第80話 新しい生活
5月、両家への報告が終わってから、僕たちの新しい生活が始まった。
結婚を決めた僕らは、お互いの呼び名を変えることにした。
「これからは、健太くんって呼んでもいいですか?」
千尋が恥ずかしそうに聞いた。
「もちろん。じゃあ僕は、ちーちゃんって呼んでいいですか?」
「ちーちゃん……」
千尋が顔を赤らめた。
「恥ずかしいけど……嬉しいです」
それから、以前に比べて気安い言葉を使うようになった。夫婦になるんだから、もっと距離を縮めたかった。
同棲するかどうか、悩んだ。
「健太くん、一緒に住んでくれる?」
千尋が聞いた。
「うん。でも、母さんが一人になっちゃうから……でも、母さんに聞いてみるよ」
母さんに相談すると、「一緒に住みなさい。私のことは気にしないで。千尋さんを労ってあげなさい」と言ってくれた。
こうして僕らは同棲することになった。
水野家に同棲させてもらうことになった日。
「健太さん、こちらがあなたのお部屋です」
おばあちゃんが二階の部屋を案内してくれた。和室で、窓からは庭が見える。
「こんな立派な部屋……」
「一応歴史ある家なので部屋はたくさんあるんですよ。千尋の部屋はお隣です」
千尋が恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。受け入れてもらえて、本当に良かった。
学校には復学したけど、千尋は体調を考えて休みがちになった。僕は毎朝千尋の様子を確認してから学校へ行った。
◆
5月下旬。千尋のつわりが始まった。
「……気持ち悪い」
千尋がトイレに駆け込む。
そして青白い顔で出てきた。
「大丈夫?」
「一通り吐いたら楽になったけど……でも、何も食べられない」
朝食のテーブルに並んだご飯やみそ汁を見ただけで、千尋は顔をしかめた。お米の炊けた匂いが駄目らしい。
「無理しないで。食べられるものだけでいいから」
おばあちゃんが心配そうに言った。
日が経つにつれて、千尋はどんどん痩せていった。頬がこけて、目の下にクマができた。げっそりとした姿を見るのが辛かった。
「ちーちゃん、何か食べたいものない?」
「……グレープフルーツなら、食べられるかも」
僕は毎日学校帰りにグレープフルーツを買って帰った。それだけが千尋の食事だった。
一ヶ月ほど、そんな日々が続いた。
6月に入ると、少しずつ変化が見えてきた。
「今日、ゼリー食べられたんです」
千尋が嬉しそうに報告してくれた。
「本当? 良かった」
それから、少しずつ食べられるものが増えていった。おかゆ、うどん、フルーツ。次第に普通の食事も口にできるようになった。
ちょっとずつ、以前の千尋に戻っていった。
◆
6月中旬。
「バイトしようかと思って。コンビニとか」
和也に相談した。赤ちゃんのためにお金を貯めたい。
「コンビニか……でも、健太ならもっといいバイトあるんじゃない?」
「え?」
「兄貴に相談してみたら? 技術系の会社やってるし」
数日後、卓也さんに呼ばれた。
「健太、バイトの話、和也から聞いたぞ」
「はい」
「コンビニ考えてるって?」
「赤ちゃんのためにお金を貯めたいんです」
卓也さんは即座に首を振った。
「時間を売るな。技術を売れ」
時間を売るな。技術を売れ。
心のなかで反芻する。
「どういう意味ですか?」
「コンビニは誰でもできる仕事だ。時給1250円くらいだろ。でもプログラミングは違う。専門技術がある仕事は、時給1800円、2000円と高くなる。企業というのは、レアリティにお金を払うんだ。誰でもできる仕事の場合はどうしても安くなってしまう。でもお前は技術を持ってるだろ?だったらそれ相応の対価をもらうべきだ」
なるほど……。
「お前、水野屋のシステム作っただろ。それだけの技術があるなら、もっと稼げる」
