第78話 優先順位
数日後、病院を退院した。
母さんの車に乗って、自宅へ向かう。窓から見える景色は、新緑の季節へと移り変わっていた。桜は散って、若葉が芽吹いている。
「健太、しばらくは安静にしてね」
母さんが優しく言った。
「うん、分かってる」
学校も、もうしばらく休むことになる。でも、今は休むことが必要だ。病院で、色々なことを考えた。もう逃げない。千尋さんと、ちゃんと話さなきゃ。
自宅に着いて、部屋に戻る。いつもの部屋。いつもの景色。でも、すべてが違って見えた。
「健太、千尋さんと話す?」
母さんが部屋のドアを開けて聞いてきた。
「うん」
「お母さん、応援してるから」
「ありがとう」
母さんが微笑んで、ドアを閉めた。
午後、千尋が家に来た。
母さんが千尋を部屋まで案内してくれる。ドアが開いて、千尋が入ってきた。
「健太さん……」
千尋が少し不安そうな顔で僕を見る。
「千尋さん、来てくれてありがとう」
「大丈夫ですか? 体、まだ無理しないでくださいね」
千尋が椅子に座る。少し緊張した空気が流れた。
「千尋さんは、大丈夫ですか? つわり、まだ辛いですか?」
「うん……少し落ち着きました」
千尋が小さく微笑む。
「でも、まだグレープフルーツくらいしか食べられなくて」
「グレープフルーツ……」
「酸っぱいものじゃないと、受け付けないんです」
「そうだったんですか……」
つわりの辛さを、僕は本当には理解できていなかった。でも千尋は、ずっと一人で耐えてきたんだ。
「ごめんなさい、千尋さん。倒れちゃって、心配かけて」
「私こそ、ごめんなさい……」
「千尋さんのせいじゃないですよ」
僕は手を伸ばして、千尋の手を握った。千尋も、僕の手を握り返してくれた。
しばらく、沈黙が続いた。
「あのね……」
千尋が口を開いた。少し躊躇している様子。
「何ですか?」
「周りから、色々言われて……」
千尋が俯く。
「何をですか?」
千尋が少し震える声で言った。
「まだ高校生だし……中絶という選択肢もあるって」
胸が締め付けられた。
「おばあちゃんも、お母さんも……心配してくれて。でも、私……」
その瞬間、僕は千尋の言葉を遮った。
「産みましょう」
千尋が驚いて顔を上げる。
「二人で育てましょう。絶対に」
僕は千尋の手を強く握った。
千尋の目に涙が浮かんでいる。
「健太さん……」
「中絶なんて、考えられません。これは僕たちの子供です」
僕は千尋を真っ直ぐ見つめた。
「僕、病院で決めたんです。もう逃げないって。千尋さんと赤ちゃんを、絶対に守るって」
千尋が涙を流しながら頷いた。
「私、どうしても産みたいんです。私と健太さんの子を」
千尋が僕を見つめる。
「でも……私たち、高校生です。それでも、いいんですか?」
僕は即座に答えた。
「はい。なんとかしますよ!」
千尋の目が見開かれる。
「絶対に、幸せにします。千尋さんも、赤ちゃんも」
千尋が、また泣き出した。でも今度は、少し安心したような涙だった。
僕は千尋を抱きしめた。千尋も、僕にしがみついてきた。
しばらくして、千尋が顔を上げた。
病室で、小林先生が教えてくれたことを思い出す。
「人生には優先順位がある」
「今のお前にとって、一番大事なものは何だ?」
先生、分かりました。
「千尋さん」
僕は千尋を見つめた。
「僕、決めたんだ」
「うん」
「優先順位を」
千尋がじっと僕を見ている。
「僕にとって一番大事なのは、千尋さんと赤ちゃんを幸せにすること。それが最優先」
千尋が涙ぐむ。
「他のことは、二番目でいい。でも、諦めない」
「でも、筑波大学は……? 健太さんの夢でしょ?」
「諦めませんよ」
