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7時22分の電車で始まる恋  作者: ほしみん


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第76話 咽び泣く

 白い天井。


 視界がぼやけている。


 まぶたが重い。


 体が鉛のように重い。


 病院のベッド。


 点滴につながれている。左手の甲に針が刺さっている。チクチクと痛い。


 消毒液の匂い。病院特有の、あの匂い。


 喉が渇いている。カラカラだ。


 頭が痛い。ズキズキと脈打つように痛む。


 ぼんやりと目覚めた。


 ここは……どこだろう。


 何があったんだっけ。


 記憶が戻ってくる。


 そうだ……千尋の部屋で。


 薄暗い部屋。カーテンが閉まっていた。


 千尋さんがベッドに座っていた。


 蒼白な顔。腫れた目。


 千尋さんが言った。


『できてました』


 その言葉。


 その瞬間、世界が崩れた。


 めまいがした。


 立っていられなくなった。


 膝から力が抜けた。


 視界が暗くなって。


 僕は倒れた。


 その後……覚えてない。


 救急車のサイレン。ストレッチャー。


 断片的な記憶だけ。


 ここは……病院?


 そうか、倒れて運ばれたんだ。


 現実感がじわじわと戻ってくる。


 胸が苦しい。呼吸が浅い。


 体は重いのに、心臓だけが早く打っている。


「目が覚めましたか。今話せますか?」


 医師が入ってきた。僕は無言で頷く。


「診断結果ですが、過労と極度のストレスです」


 過労……


「このままだと受験どころじゃないですよ。しばらく安静が必要です」


 受験どころじゃない……


 そんなこと、もう……


 千尋さんが……妊娠……


 頭がぼんやりする。




 午前中、母さんが病室に入ってきた。


 疲れた表情。でも優しい。


「健太……大丈夫?」


「……うん」


 母さんが椅子に座る。


「千尋さんから、聞いたわ」


 心臓が跳ねた。


「……赤ちゃんができたって」


 母さんの声が震えている。


「お母さん、正直びっくりしたわ。まだ高校生なのに」


「……ごめん」


「でもね、なんとかなるわよ」


 母さんが僕の手を握った。


「あなたが無事なら、それでいいの」


「赤ちゃんのことは、みんなで考えましょう。一人で抱え込まないで」


 母さん……


 本当に、ごめん。


 僕の目から涙がこぼれた。




 午後、和樹が来た。


「よお、生きてたか」


 いつもの調子。でも心配そうだ。


「和樹……」


「兄貴から伝言」


 和樹が少し真面目な顔になる。


「『ほれみろ』だって」


 ああ……


「約束通り、勉強教えるのやめるからな、って」


「……そうか」


 当然だ。


 僕が、約束を破ったんだから。


「『すみませんでした』、って伝えておいてくれ」


「おう。まあ口ではあー言ってたが実際、兄貴もお前のこと心配してたぜ」


 和樹が言った。


「……俺も心配したよ」


「ありがとう」


「大変だろうけど、お前なら大丈夫」


 和樹が肩を叩く。


「何かあったら言えよ」


「……うん」


 大丈夫。なのだろうか。


 僕は「大丈夫」を信じられなくなっていた。




 夕方、おばあちゃんと千尋が来た。


 おばあちゃんは複雑な表情。


 千尋の目は腫れている。


「健太くん、無理しすぎよ」


 おばあちゃんが優しく言った。


「……色々あるけど、大丈夫よ。千尋のこと、よろしくね」


 おばあちゃんが微笑む。


「……ごめんなさい」


 千尋が泣きそうな顔で言った。


「私のせいで……」


「違うよ、千尋さんのせいじゃない」


 僕のせいだ。


 おばあちゃんが席を外してくれた。


 千尋と二人きり。


 沈黙。


 重苦しい空気。


 何を言えばいいか分からない。


 千尋が椅子に座っている。俯いたまま。


 僕はベッドに横になったまま、千尋を見ている。


 千尋の肩が震えている。


 泣いているのか。


 いや、怖くて震えているのかもしれない。


 僕も怖い。


 何をどうすればいいのか、全然分からない。


「どうしよう、健太さん」


 千尋が小さく言った。


 顔を上げない。俯いたまま。


「私……怖い」


 声が震えている。


「大丈夫……だよ」


 出てきた言葉は、またそれだった。


 でも声に自信がない。


 僕も、ずっと「大丈夫」って言ってた。


 温泉も、受験勉強も、水野屋も、全部「大丈夫」って。


 それでこうなった。


「大丈夫」なんて、もう言えない。


「大丈夫」なんて、嘘だった。


 でも、千尋さんを不安にさせたくない。


 他に何て言えばいいんだろう。


 千尋がゆっくりと顔を上げた。


 目が真っ赤だ。ずっと泣いていたんだ。


「健太さん……」


