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7時22分の電車で始まる恋  作者: ほしみん


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第75話 真っ白

「……入ってください」


 小さな、弱々しい声。


 ドアノブに手をかける。冷たい。


 深呼吸をして、ドアを押した。


 部屋は薄暗い。カーテンが閉まっている。


 窓の隙間から漏れる光だけが、ぼんやりと部屋を照らしている。


 千尋がベッドの端に座っている。


 背中を丸めて、俯いたまま。


 蒼白な顔。目は腫れて、真っ赤だ。


 泣いていたことが、すぐに分かった。


 いつも笑顔で、前向きな千尋が。


 こんな風に、一人で抱えきれないものを背負っている。


 僕がドアを開けても、顔を上げようとしない。


 空気が重い。息苦しいほどに。


 何があったんだろう。


 ゆっくりと部屋に入る。時計の音だけが、やけに大きく響いている。


「千尋さん……大丈夫ですか?」


 声が震えた。


 後ろ手でドアを閉める。


 カチャリという音が、静かな部屋に響く。


 千尋は顔を上げない。


 ベッドの端まで歩く。数歩の距離が、やけに遠く感じる。


 ゆっくりと隣に腰を下ろした。


 ベッドが少し沈む。


 千尋の存在を、すぐそばに感じる。


 でも、遠い。


 すごく、遠い。


「ずっと心配してました」


 返事はない。


 千尋は俯いたまま、膝の上で手を握りしめている。


 その手が、小刻みに震えているのが見えた。


 重い沈黙。


 壁の時計の音だけが聞こえる。


 カチ、カチ、カチ。


 規則的な音が、妙に大きく響く。


 どうしよう。


 何て声をかければいいんだろう。


 千尋、すごく辛そう。


 見ているだけで、胸が痛い。


 何があったんだろう。


 おばあちゃんは「話を聞いてあげて」と言った。


 風邪じゃない……よね。


 こんな雰囲気、ただの体調不良じゃない。


 もっと、深刻な何か。


 時間が、ゆっくりと流れる。


 しばらくして、千尋がゆっくりと顔を上げた。


 目が真っ赤だった。


 唇が震えている。


「あの……ですね……」


 小さな、震える声。千尋が僕を見つめる。


「あの日が来なかったんです」


 あの日。


 あの日って。


「それでおかしいなって、検査薬を使ったら──」


 検査薬。ここまでくれば話がわかる。


「できてました」


 子供が──


 時間が止まった。


 言葉の意味が理解できない。


 え?


 妊娠?


 千尋が?


 待って……妊娠って……


 頭の中で、記憶が巻き戻される。


 温泉。家族風呂。あの夜。


 二人だけの空間で、千尋の白い肌。恥ずかしそうに俯く表情。


 でも、僕を受け入れてくれた。


 お互いの体温を感じて。優しく、温かく。


 世界で一番、大切な人と繋がっている実感。


 何もかもが満たされていた。


 あの時、確かに……避妊、してなかった。


 千尋の温もりに夢中で、何も考えられなかった。


 でも、その結果が、今。


 あの一回で……?


 目の前にいる千尋を、こんなに追い詰めている。


 教科書で習ったことが、他人事じゃなくなった。


 まさか、自分が。まさか、千尋が。


 避妊のこと。その後のこと。責任のこと。


 ちゃんと、考えなきゃいけなかった。


 僕が、無責任だった。


「え……えっと……」


 言葉が出ない。


 喉が渇いて、声にならない。


 頭が真っ白だ。


 何も考えられない。


 ただ、「妊娠」という言葉だけが、頭の中で響いている。


 呼吸が早くなる。心臓がドクドクと激しく打つ。


 千尋が泣き出した。


「ごめん、ごめんね。どうしよう……どうしよう……」


 声を上げて泣く千尋。


 僕も混乱している。


 手が震える。


 妊娠……


 千尋さんが……


 どうしよう。


「怖い……すごく怖い」


 千尋が言った。


「これから、どうすれば……お父さんにもお母さんにも言えなくて……健太さんにも言えなくて……でも、おばあちゃんが──」


 千尋が泣いてる。


 僕のせいで。


 僕が、ちゃんと避妊してれば……


 僕が、もっと気をつけてれば……


 深呼吸をする。


 落ち着かなきゃ。


 今、千尋さんが一番辛いんだ。


 僕が動揺してちゃダメだ。


「千尋さん……」


 声を絞り出す。


「ごめん……僕、僕が……」


 言葉が続かない。


 千尋が顔を上げた。涙で濡れた目が僕を見る。


「健太さんが……謝ることじゃ……」


「いや、僕の……僕の責任です」


 手を握ろうとする。でも手が震えて上手く動かない。


 千尋がその手を取ってくれた。


 冷たい。千尋の手、すごく冷たい。


「いつ……いつ分かったんですか?」


 千尋が小さく息を吸った。


「一週間前……です。生理が遅れて……それで……」


 一週間。


 ずっと一人で抱えてたんだ。


「どうして……もっと早く言ってくれなかったんですか」


「言えなかった……怖くて……」


 千尋がまた泣き出す。


「健太さんに……嫌われるかもって……」


「そんなこと、ないです」


 即座に答える。


「絶対に、ない」


 でも、心のどこかで。


 本当に? という声が聞こえる。


 僕、ちゃんと向き合えるのか。


 父親……


 高校生で、父親に……


 想像もできない。


 でも、現実なんだ。


 千尋のお腹の中に。


 僕たちの、子供が。


 守らなきゃ。


 千尋を。


 お腹の中の命を。


 でも、どうやって?