千尋が不思議そうな顔をする。
「一年遅れるだけ」
「え……?」
「今年は受験しない。今年は、千尋さんと赤ちゃんのために使う」
僕は千尋の手を握った。
「結婚の準備、出産の準備。そして来年、二人で筑波を受験する」
「二人で……?」
「うん。千尋さんも一緒に」
千尋が驚いた顔をする。
「でも、私……赤ちゃん産んだら、勉強する時間、ないですよ」
「できる範囲でいいんです。無理をやめましょう」
「2年かかっても、3年かかっても、できる範囲でやれることをやっていきませんか?」
千尋がまた泣き出した。でも今度は嬉しそうな涙だった。
「健太さん……ありがとうございます」
「僕こそ、ありがとうございます」
二人で並んで座る。窓の外、桜の木は新緑に変わっていた。春の終わり。
「水野屋の新しい開発も、一旦止めます。かなり仕組みも出来上がって、軌道に乗ったと思いますので。メンテナンスは続けるつもりです。今のシステムを維持するだけなら、負担は少ないから」
千尋が頷く。
「技術の勉強も続ける。余裕があるときだけにして、義務感は持たないようにするつもりです」
「私も、経営の勉強したいです」
千尋が前を向いて言った。
「筑波で、技術と経営を学んで」
「最強のビジネスパートナーになる」
二人で微笑む。
「約束ですね」
「はい、約束です」
千尋が帰った後、母さんが部屋に来た。
「話、ついた?」
「うん。産むことにした」
母さんが少し表情を曇らせる。
「今年の受験は諦める」
「……そう」
「そして千尋さんと子供を最優先にする。受験勉強は細く長く続けて、来年以降にするつもり。それならだいぶ余裕あると思うから」
母さんは、僕を見て微笑んだ。
「色々考えたのね。そこまで考えているのなら私から言うことはなにもないわ。お母さん、応援する。大変だろうけど、一緒に頑張りましょう」
「お母さん、ごめん。期待に応えられなくて」
「何言ってるの。あなたは立派に決断したわ」
母さんが優しく言った。
「少し遅れるだけでしょ? 夢は諦めてないのね」
「うん」
「じゃあ、大丈夫」
母さんが微笑む。
「あのね、お母さん」
僕は少し言いにくそうに口を開いた。
「来年、大学に通うってことは……お金がかかるよね」
母さんが僕を見る。
「学費も、生活費も。千尋さんと赤ちゃんもいて」
「アルバイトもするけど、それだけじゃ……」
僕は俯いた。
「甘えさせてもらえないかな。学費のこと、少し助けてほしい。絶対に、卒業して恩返しするから」
母さんがじっと僕を見た。
「健太」
「うん」
「そんなの、当たり前じゃない」
「え?」
「あなたはまだ18歳よ。お母さん、応援するって言ったでしょ」
母さんが優しく微笑む。
「学費のことは心配しないで。あなたは、勉強と子育てを頑張りなさい」
「お母さん……」
涙が出てきた。
「ありがとう。絶対、いい大学出て、いい仕事して、恩返しする」
「楽しみにしてるわ」
母さんが部屋を出ていった。
夜、ベッドに横になった。天井を見上げる。
優先順位。無理をやめる。できる範囲で。
小林先生が教えてくれたこと。今日、千尋さんに伝えられたこと。
千尋さんと、お腹の赤ちゃん。それが一番。
筑波大学も、技術も、水野屋も大事。でも、それは二番目。
全部を完璧にはできない。でも、無理をしなければ、全部手に入れられる。
2年かかっても、3年かかっても。
千尋さんと一緒に、一歩ずつ。
明日から、新しい人生が始まる。
怖い。不安。でも、一人じゃない。
千尋さんがいる。お腹の赤ちゃんがいる。母さんがいる。
だから、大丈夫。
無理をやめて、できる範囲で、夢を叶えていこう。




