第49話 解放
ベッドに横になって、天井を見上げていた。
昨日の千尋との時間が、まだ夢のように感じられる。
公園のベンチで、千尋が僕を抱きしめてくれた。あの温かさ、包み込まれるような安心感。
そして……
千尋とのキス。
思い出すだけで、胸がドキドキする。
千尋の柔らかい唇の感触。優しい手が僕の頬を包んでくれた温もり。街灯の光の中で、静かに重なった瞬間。
「千尋さん……」
声に出して呟いてしまう。
千尋の笑顔。「ふふ、私もです」と言ってくれた時の表情。
そして二度目のキス……
思い出すと顔が真っ赤になって、僕は枕に顔を埋めた。
「うあああ……」
恥ずかしいけれど、嬉しかった。
千尋が僕を受け入れてくれた。僕の不器用な想いを、優しく包んでくれた。
◆
少し落ち着いてから、千尋さんが僕に言ってくれた言葉を思い返していた。
「でも今も遠慮してるんじゃないですか?」
「健太さん、今何がしたいんですか?」
あの時、千尋さんは僕の心の奥を見抜いていた。
僕はいつも遠慮していた。自分の気持ちを抑えて、相手に迷惑をかけないように。
「お友達にも、同じように遠慮していませんか?」
千尋のその言葉が、特に胸に刺さった。
確かに僕は、遠慮することが正しいと無意識に思い込んでいた。
父さんが亡くなってから、母さんに心配をかけないように。誰にも迷惑をかけないように。
それがいつの間にか、誰とも深く関わらないことに変わっていた。
でも千尋は違うと言ってくれた。
甘えたり、踏み込んだりしても……いいんだ。
山田の顔が浮かんだ。
中学からの親友なのに、僕はいつも一歩下がっていた。困ったことがあっても、山田には相談しなかった。山田が何か悩んでいるような時も、深く聞こうとしなかった。
それは全部、遠慮だったんだ。
「今度山田と話してみます」
千尋にそう約束した。
今日、学校で山田に話しかけてみよう。
初めて、僕の方から。
◆
翌朝、洗面台の鏡を見ながら決意を固めた。
「今日は山田に聞いてみよう」
鏡に映る自分の顔を見つめる。いつもより、なんだか表情が明るい気がする。
千尋のおかげだ。昨日の千尋との時間が、僕を変えてくれた。
「健太、なんだか顔つきが変わったわね」
母さんが朝食の準備をしながら言った。
「そう?」
「ええ、なんだか……生き生きしてる」
母さんが微笑む。きっと母さんにも、僕の変化が伝わっているんだろう。
千尋と過ごした時間が、僕の心を軽くしてくれた。遠慮ばかりしていた僕の殻を、千尋が破ってくれた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日も頑張って」
母さんに見送られて、僕は家を出た。
今日は違う。今日の僕は、いつもの僕とは違う。
◆
学校の休み時間、僕は山田の席に向かった。
いつもなら山田の方から話しかけてくれるのを待っていた。でも今日は違う。
「山田、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「なんだよ珍しいな」
山田が振り返る。確かに珍しいかもしれない。僕から山田に話しかけるなんて。
教室の隅の方に移動して、二人だけになった。
僕は一呼吸置いてから、勇気を出して聞いた。
「僕って、これまで山田に対して遠慮してた?」
僕の質問に、山田は少し驚いたような顔をした。
そして、にやりと笑う。
「やっと気づいたか」
その言葉で、僕の予想は確信に変わった。
やっぱりそうだったのか。
「やっぱりそうだったのか」
「ああ」
山田がうなずく。
でも僕には分からないことがあった。
「でも、そんな僕になんで絡んでくれてるんだ?」
これまで聞けなかった質問だった。遠慮していたから聞けなかった。
山田は少し考えてから答えてくれた。
「だってそうじゃないとお前、一人でいつも寂しそうじゃないか」
その言葉に、僕の胸が熱くなった。
ああ、僕は山田に守られていたのか。
僕が遠慮して距離を置いていても、山田は僕のことを気にかけてくれていた。僕が寂しくないように、いつも声をかけてくれていた。
山田の優しさに、初めて気がついた。
「急にどうした?」
山田が首をかしげる。
僕は少し照れながら答えた。
