第77話 決断
窓の外が明るい。
朝が来てしまった。
眠れなかった夜。
目は腫れ、喉は痛い。
これから、どうすればいいんだろう。
千尋さんに、何て言えばいいんだろう。
母さんに、どういえばいいんだろう。
ドアがノックされた。
「おはようございます。朝食です」
看護師さんが入ってくる。
「……食欲がないです」
「少しでも食べてくださいね」
僕は少しだけ頷いた。
看護師さんが出ていく。
一人になった。
トレイの上の朝食。
パンと卵とサラダ。
食べなきゃ。
でも、喉を通らない。
筑波大学。
千尋さんと一緒に行く約束をしてた。
千尋さんと一緒に、キャンパスを歩く姿を想像してた。
二人で勉強して、二人で未来を作る。
技術と経営。
最強のビジネスパートナー。
「健太さんと一緒なら、頑張れます」
千尋さんが、目を輝かせて言ってくれた。
「筑波大学で、たくさん学んで、一緒に水野屋を大きくしましょうね」
あの笑顔。
小林先生も、応援してくれてた。
「佐藤、君なら筑波大学に入れるよ」
情報科の授業の後、声をかけてくれた。
「技術の習得も早いし、論理的思考力もある。
やればできる。自信を持って」
優しく微笑んでくれた。
先生の励ましが、嬉しかった。
「ありがとうございます。頑張ります」
そう答えた。
千尋さんと同じ大学に行ける。
四年間、一緒に過ごせる。
技術を学んで、千尋さんを支えられるようになる。
そんな未来を、ずっと夢見てた。
母さんも、期待してくれてた。
「筑波大学、いいわね。頑張って」
優しく微笑んでくれた。
でも、もう……
全部、ダメになった。
今年の受験は無理。
千尋さんも受験どころじゃない。
お腹に……赤ちゃんがいる。
「やればできる」
小林先生の励ましが、皮肉にも別の意味で現実になった。
できてしまった。
本当に、できてしまった。
赤ちゃんが。
母さん、ごめん。
期待を裏切った。
千尋さん、ごめん。
約束を破った。
筑波大学も、諦めることになった。
全部、僕のせいだ。
パンを一口、口に入れる。
でも味がしない。
涙でぐちゃぐちゃになる。
しばらくして、またドアがノックされた。
「入ってもいいか?」
小林先生。
「先生……」
先生が椅子に座る。
「山田くんから聞いたよ。で、詳細はさっきお母さんから聞いた」
先生がじっと僕を見る。
「泣いてたか」
「……すみません」
「謝ることじゃないだろう。泣いていい。辛いだろう」
また涙がこみ上げる。
先生は何も言わずに僕が落ち着くのを待っていてくれた。
「先生……僕、退学になるんですか?」
「ん?」
「妊娠させて……高校生なのに……」
「まあ、それはこっちでなんとかするよ」
少しホッとする。
でもすぐに不安が戻る。
「でも……これから、どうすれば……」
先生がじっと見る。
「ここ最近の佐藤を見てて、な」
「……?」
「昔の自分を見てるみたいだったよ」
「え?」
先生は少し遠くを見つめる表情になった。
「俺もあの頃、色々なことが多くて。
押しつぶされそうだった」
先生も……?
「仕事も、家族も、夢も、全部完璧にやろうとしてた。
でも無理だったんだよ、結局」
先生の声が静かだ。
「その時に、自分の人生で一番大事なことを整理した。
それ以外は全部捨てる、一旦忘れることにしたんだ」
一旦……忘れる?
「だからあらためて聞かせてほしいんだけど」
先生が僕を見つめる。
「今のお前にとって、一番大事なものは何だ?」
一番大事なもの……
「一日でも早く大学に入ること?」
それは……
「水野屋に技術を導入すること?」
それも……
「それとも……」
一番大事なもの。
大学?
技術?
違う。
「……千尋さんを、そして僕と千尋さんの子供を、幸せにすることです」
先生が微笑んだ。
「そうか。じゃあ、それが答えだ」
答え?
