第71話 何でもできる気分
バレンタインデーから、もう2週間が過ぎた。
あの日から、僕と千尋の関係はもっと深くなった。心も、体も。
電車で顔を合わせる朝の時間。放課後に千尋の家で過ごす時間。
すべてが、うまくいっている気がする。
筑波大学への夢。水野屋の成功。そして千尋との未来。
僕は何でもできる気がする。
2月下旬のある水曜日の放課後、千尋の家に行った。
「健太さん、今日もありがとうございます」
千尋のお母さんが笑顔で迎えてくれる。
「いえ、僕も勉強させてもらってますから」
「二人とも頑張ってるのね。お茶とお菓子、部屋に持っていくわね」
「ありがとうございます」
千尋の部屋に入る。いつもの勉強机に、参考書を広げた。
「じゃあ、今日は英語の長文からやりましょうか」
「はい」
二人で並んで座る。千尋の髪から、シャンプーの香りがした。
集中しよう。
でも、千尋の横顔を見てしまう。
「健太さん?」
「あ、ごめんなさい。えっと、この単語の意味なんですけど……」
真面目に勉強する。本当に。
30分くらい経った頃だろうか。
「……健太さん」
千尋の声が、少し甘い。
「はい?」
振り向くと、千尋が僕を見ていた。
「……疲れてませんか?」
「全然。平気ですよ」
「本当ですか?」
「はい」
千尋が少し近づいてくる。
「でも……少し、休憩しませんか?」
そう言って、千尋が僕の肩に手を置いた。
「千尋さん……」
「健太さん……」
気づけば、千尋を抱きしめていた。
参考書のことは、もう頭から消えていた。
しばらくして、千尋が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「健太さん、最近すごいですよね」
「何がですか?」
「技術の勉強も、受験勉強も、全部頑張ってらっしゃる」
「そんなこと……」
「私、健太さんを尊敬してます」
千尋の言葉が、胸に響く。
嬉しい。誇らしい。
「千尋さんのためですから」
「ありがとうございます……」
千尋が顔を上げて、微笑む。
その笑顔が見たくて、僕は頑張れる。千尋を幸せにしたい。水野屋も成功させたい。筑波大学にも絶対合格する。
全部、やり遂げる。
時計を見ると、午後11時を回っていた。
「もうこんな時間……」
慌てて体を起こす。
「ごめんなさい、引き止めちゃって」
千尋が申し訳なさそうにする。
「いえ、僕も……その、嬉しかったですし」
千尋が照れたように微笑んだ。
「でも、そろそろ帰らないと。勉強もしなきゃ」
「気をつけて帰ってくださいね」
「はい。また明日」
千尋の家を出て、自転車をこぐ。夜風が冷たい。でも、心は温かい。
千尋と一緒にいる時間は、何よりも大切だ。家に着いたのは、午前0時を過ぎていた。リビングの電気はついている。母さんがまだ起きているのかな。
そっと玄関を開けると、母さんがソファに座っていた。
「お帰り。遅かったわね」
「ごめん。勉強してたら遅くなっちゃって」
母さんが少し心配そうな顔をする。
「千尋さんのところ?」
「うん」
「……健太、最近帰りが遅いわね」
「受験勉強、頑張ってるから」
「そう……無理しないでね」
「大丈夫だよ。じゃあ、おやすみ」
部屋に入る前に、母さんがもう一度言った。
「健太、体は大事にしてね」
「うん、分かってる」
部屋に入って、机に向かう。
さあ、勉強しよう。筑波大学の過去問を開く。数学からだ。
時計を見ると、0時15分。
2時まで勉強すれば、睡眠時間は5時間くらい取れる。
十分だ。
問題を解き始める。
集中力は……まだある。
気づけば、1時を回っていた。
次は物理。
ページをめくる。手が少し震えている気がした。
疲れてるのかな。でも、まだいける。
2時を過ぎた頃、ようやくペンを置いた。
今日はここまでにしよう。
ベッドに倒れ込んだとたんすぐに眠りに落ちた。
◆
木曜日の昼休み。
和樹が弁当を持って席にやってきた。
「おー、健太。一緒に食おうぜ」
「ああ」
弁当を開ける。母さんが作ってくれた唐揚げ弁当だ。
「うまそうだな。俺のは卵焼きばっかりだぜ」
和樹が笑う。
「交換する?」
「いや、いい。お前、最近忙しそうだな」
「まあね。水野屋の決済システム作ってて」
「決済システム?」
「ネットでクレジットカード決済できるようにするやつ」
「ああ、ネットショップとかで使うやつか」
「そう。Stripeっていう決済APIを使うんだけど、結構難しくて」
「へー。すげーな、お前」
「千尋さんとも順調なんだろ?」
和樹がニヤリと笑う。
「まあ……ね」
照れながら答える。
「いいなー。でもさ、お前……」
和樹が急に真面目な顔になった。
「顔色、少し悪くない?」
「え?」
「なんか、目の下にクマできてるぞ」
手で顔を触る。言われてみれば、少し疲れてるかもしれない。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。毎日5時間くらいは」
「5時間って……少なくね?」
「大丈夫だよ。慣れたし」
「そうか……そうかなぁ……」
和樹が少し心配そうな顔をしたが、すぐにいつもの調子に戻った。
「まあ、あんま無理すんなよ。受験も頑張れよ」
「ありがとう」
弁当を食べながら、少し考えた。
確かに、最近は睡眠時間が短い。
でも、問題ない。
受験勉強も、Web決済システムの開発も、千尋との時間も。
全部、やりたい。全部、やらなきゃいけない。
そして、全部できる。
僕は、まだまだ余裕がある。
そんな日々が、続いた。
千尋の家で過ごし、深夜に帰宅して勉強。睡眠時間は毎日4、5時間。
それでも、僕は何でもできる気がする。
◆
それから数日後、週末の夜。
部屋で勉強しようと机に向かった。
参考書を開く。
英語の長文問題。
文字を追う。
でも……
頭に入ってこない。
もう一度、最初から読み直す。
やっぱり、意味が頭に残らない。
「……疲れてるのかな」
でもすぐに首を振った。
いや、違う。集中力が足りないだけだ。
もう一度、読み始める。
目を閉じると、まぶたの裏に千尋の顔が浮かぶ。
千尋の笑顔。
「健太さんを尊敬してます」
あの言葉が、僕を支えてくれる。
頑張らなきゃ。
でも、目が重い。
少し、頭が痛い気もする。
「健太……」
ドアが開いて、母さんが部屋を覗いた。
「無理してない? 最近、帰りが遅いし……」
「大丈夫だよ」
笑顔を作る。
「そう……でも、体は大事にしてね」
「うん」
ドアが閉まる。僕は机に向き直る。
やらなきゃ。
受験勉強も、Stripeの実装も、全部。
どれも手を抜けない。全部、やり遂げなきゃ。できる。
まだ、余裕がある。参考書を開き直す。文字を追う。
でも、やっぱり頭に入ってこない。
少しだけ、不安が胸をよぎった。でも、すぐに打ち消す。
僕は、まだまだいける。絶対に。




