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7時22分の電車で始まる恋  作者: ほしみん


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第72話 大丈夫の呪文

 3月に入り、春の訪れを感じる日が増えてきた。朝の電車の窓から見える景色も、少しずつ柔らかな色を帯び始めている。


 7時22分発の電車。千尋と並んで立つ、いつもの場所。でも今朝の僕は、少し眠かった。昨夜も睡眠時間は3時間ほど。受験勉強とStripe決済システムの実装で、気づけばそんな時間になっていた。


「健太さん、眠そうですか?」


 千尋の声に、僕は慌てて笑顔を作った。


「え? 大丈夫ですよ」


 千尋は心配そうな表情で僕を見つめる。その視線から逃げるように、僕は窓の外に目を向けた。


「ちゃんと寝てますか?」


「大丈夫です。ちょっと夜更かししただけです」


 本当は毎日3時間から4時間しか寝ていない。でもそんなこと、千尋さんに心配かけたくない。


 千尋は何か言いたそうな表情をしたが、結局何も言わずに、そっと僕の手を握ってくれた。その温もりが、少しだけ眠気を和らげてくれる気がした。




 春の陽気は心地よいが、時に残酷でもある。


 3月下旬のある日、数学の授業中だった。窓から差し込む柔らかな日差し。暖房の効いた教室。先生の穏やかな声。


 気づけば、意識が遠のいていた。


 コクリ、コクリ。


「佐藤、おきろ~?」


 先生が声をかけてくる。


 ハッと目が覚める。周囲からクスクスという笑い声が聞こえた。


「す、すみません」


 僕は慌てて頭を下げた。恥ずかしさと焦りで顔が熱くなる。授業中に居眠りなんて、こんなの初めてだ。


 やっぱり疲れているのかな。でも、認めたくなかった。認めたら、今やっていること全部を止めなきゃいけない気がする。




 放課後、自宅に帰ってすぐ、山田卓也さんとのオンラインミーティングを開いた。Stripe決済システムの進捗を報告するためだ。


 ビデオ通話が繋がると、画面の向こうの卓也さんが眉をひそめた。


「おい、健太。顔色悪いぞ」


「え? そうですか? 大丈夫です」


「画面越しでも分かるぞ。ちゃんと寝てるか?」


「はい、寝てます」


 嘘ではない。3時間でも、一応寝ている。


 卓也さんは真剣な表情で画面を見つめた。そして、重い口調で言った。


「いいか、健太。よく聞け」


 僕は背筋を伸ばした。


「もし倒れるようなことがあったら、勉強教えるのやめるからな」


 心臓がドキリと跳ねた。


「お前が倒れたら、それは俺の責任だ」


 卓也さんの声は厳しいが、その奥に優しさが滲んでいた。


「技術なんて、体壊してまでやるもんじゃない。受験勉強はちゃんとやってるか?」


「……はい、大丈夫です」


「水野屋も大事だろうが、お前の体が一番大事だ。水野さんも、お前が倒れたら悲しむぞ」


「……分かってます」


「本当に分かってるか?」


 卓也さんの問いに、僕はしばらく答えられなかった。


「大丈夫です。ちゃんと管理してます」


 そう答えた自分の声が、どこか空々しく聞こえた。




 それから数日後の深夜。


 ついに、やった。Stripe決済システムが完成したのだ。


 Nest.js経由での決済フロー。テスト注文は成功し、Webhookも正常に動作している。画面に表示される「Payment succeeded」の文字を見て、僕は思わず声を上げた。


