第74話 春の日常
4月初旬。新しい学期が始まった。ついに高校3年生。高校生活最後の年になってしまった。
温泉デートから戻って、だいぶリフレッシュできた気がする。これから受験勉強も佳境に入ってくる。頑張らねば。
「よお、健太。また同じクラスだな」
和樹が笑いながら近づいてきた。
「和樹、よろしく」
「今年は受験生だからな、気を引き締めていこうぜ」
「ああ」
朝のいつもの電車。千尋と並んで立つ。窓から見える景色に、満開の桜が広がっていた。
「桜、きれいですね」
千尋が窓の外を見ながら言った。
「うん。もう春ですね」
「高3になっちゃいましたね」
「あっという間でしたね」
千尋が僕の方を向いて微笑む。
「温泉、楽しかったですね」
「うん、また行きたいですね」
「はい。また一緒に行きましょう」
千尋の笑顔が、春の陽気と重なって、心が温かくなる。幸せな時間だった。
放課後は、いつものように千尋の部屋で勉強する。二人で問題を解いていく。千尋の理解の早さに、いつも感心する。
「筑波、一緒に行けるといいですね」
千尋がふと顔を上げて言った。
「絶対行きましょう」
「技術×経営、楽しみですね」
「はい、千尋さんと一緒なら楽しいです」
千尋が嬉しそうに微笑んだ。将来の夢を語り合う時間。これからも、ずっと一緒にいたい。
週末には水野屋を訪問した。Stripe決済システムは順調に稼働していて、オンライン注文が増えているという。
「健太くんのおかげよ。注文、どんどん来るわ。本当にありがとうね」
おばあちゃんが嬉しそうに言った。
「良かったです」
千尋が僕の横で微笑む。
「健太さんって本当にすごいですよね」
照れくさくて、つい目を逸らしてしまう。システムがうまく動いてる。千尋も喜んでくれてる。それが何より嬉しかった。
そんな平穏な日々が、2週間ほど続いた。
◆
しかし、4月下旬に入ると、また忙しさが戻ってきた。
受験勉強の量が増える。水野屋のシステムメンテナンス。千尋との時間。睡眠時間が少しずつ減っていく。
「健太、ちゃんと寝てる?」
母さんが心配そうに聞いてきた。
「大丈夫だよ」
また「大丈夫」って言ってる。でも、本当に大丈夫……だよね。温泉で休んだから、まだ余裕がある。頑張ろう。
そんなある朝の電車。千尋が少し元気がない気がした。顔色が少し悪い。
「大丈夫ですか? 疲れてますか?」
「ううん、ちょっと寝不足かも」
千尋が微笑む。
「無理しないでくださいね」
「健太さんこそ」
互いに心配し合う。でも、本人が平気って言うなら、気にしすぎかな。
別の日の昼休み、千尋とお弁当を食べていた。千尋があまり食べていないことに気づく。
「食欲ないんですか?」
「うん、ちょっとね」
最近、千尋が少し元気ない気がする。疲れてるのかな。受験勉強、大変だし。でも、千尋は勉強で体調崩すタイプじゃないのに……。
◆
4月下旬のある日。いつものように千尋の部屋で勉強していた。静かな午後。
千尋が急に顔色を変えた。口を押さえる。
「ごめんなさい、ちょっと……」
千尋がトイレに駆け込む。
トイレから聞こえる音に、僕は廊下で待った。心配で仕方ない。
「千尋さん、大丈夫ですか?」
しばらくして、千尋が蒼白な顔で戻ってきた。ふらふらしている。
僕は慌てて支えた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい……風邪引いたのかも」
千尋の声が弱々しい。
「今日はもう帰って。うつすと悪いから」
「でも……」
「心配しないで。少し休めば」
千尋が弱々しく微笑む。心配だったけど、千尋の言葉に従って帰ることにした。
「何かあったらすぐ連絡してください」
「うん、ありがとう」
千尋の笑顔が、いつもよりずっと弱々しかった。
自宅に帰って、すぐLINEを送った。
「大丈夫ですか?」
すぐに既読がついた。
「平気。ちょっと休むね」
短いやりとりだったけど、返事があったから安心した。
でも、翌日。千尋は学校に来なかった。
LINEを送っても、既読にならない。心配になった。
2日目も学校に来ない。LINEも既読つかない。電話をかけてみたけど、つながらない。焦りが募った。
3日目。まだ連絡がない。
「千尋さん、どうしたんだ?」
和樹が心配そうに聞いてきた。
「分からない……」
もう待てない。放課後、千尋の家に行こうと決めた。直接会って確かめる。
帰宅後、母さんに相談した。
「千尋さん、連絡が取れなくて」
「心配ね。行ってみたら?」
母さんが優しく背中を押してくれた。
夕方、千尋の家に向かった。
玄関のチャイムを押すと、おばあちゃんが出てきた。
「健太くん……」
おばあちゃんの表情が、いつもと違う。少し疲れた表情。でも、優しく微笑んでくれた。
「千尋、部屋にいるわ。行ってあげて」
階段を上る。ドキドキする心臓。千尋、大丈夫かな。
廊下を歩いて、千尋の部屋の前に立った。深呼吸して、ノックする。
「千尋さん、僕です」
沈黙。
数秒の静寂。
「……入ってください」
小さな、弱々しい声。聞いたことのない声のトーン。
不安が増した。
ドアノブに手をかけた瞬間、胸騒ぎがした。何かが違う。いつもと違う。
一瞬躊躇した。でも、ここまで来て引き返せない。
僕は思い切ってドアを開けた。