 僕に何ができる?


 お金も、仕事も、何もない。


 まだ高校生で。


 母さんにも迷惑かけて。


 千尋の家族にも、どう説明すればいい?


 水野屋を手伝ってきた僕が。


 信頼してくれた、おばあちゃんやお父さん、お母さんに。


 こんな形で……


 怖い。


 すごく、怖い。


 でも、千尋はもっと怖いはずだ。


 体の変化を感じて。


 一人で検査薬を使って。


 一週間も、誰にも言えずに。


 僕を待っていてくれた。


 その千尋を、支えなきゃいけない。


 逃げちゃダメだ。


 僕が、しっかりしなきゃ。


 でも……


 でも……


「どうしよう……」


 千尋がつぶやく。


「産むのか……それとも……」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


 産むか、産まないか。


 そういう選択を、しなきゃいけないのか。


 僕たちが。


 まだ高校生の、僕たちが。


 こんな重大な決断を。


「僕は……」


 何を言えばいいんだろう。


 産んでほしい?


 でも、それは千尋の人生を……


 それとも、諦める?


 でも、それは……


 命を……


 考えられない。


 何も、考えられない。


 頭の中が真っ白だ。


「水野屋、どうなるんだろう」


 千尋がぽつりと言った。


「お父さん、すごく怒ると思う……」


「お母さんも……おばあちゃんも……」


「みんな、がっかりするよね」


 千尋の声が震える。


「私、家族を……裏切った……」


「裏切ってなんか、ないです」


 僕は言った。


「僕も、一緒です。二人の……」


 二人の、子供。


 その言葉を口にしようとして。


 現実感がなさすぎて、言葉にできなかった。


 千尋、ずっと一人で悩んでたんだ。


 怖かっただろう。


 不安だっただろう。


 僕は……何も気づかなかった。


「ごめん……ごめんなさい……」


 千尋がまた謝る。


「謝らないで……ください」


 千尋さんを、抱きしめなきゃ。


 今、支えてあげなきゃ。


 僕が、しっかりしなきゃ。


 深呼吸をする。


 でも、息が上手く吸えない。


 胸が苦しい。


 あれ?


 おかしいな。


 さっきから、頭が重い。


 視界が、ぼんやりしている。


 立ち上がろうとした。


 でも、体が動かない。


 足に力が入らない。


 手が、震える。


 冷や汗が、背中を伝う。


 待って。


 今は、倒れるわけにいかない。


 千尋が、こんなに苦しんでるのに。


 僕が、支えなきゃいけないのに。


 立たなきゃ。


 立って、千尋を抱きしめなきゃ。


 もう一度、力を込める。


 でも、その瞬間。


 めまいが襲った。


 視界がぐるりと回る。


 立っていられない。


 床が、傾いていく。


 あれ……?


 体が、言うことを聞かない。


 それまでの無理が、一気に襲いかかってきた。


 睡眠不足。


 ずっと続いてた、ストレス。


 そして今の、衝撃。


 全部、全部が。


 限界を超えていた。


 膝から、力が抜ける。


「千尋……さん……」


 声が、出ない。


 喉が、詰まる。


 視界が、暗くなる。


 ダメだ。


 意識が……


 千尋……


 ごめん……


 崩れ落ちた。


 床に倒れる。


 冷たい。


 床が、冷たい。


 意識が、遠のく。


 ……


「健太さん!」


 誰かが、叫んでる。


 千尋……?


 声が、遠い。


 水の中にいるみたいに。


 ぼんやりと、霞んでいる。


「健太さん! 健太さん!」


 必死な声。


 泣いてる……?


 千尋……


 ごめん……


 言葉が、出ない。


 体が、動かない。


 ……


 ドアが、開く音。


「おばあちゃん! おばあちゃん!」


 千尋が、廊下に向かって叫んでる。


「健太さんが! 健太さんが倒れて!」


 足音。


 ドタドタと。


 階段を駆け上がってくる音。


「千尋ちゃん! どうしたの!」


 おばあちゃんの声。


 息を切らして。


 部屋に入ってくる気配。


「健太!」


「救急車! 早く!」


 救急車……


 そっか、僕……


 倒れたんだ……


 ……


 揺れる。


 誰かが、僕を揺すってる。


「健太さん、しっかりして! お願い!」


 千尋の声。


 泣いてる。


 すごく、泣いてる。


 大丈夫……


 僕は、大丈夫だから……


 そう言いたいのに。


 口が、動かない。


 ……


 遠くから、音。


 ピーポー、ピーポー。


 サイレン……


 救急車……


 来たんだ……


「意識は!」


「反応が鈍いです!」


「すぐに搬送を!」


 救急隊員の声。


 テキパキとした動き。


 体が持ち上げられる。


 ストレッチャー。


 固い感触。


 ベルトで固定される音。


 意識が、また遠のく。


 暗闇。


 深い、暗闇。


 でも、その中で。


 千尋の声が、聞こえる。


『できてました』


 その言葉だけが。


 頭の中で、何度も。


 何度も。


 繰り返される。


 妊娠……


 子供……


 僕たちの……


 ……


 そのまま。


 僕の意識は。


 闇に、沈んだ。


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