第07話 小さな変化
新学期が始まって一週間が経った頃、小さな変化があった。
「健太、最近朝が早いのが定着したわね」
母が感心したような顔をした。
「慣れたから」
僕は適当に答えたが、本当の理由は言えない。7時22分の電車に遅れるわけにはいかないからだ。彼女に会うために。
「規則正しい生活はいいことよ」
母は喜んでいるようだった。僕は少し罪悪感を覚えた。
商店街を抜け、歩道橋を渡り、改札を通る。
「おはよう、健太くん」
「おはようございます」
近所のおばさんとの挨拶も日課になっている。
電車に乗ると、僕は彼女の姿を探した。今日もいつもの場所にいる。今日は髪をお団子にしていた。
そんな時、小さな変化に気づいた。
彼女の方から、軽く会釈するようになったのだ。
最初は偶然目が合った時だけだった。でも、だんだん意識的に挨拶してくれるようになった。僕も、緊張しながら会釈を返した。
心臓がドキドキする。でも、嫌な感じではない。むしろ、一日が良いスタートを切れたような気分になった。
「おはようございます」
ある朝、彼女が小さく声をかけてきた。
「あ、おはようございます」
僕は慌てて答えた。声が少し上ずったかもしれない。
それだけの会話だった。でも、僕は一日中嬉しかった。
授業中も、その時のことを思い出してしまう。彼女の声、表情、微笑み。すべてが頭から離れない。
「佐藤、問題を解いてみろ」
数学の先生に当てられて、僕は慌てた。黒板を見ても、何の問題か分からない。
「すみません、もう一度お願いします」
「またか。佐藤、ここ最近こういうこと多いぞ。もっと集中しろ」
先生に注意され、クラスの皆がクスクス笑った。僕の顔が赤くなった。
昼休み、山田が心配そうに声をかけてきた。
「健太、お前大丈夫か?春先からずっと、ボーッとしてるぞ」
「う……気をつけるよ」
「何か心配事でもあるのか?」
山田の鋭い質問に、僕はドキッとした。
「べ、別に何もないよ」
でも山田は納得していない様子だった。僕は話題を変えようとした。
「それより、昼飯食べようぜ」
数日後、また電車の遅延があった。
(また電車が止まった……でも今度は……)
僕は少し期待していた。前回、遅延の時に初めて会話できたからだ。
車内アナウンスが流れる。
「お客様にお知らせいたします。信号機の故障により、しばらく停車いたします」
乗客たちから、ため息が漏れた。
僕は彼女の方を見た。今日も困ったような顔をしている。
「また止まりましたね」
今度は僕の方から話しかけてみた。前回より、少し勇気が出ていた。
「そうですね。今日は大事なテストがあるのに」
彼女が振り返って答えた。困った表情だが、僕に対して迷惑そうな感じはない。
「前電車が止まったときも小テストっていってましたよね」
「あ、そういえば」
彼女は忘れていたようだが、僕は当然覚えている。初めて話したときのことだから。
「僕も今日、英語のテストです」
「奇遇ですね。私も英語です」
「英語、苦手なんです。特にリスニングが……」
僕が正直に言うと、彼女がクスッと笑った。
「私もリスニングは苦手です。でも、単語を覚えるのはもっと苦手かも」
「単語帳、持ち歩いてますけど、なかなか覚えられなくて」
「私も同じです。電車で覚えようと思うんですけど、つい本を読んでしまって」
そんな会話を交わした。今度は前回より長く話せた。
十分後、電車が動き出すアナウンスが流れる。
「ごめんなさい、遅れちゃいますね」
彼女が申し訳なさそうに言った。
「いえいえ、電車のせいですから」
僕が答えると、彼女は安心したような顔をした。
「お互い、テスト頑張りましょう」
「はい、頑張りましょう」
桜ヶ丘駅に着くと、彼女は「それでは」と軽く会釈して降りていった。
僕は気づいた。彼女との会話は、思っていたより自然だということに。怖がられている感じもないし、迷惑がられている感じもない。
むしろ、普通に話しかけてもいい相手なのかもしれない。
でも、まだ名前も知らない。どちらからともなく、そんなことは聞けずにいた。
学校に着くと、英語のテストがあった。
不思議なことに、いつもより集中できた気がした。彼女も同じテストを受けているんだ、という思いが、なぜか励みになった。
「今日のテスト、どうだった?」
山田が聞いてきた。
「うん、いつもより良かったかも」
「珍しいな。英語苦手だったのに」
山田は不思議そうな顔をしていた。
僕は理由を説明できなかった。でも確実に言えるのは、最近の朝の時間が、僕の一日を良い方向に変えているということだった。