 千尋の声が途切れる。


 何か言いたそうだけど、言葉にならない。


 僕も何も言えない。


 千尋が立ち上がって、ベッドの近くに来た。


 僕の手を取る。


 その手が震えている。冷たい。


 千尋が僕の手を強く握った。


 千尋さん……


 抱きしめたい。


 でも、どう慰めていいか分からない。


 今まで、千尋さんを抱きしめた時は、いつも幸せだった。


 温かくて、優しくて、愛しくて。


 でも今は違う。


 二人とも怖くて、不安で、どうしていいか分からなくて。


 抱きしめても、この不安は消えない気がする。


「愛してる」って言いたい。


 でもその言葉すら、今は重すぎる。


 二人とも怖い。


 未来が見えない。


 握り合った手だけが、唯一の繋がり。


「面会時間は終了です」


 看護師さんが声をかけた。


「また来るね」


 千尋が力なく微笑むと、立ち上がる。


 去っていく千尋の後ろ姿。


 僕は一人になった。




 夜。


 一人の病室。


 静かな病院。


 窓の外は暗い。


 廊下から聞こえる足音。ナースステーションの小さな話し声。


 でも、僕の心は、それよりもっと静かだ。


 何も考えられない。


 いや、考えたくない。


 でも、次々と思い出が押し寄せてくる。


 僕は、何をやってたんだろう。


 あれもこれも、全部完璧にって。


 受験勉強、水野屋、技術、千尋さん。


 筑波大学。


 千尋さんと一緒に、キャンパスを歩く姿を想像してた。


 広い構内。緑の多いキャンパス。


 千尋さんと手を繋いで、図書館に行く。


 一緒に勉強する。


 技術と経営を学んで、将来は二人で何か作る。


 水野屋をもっと大きくする手伝いをする。


 そんな未来を、ずっと夢見てた。


 でも……


 もう、無理だ。


 今年の受験なんて、できるわけがない。


 千尋さんも、受験どころじゃない。


 お腹に……赤ちゃんがいる。


 水野屋のStripe決済システム。


 あれが動いた時、すごく嬉しかった。


 おばあちゃんが喜んでくれた。


 千尋さんも「健太さんってすごい」って言ってくれた。


 技術で誰かを幸せにできた。


 その実感が、嬉しかった。


 卓也さんに教えてもらった技術。


 もっと学びたかった。


 もっと深く、プログラミングを理解したかった。


 でも、卓也さんは僕を見放した。


「ほれみろ」


 その言葉が、胸に刺さる。


 でも、全部中途半端だった。


 受験勉強、ちゃんとできてなかった。


 睡眠時間を削って、必死にやってたつもりだった。


 でも足りなかった。


 水野屋、今はストップしてる。


 メンテナンスもできてない。


 技術、卓也さんに見放された。


 約束を破った僕が悪い。


 そして、千尋さんを……妊娠させてしまった。


 温泉での、あの夜。


 気持ちよかった。


 千尋さんと一緒にいられて、幸せだった。


 でも、あの時。


 避妊のこと、忘れてた。


 いや、忘れてたんじゃない。


 買おうとしたけど、疲れてて、その気力もないと思ってた。


 だから買わなかった。


 でも温泉で、そういう雰囲気になって。


 その時、考えるべきだった。


 でも、考えられなかった。


 疲れすぎて、判断できなかったんだ。


 千尋さんの温もりに夢中で、何も考えられなかった。


 僕の無理が、全部壊した。


 千尋さんの未来も。


 千尋さんだって、筑波大学に行きたかったはずだ。


 技術と経営を学びたいって、目を輝かせて言ってた。


 それが、もう無理になった。


 お腹の赤ちゃんも。


 赤ちゃん。


 僕と千尋さんの子供。


 愛しいはずなのに。


 嬉しいはずなのに。


 今は、怖い。


 どうやって育てればいいのか。


 高校生の僕たちに、赤ちゃんなんて。


 母さんの期待も。


 筑波大学に行って、技術者になって。


 母さんは何も言わなかったけど、期待してくれてた。


 それも、裏切った。


 全部、僕のせいだ。


 涙が溢れた。


 止まらない。


 声を殺して泣く。


 枕に顔を埋める。


 咽び泣いた。


 もう、何もかも失った。


 大学受験なんて、無理だ。


 技術なんて、意味がない。


 千尋さんとの未来も、こんな形になるなんて。


 僕は、何も守れなかった。


 何も……


 千尋さん、ごめん。


 お母さん、ごめん。


 卓也さん、ごめん。


 和樹、ごめん。


 みんな、ごめん。


 僕は……僕は……


 何も守れなかった。


 夜は長い。


 眠れない。


 何度も涙があふれる。


 窓の外が少しずつ明るくなる。


 でも心は暗いまま。


 これから、どうすればいいんだろう。


 何も見えない。


 朝が来るのが、怖かった。


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