「千尋さん、あ、付き合い始めたんだけど……」
「うおおおおおめでとう!」
山田の声が教室に響いて、クラスの何人かがこちらを見た。山田の喜び方が大げさで、僕は思わず苦笑いした。
「ありがとう。それはそれとして、彼女に遠慮している、って言われて」
「ああ、それを指摘してくれる子なんだな」
山田がうなずく。その言い方で、山田も千尋さんを評価してくれているのが分かった。
「僕ももっとみんなに踏み込んでいこうと思って……」
僕は一呼吸置いて続けた。
「で、早速相談したいことがあるんだけど……」
「おう、なんでも言えよ」
山田の表情が優しくなる。こんな風に山田に頼るのは、初めてのことだった。
「水野屋のWEBサイトの件なんだ」
僕は千尋さんの家の和菓子屋のことを説明した。
「WEBの勉強で行き詰まりを感じているんだ」
「ほう」
「ただ、山田は専門外だから聞いてもわからないだろうなーと思ってて、聞かなかった」
それが僕の遠慮だった。山田に迷惑をかけたくなくて、分からないだろうと決めつけて、相談しなかった。
「俺はさっぱりだよ」
山田が苦笑いする。
「でも情報の先生と兄貴に聞いたらいけんじゃねーの?」
「兄貴?」
「うちの兄貴、IT関係の仕事してるんだよ」
「そうだったのか!知らなかった」
僕は本当に驚いた。山田にお兄さんがいることは知っていたけれど、IT関係の仕事をしているなんて全然知らなかった。
「お前が聞かないから言わなかっただけだよ」
山田のその言葉が、僕の胸に深く刺さった。
僕が遠慮していたせいで、こんな大切な情報も知らずにいた。もっと早く相談していれば、もっと早く解決策が見つかっていたかもしれない。
僕の遠慮が、どれだけ多くの機会を逃していたのか。
「ありがとう、山田」
僕は素直にお礼を言った。遠慮なんかせずに。
「これからはもっと頼れよ」
「うん、今度は僕も山田の力になりたい」
「おう、よろしく頼むわ」
山田が手を差し出してくる。僕はその手を握った。
今までとは違う握手だった。
遠慮していた僕と、それを見守ってくれていた山田。
でも今日から、僕たちの関係は変わる。
お互いに頼り合える、本当の友達として。
対等な関係として。
◆
放課後、僕は千尋さんにLINEを送った。
『千尋さんの言う通りでした。山田に初めて相談してみたら、解決の糸口が見つかりました』
すぐに返事が来た。
『本当ですか?よかったです♥』
『千尋さんのおかげです。ありがとうございます』
『健太さんが勇気を出したからですよ』
千尋からの返事を読んで、胸が温かくなった。
千尋が僕の背中を押してくれた。遠慮をやめて、素直に気持ちを伝えることを教えてくれた。
『明日は情報の小林先生に相談してみます』
『頑張ってください。応援しています』
『今度の休みには、山田のお兄さんにも会わせてもらう予定です』
『水野屋のこと、よろしくお願いします』
『千尋さんのためなら、何でも頑張ります』
『♥』
千尋からのハートマークを見て、僕の頬が緩んだ。
◆
家に帰って、夕食の時に母さんに報告した。
「母さん、今日山田に初めて相談事をしたんだ」
「あら、そうなの?」
「うん。これまで遠慮ばかりしていたけれど、千尋さんに言われて気がついたんだ」
母さんが微笑む。
「千尋ちゃんは、健太にとっていい影響を与えてくれる子ね」
「そうなんだ。僕、変われそうな気がする」
「父さんも喜んでるわよ」
母さんがそっと言ってくれた。
◆
その夜、仏壇の前に座った。
「父さん、僕はもう一人で背負いません」
父さんの写真に向かって、静かに話しかけた。
「千尋さんや山田、みんなが支えてくれています」
「だから、もう心配しないでください」
仏壇の前で手を合わせていると、なんだか父さんも安心してくれているような気がした。
僕は一人じゃない。
たくさんの人に支えられて、僕は生きている。
そして今度は、僕が誰かを支える番だ。
千尋を、水野屋を、そして山田を。
遠慮なんかせずに、素直に向き合っていこう。
踏み込んで、相手の心に入っていこう。
千尋が教えてくれたことを、僕は実践していく。
明日からの僕は、もう遠慮しない。
僕にできることから、一歩ずつ始めていこう。




