れた。千尋も泣いている。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
助産師が微笑んで、赤ちゃんを抱き上げた。
「お父さん、抱いてみますか?」
僕は恐る恐る赤ちゃんを受け取った。
小さな、温かい命。
小さい。すごく、小さい。でも、温かい。生きてる。
僕の、子供。千尋との、子供。
この子を、守らなきゃ。絶対に、幸せにしなきゃ。
赤ちゃんが目を開けた。
助産師さんが赤ちゃんを千尋の胸に乗せてくれた。
「赤ちゃん、会えたね」
千尋が赤ちゃんに話しかける。
赤ちゃんが泣き止む。
母親の声を聞いて、安心したんだ。
「小さいね……」
千尋が赤ちゃんの手を触る。
赤ちゃんが千尋の指を握る。
小さな手。
柔らかい。
「僕たちの赤ちゃんだ」
「うん……」
千尋が微笑む。
疲れた顔。でも、幸せそうな顔。
「頑張ったね、ちーちゃん」
「うん……」
千尋が僕を見る。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
でも、笑っている。
「ありがとう、健太くん」
「こちらこそ、ありがとう」
赤ちゃんを見る。
小さな顔。
目を閉じている。
「よろしくね」
赤ちゃんに話しかけた。
赤ちゃんが、少し動く。
僕の声に反応したのかな。
「これから、よろしくね」
もう一度、言った。
父親になった。
この小さな命を、守らなきゃ。
千尋と一緒に。
病院に来てから、8時間。
長かった。
でも、この瞬間のため。
全部、この瞬間のため。
ありがとう、千尋。
ありがとう、赤ちゃん。
僕も、父親として頑張るから。




