第43話 雨宿りの時間
ネット注文システムがうまく回り始めた。SNSやメールから来ていた注文がすべてGoogleフォーム経由になったことで、千尋や千尋のご両親・おばあちゃんからも大変感謝された。
少しずつ水野屋に余裕が出てきたのに比例して、僕と千尋が二人で過ごす時間を確保できるようになってきた。そして関係もより親密になっていった。
いつもと同じく水野屋のお手伝いをし、千尋の部屋で勉強して過ごした、その日の夕方、僕は千尋と一緒に駅前の商店街を歩いていた。
「今日も楽しかったですね」
千尋が僕の手を握りながら言った。
「はい。千尋さんと一緒に勉強すると、時間を忘れてしまいます」
僕も握り返しながら答えた。
最初は普通に手を繋いでいたが、いつの間にか指と指を絡める恋人つなぎをするようになっていた。指が絡み合うたび、より関係が密になったような、特別な感覚があった。
その時、ぽつりと雨粒が頬に落ちた。
「あ……」
千尋が空を見上げた。灰色の雲が厚く空を覆っている。
今朝家を出るときは晴れていたので、まさか雨が降るとは思わなかった。
「雨が降りそうですね」
僕が言った瞬間、案の定、雨が降り始めた。
「急ぎましょう!」
二人は手をつないだまま、近くの商店街のアーケードに向かって走った。
でも、アーケードに着く前に、雨は激しくなってしまった。
「あそこに!」
僕が指差したのは、閉まっている本屋の軒先だった。二人は慌てて、その庇の下に駆け込んだ。
すっかり濡れ鼠になってしまった。
「ひどい雨ですね」
千尋が息を切らしながら言った。
雨は勢いよく降り続いていて、すぐには止みそうにない。屋根の下、二人は自然と寄り添うように立っていた。
「濡れちゃいましたね」
僕は千尋の方を見て思わず目を逸らした。
今までになく鼓動の音が強く聞こえる。
千尋は、雨に濡れて白いシャツが透けて、うっすらとブラが見えてしまっている。とてもじゃないけれど恥ずかしくて直視できない。しかも困ったことに、本人はまだ気づいていない。
僕は迷わず自分の上着を脱いだ。
「これを着てください」
「でも、健太さんが寒くなってしまいます」
「いいんです。大丈夫です。僕は平気ですから」
僕の精神のためにも、上着を一秒でも早く羽織ってほしい。僕は優しく上着を千尋の肩にかけてあげた。
「ありがとうございます」
千尋が上着を大切そうに身につけた。
やっと僕の心臓が収まる。
しばらくふたりとも無言になる。雨音が屋根を打つ音が妙に耳に残る。
「──すごい雨音ですね」
千尋が言った。
「雨の音って、なんだか落ち着きませんか?」
僕が答えると、千尋が頷いた。
「はい。子供の頃、雨の日は家で本を読むのが好きでした」
「僕は雨の日に、天体観測の本を読んでました。雨だと星が見えないから」
「私たち、子供の頃から似たようなことしてますね」
二人はふふっと、お互いに微笑み合った。
雨はまだ止む気配がない。商店街には誰もいなくて、本屋の前に佇む二人だけの静かな時間が流れていた。
「健太さん」
「はい?」
千尋が振り向いた。とても近い距離だった。
「こうやって、二人だけで過ごす時間……とても幸せです」
千尋の素直な言葉に、僕の胸が高鳴った。
「僕も同じ気持ちです」
僕が答えると、千尋の頬がほんのり赤くなった。
「恋人になってから、毎日がとても輝いて見えます」
「千尋さんがそう言ってくれると、僕も嬉しくて」
二人は見つめ合った。雨音に包まれた小さな空間で、他の世界とは切り離されたような、特別な時間だった。
「あ……」
千尋の髪に雨粒が付いているのに、僕が気づいた。
「髪に水滴が……」
僕は自然に手を伸ばして、千尋の髪から水滴を優しく取り除いた。