確かに、同じ時間働くなら、技術を活かした方が稼げる。
「でも、僕なんて……」
「俺を手伝え。うちの会社で簡単なコーディング作業がある。高校生でもできる範囲だ」
「本当ですか?」
「ああ。時給1800円。週3日、放課後に3時間。それで月6万5千円くらいになる」
コンビニだと時給1250円で週3日3時間、月4万5千円くらい。2万円も違う。
「お願いします!」
水野屋のお手伝いと、卓也さんの会社の仕事。どちらも技術を活かせる。
技術があれば、高校生でも稼げる。卓也さんの言葉が身に染みた。
◆
6月下旬。千尋の誕生日。
水野家でお祝いをした。ケーキとプレゼント。みんなが「おめでとう」と言ってくれた。
「ちーちゃん、今日役所行こう」
「入籍……ですか?」
「うん。18歳になったから」
二人で役所へ向かった。婚姻届を提出する。
窓口で書類を確認されて、「おめでとうございます」と言われた。
あっという間だった。
外に出ると、夏の日差しが眩しかった。
「入籍届を出すのって、こんなにシンプルなんですね」
千尋が驚いたように言った。
「本当だね。でも、これで正式に夫婦だよ」
「夫婦に、なったんですね」
千尋が照れくさそうに言った。
「うん。これからよろしくね、ちーちゃん」
「こちらこそ、健太くん」
手を繋いで、ゆっくりと帰った。
◆
7月。夏休みが始まった。
千尋のつわりはほぼ収まっていた。お腹は少しずつ膨らんできている。
「赤ちゃん、元気かな」
千尋が自分のお腹を撫でる。
「検診、楽しみだね」
病院での定期検診。エコーで赤ちゃんの姿を見るのが、毎回楽しみだった。
卓也さんの仕事にも慣れてきた。簡単なウェブサイトの修正や、データ入力の自動化スクリプト。学んだことを活かせる。
水野屋のシステムメンテナンスも週一で続けた。オンライン注文は順調だった。
◆
9月。新学期が始まった。
千尋のお腹はだいぶ大きくなってきた。制服がきつくなって、マタニティウェアを着るようになった。
学校では色々な目で見られた。色々影でも言われているらしい。でも、もう気にしない。
受験勉強は、できる範囲で。無理はしない。夜、1時間だけ机に向かう。焦らない。2年かかっても、3年かかっても、いい。
◆
10月、紅葉の季節。千尋のお腹はさらに大きくなった。
10月の検診で、エコーで赤ちゃんの姿を見た。小さな手、小さな足。動いている。涙が出た。
「元気に育ってますよ」
医師の言葉に、千尋も泣いていた。
11月。気温が下がってきた。赤ちゃん用品を少しずつ揃え始めた。ベビーベッド、ベビーバス、メリー、おむつ、服。全部、アルバイトで貯めたお金で買った。
「こんなに小さいんだね」
赤ちゃんの服を見て、千尋が嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ健太くん、これ見て」
千尋がスマホを見せてくれた。
「モンテッソーリ教育?」
「赤ちゃんの自主性を育てる教育法らしいんです。調べてたら、すごくいいなって」
画面には、赤ちゃんの発達段階に合わせた遊びや環境作りの方法が書かれていた。
「こういうの、勉強しておきたいですね」
「うん。一緒に勉強しよう」
赤ちゃんのために、できることは全部やりたい。
そしていよいよ12月。予定日まで、あと数日。
千尋のお腹は大きく、いつ産まれてもおかしくない状態だった。いつでも病院に行けるように準備していた。
「いつ産まれるかな」
千尋が自分のお腹を撫でながら言った。
「もうすぐだよ」
僕は千尋の手を握った。
もうすぐ、父親になる。本当に大丈夫かな。でも、やるしかない。
5月から始まった新しい生活。つわりの辛さも、アルバイトの大変さも、全部この日のため。
赤ちゃんに会える日が、もうすぐそこまで来ていた。