「物事には優先順位がある」
先生が言った。
先生はカバンから紙とペンを取り出した。
「こういうやらないといけないことが積み重なって、わけがわからなくなったときに整理することを『棚卸し』っていうんだ。で、その棚卸しの方法を教えてやろうと思う」
先生が紙の中央に丸を描く。
「まず中央に、自分が今やらないといけないことを全部書く」
先生が丸の中に書いた。
「大事なこと」
「そこから枝を伸ばして、具体的に何をやるべきかを書いていく」
先生が説明しながら、枝を伸ばしていく。
一つ目の枝。「家族」
そこからさらに枝を伸ばす。「守る」「一緒にいる」
二つ目の枝。「仕事」
そこからさらに枝を伸ばす。「収入」「成長」
三つ目の枝。「夢」
そこからさらに枝を伸ばす。「やりたいこと」「実現したいこと」
「真ん中にあるのが『やるべきこと』。枝が『具体的な行動』。そしてさらに枝を伸ばして『なんのためにやるのか』を書く。
まあ、必ずしもこの関係である必要はないんだが、こんな感じに関連しているものを樹形図のようにかいていく。
こうすると、何が一番大事で、何のためにそれをやるのかが見えてくる」
先生が紙を僕に渡した。
「お前も描いてみろ。まず、中央に何を書く?」
僕はペンを取って、考える。
大事なこと……
中央に丸を描いた。
そして、書いた。
「大事なこと」
「じゃあ、そこから枝を伸ばして。今のお前が『やらないといけないこと』『やりたいこと』は何だ?」
僕は考えながら、枝を伸ばしていく。
一つ目の枝。「千尋さんと子供」
二つ目の枝。「筑波大学入学」
三つ目の枝。「水野屋のフォロー」
書き終えて、紙を見た。
「良いな。じゃあ、それぞれについて『なぜ?』を考えていこう」
先生が一つ目の枝を指さす。
「『千尋さんと子供』、これはなんのためだ? なぜそれをやらないといけない?」
先生が問いかける。
僕は考える。
なぜ……
そこからさらに枝を伸ばす。
「守りたいから」
「愛しているから」
書いた瞬間、胸が熱くなった。
「次は?」
先生が二つ目の枝を指さす。
「『筑波大学入学』、それはなぜだ? 筑波大学に入って何をしたい?」
僕は考える。
筑波大学で……
そこからさらに枝を伸ばす。
「勉強」「技術習得」「大学卒業の実績」「セルフブランディング」
書いていくうちに、自分の中でぼんやりしていたものが、形になっていく。
「最後は?」
先生が三つ目の枝を指さす。
「『水野屋のフォロー』、それはなぜだ?」
僕は書く。
「千尋さんのため」「千尋さんの家族のため」
書き終えて、紙を見た。
不思議だ。
さっきまで頭の中でぐちゃぐちゃだったものが、整理されていく。
全部、千尋さんに繋がってる。
「筑波大学入学」も「水野屋のフォロー」も、全部「千尋さんのため」だ。
でも、今一番大事なのは……
「千尋さんと子供」
それを守ること。
「この考え方の整理の方法が、マインドマップっていうんだ」
先生が言った。
「自分の中にある『やりたいこと』『やらないといけないこと』『なぜ?』を、こうやって構造化していく。そうすると、何が一番大事で、何のためにそれをやるのかが見えてくる」
僕は紙を見つめた。
本当だ。
さっきまで全部同じだと思っていたものに、実は優先度があったのだ。
混乱していた頭の中が、すっきりしている。
「……分かりました」
僕は先生を見た。
「筑波大学は、今年は諦めます」
先生が頷く。
「でも、夢は諦めません。一年、いや数年遅れても、必ず筑波大学に入ります。千尋さんと、二人で」
先生が微笑んだ。
「そうか。じゃあ、それでいいんじゃないか?お前が今、一番大事にすべきは何か、それが分かったなら、あとは実行するだけだ」
僕は頷いた。
先生が立ち上がる。
「じゃあな、佐藤。
辛いだろうけど、お前なら大丈夫だ」
先生が去っていく。
また一人になった。
でも、昨夜とは違う。
少しだけ、道が見えた気がする。
マインドマップを見つめながら、僕は考える。
一番大事なのは、千尋さんと子供だ。
まずそれを最優先にする。
千尋さんを支えて、一緒に赤ちゃんを育てる。
中絶なんて、考えられない。
次が筑波大学入学。
ただし、これは今年である必然性はない。
一年遅れても、二年遅れても、いつかは必ず入る。
千尋さんと一緒に。
技術も経営も、そこで学べばいい。
最後が水野屋。
システムはもう軌道に乗った。
あとは、隙を見て改善していけばいい。
焦る必要はない。
優先順位が見えた。
全部を同時にはできない。
でも、一つずつなら、できる。
まずは家族を大事にしよう。
千尋さんに会って、これを伝えよう。
「一番大事なのは、千尋さんと赤ちゃんだ」って。
「一緒に頑張ろう」って。
安心させてあげよう。
まずは、ここからだ。
涙を拭いて、僕は決めた。
これからが、本当の始まりだ。