「やった……!」


 達成感と疲労感が同時に押し寄せてくる。時計を見ると、午前3時を回っていた。


 僕はすぐに卓也さんにメッセージを送った。


「卓也さん、できました!」


 翌朝、返信が来ていた。


「おめでとう。でも、そんな夜遅くまでやるなよ。約束、覚えてるか?」


 約束。倒れたら教えるのをやめる、という。


「大丈夫です」


 倒れてないから。僕はそう自分に言い聞かせながら、答えた。



 週末、僕は水野屋を訪れた。Stripe決済システム完成の報告をするためだ。


 作業部屋で千尋とおばあちゃんにデモを見せると、二人とも喜んでくれた。


「すごい! ありがとう、健太さん!」


 千尋の笑顔が見られて、疲れも吹き飛ぶ気がした。


「健太くんのおかげね」


 おばあちゃんがお茶と和菓子を持ってきてくれた。


「ちょっと休憩しなさい」


 お茶をいただきながら、ほっと一息つく。


 しばらくして、おばあちゃんが席を外した後、千尋と二人きりになった。


「健太さん」


 千尋が真剣な表情で言った。


「最近、すごく頑張ってますよね」


「うん、まあ」


「無理してないですか?」


「大丈夫だよ」


 千尋は少し俯いた。


「私のせいで、負担になってないですか?」


「そんなことないよ。千尋さんのために頑張るの、嬉しいんだ」


 僕は千尋の手を取った。


「だから心配しないで。ちゃんと自分のこと、分かってるから」


 千尋は小さく「……そう」と答えた。


 その時の千尋の表情を、僕は今でも覚えている。心配そうで、でもそれ以上何も言えない、そんな顔だった。




 その後の数日、周囲から心配の声が続いた。


 母は僕の顔色を心配し、和樹は弁当を残す僕を心配そうに見ていた。


 でも、僕はいつも「大丈夫」と答えた。


 みんな心配してくれている。ありがたいけど、大丈夫。春休みになったら休めるから。



 深夜1時。


 受験勉強をしようと机に向かったが、眠気が襲ってくる。教科書を開いたまま、意識が遠のいていく。


 ハッと目が覚めた時、時計は午前3時を指していた。


「寝てた……」


 慌ててベッドに入る。また3時間睡眠だ。


 暗闇の中で、僕は考えた。


 大丈夫。みんな心配してくれてる。ありがたいけど、大丈夫。卓也さんも、おばあちゃんも、お母さんも、和樹も。みんな「大丈夫か」って聞いてくる。


 大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫だから。


 でも、本当に大丈夫なのか? 少しだけ、不安になる。


 いや、大丈夫だ。春休みになったら休める。きっと元気になる。


 そう自分に言い聞かせて、僕は目を閉じた。



 翌日の帰りの電車。千尋と並んで座っていると、千尋が何度かスマホを見ては、こちらをちらりと見る。


 何か言いたそうだ。でも迷っているようにも見える。


 しばらくして、千尋が少し緊張した様子で口を開いた。


「ねえ、健太さん」


「ん?」


「春休み、どこか行きませんか?」


 僕は千尋を見た。


「え?」


「温泉とか……」


 千尋は少し頬を染めながら続けた。


「ずっと頑張ってたから、たまには休みましょうよ。二人でゆっくりできるといいなって思って」


 温泉。千尋さんとのデート。


 ああ、そうか。千尋さんは僕を心配してくれているんだ。


 最近の僕、相当疲れて見えたんだろうな。千尋さんが、わざわざ温泉を調べて、誘ってくれた。


 胸が温かくなる。


 本当は疲れている。でも、千尋さんと一緒に行きたい。


「ぜひ!是非行きたいです」


 千尋は嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、春休み最初の週末にしましょう。一泊でもいいですか?」


「はい」


 千尋はスマホで温泉の情報を見せてくれた。


「ここどうですか?」


「いいですね」


「家族風呂もあるんですって」


 その言葉に、僕の心臓がドキドキと高鳴った。


「……!」


 千尋は恥ずかしそうに、でもどこか楽しそうに微笑んでいた。



 その夜、ベッドに倒れ込んだ僕は、天井を見上げながら考えた。


 明日から春休み。温泉デート、楽しみだな。


 千尋さんが温泉に誘ってくれた。ずっと頑張ってたから、休もうって。嬉しい。千尋さんと一緒なら、どこでも楽しい。


 少し休んで、また頑張ろう。受験勉強も、水野屋も、技術も。全部、うまくいく気がする。


 でも、なんだろう。少しだけ、不安な気持ちがある。この疲れ、本当に大丈夫なのかな。


 ……大丈夫。温泉で休めば、きっと元気になる。


 そう信じて、僕は眠りについた。春の予感を胸に。



「大丈夫」という言葉が、呪文のようになっていた。自分にも、周囲にも、何度も繰り返す。


 でも本当は、少しずつ分かっていた。大丈夫じゃないって。


 でも認めたくなかった。認めたら、全部止めなきゃいけない気がしたから。


 そして千尋さんも、きっと同じように感じていたんだと思う。僕を休ませたい、と。僕の疲労が、それだけ深刻に見えていたから。


 二人の間に、見えない壁ができ始めていた。「心配かけたくない」という僕の優しさが、逆に本音を隠す壁になっていた。


 温泉デート、楽しみだな。


 千尋さんと一緒なら、きっと元気になれる。


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