その瞬間、千尋がドキッとして僕を見上げた。
僕の顔がとても近くにある。優しい眼差しで、自分を見つめている。
「千尋さん……」
僕が小さな声で呼んだ。
「はい……」
千尋も小さな声で答えた。
二人の距離がだんだん近くなっていく。時間がゆっくりと流れているような感覚だった。
その時、大きな雷の音が響いた。
「きゃ!」
千尋が驚いて、反射的に僕に身を寄せた。
僕は自然に千尋を抱きしめるような形になった。
ふたりともお互いに抱き合ってることに気づく。
「だ、大丈夫ですか?」
動揺を隠しつつ僕が優しく聞いた。
「はい……すみません、雷が苦手で」
千尋が恥ずかしそうに言った。でも僕も千尋もお互いに離れようとしなかった。
「雷はもう遠くに行きましたから、大丈夫です」
僕も千尋を離すのが惜しくて、優しく背中を撫でた。
二人はしばらく、そっと寄り添っていた。
雨音が小さくなってきた頃、千尋がそっと顔を上げた。
「あ、虹」
「ほんとですね」
僕も名残惜しそうに腕を離した。
空にきれいな弧を描く虹が現れた。まるで僕たちを祝福してくれているかのように、美しく輝いていた。
「健太さんの上着……」
千尋が上着を返そうとすると、僕が首を振った。
「家まで着ていてください。風邪を引いたら大変ですから」
「ありがとうございます」
千尋が上着をしっかりと羽織った。
雨が小降りになったので、二人は本屋の軒先を出た。
「傘がなくても歩けそうですね」
「はい。でも、濡れないように気をつけて歩きましょう」
二人は再び手をつないで歩き始めた。
でも今度は、さっきよりも自然に、しっかりと手を握り合っていた。
「今日は……ありがとうございました」
千尋が歩きながら言った。
「何がですか?」
「上着を貸してくださったことも、雷の時に守ってくださったことも」
千尋の言葉に、僕は嬉しくなった。
「千尋さんを守れて、僕も嬉しかったです」
「健太さんがいてくれると、安心します」
千尋のその言葉が、僕には何よりも嬉しかった。
駅に着く頃には、雨はほとんど止んでいた。
「それでは、またあした」
千尋が手を振ろうとした時、僕が言った。
「あの……上着は、明日返してもらえれば大丈夫ですから」
「はい。洗濯してからお返しします」
「洗濯しなくても……」
僕が慌てて言うと、千尋がクスッと笑った。
「でも、お洗濯した方が気持ちいいでしょう?」
「それは……そうですが」
僕は正直に言うと、千尋の匂いが付いた上着をもう少し持っていてほしかった。
「明日、きちんとお返ししますね」
千尋が電車に乗っていく時、僕に向かって深くお辞儀をした。
「今日は本当にありがとうございました」
千尋の笑顔を見送りながら、僕は今日の出来事を思い返していた。
雨宿りの時間。二人だけの特別な空間。千尋を抱きしめた温かい感触。
少しずつ、でも確実に、二人の距離は縮まっている。
そして、千尋が自分を信頼してくれている。それが何よりも嬉しかった。
◆
家に帰ると、母が気づいた。
「健太、ずぶ濡れじゃない。上着どうしたの?」
「あ……友達に貸したんだ」
「友達って、千尋さん?」
母がニヤニヤしながら聞いた。
「……うん」
僕が恥ずかしそうに答えると、母が優しく微笑んだ。
「仲が良いようでなによりね」
母の言葉に、僕は深く頷いた。
千尋を大切にしたい。千尋を守りたい。
今日の雨宿りで、その気持ちがますます強くなった。
その夜、千尋からLINEが来た。
『今日はありがとうございました。上着、大切にお預かりします。また明日、お会いできるのを楽しみにしています♥』
僕は嬉しくて、何度もLINEを読み返した。
雨のおかげで、また一つ、大切な思い出ができた。




