第32話 帰り道の想い
次の週の土曜日の午後、水野屋でのSNS運用の作業を終えて、店の外に出ると、夕日が商店街を金色に染めていた。
「先週投稿した記事の反響がよくて……フォロワーが13人になりました」
「13人!着実に増えてますね」
「1人ずつでも増えていくのが嬉しくて」
千尋がスマホを見せながら言った。夕日が千尋の横顔を照らしている。
「箱根で撮った写真を使った『紅葉と和菓子』の記事、いいね、が多かったですよね」
「健太さんが撮ってくれた写真、素敵でした。構図とか光の加減とか、本当に上手で。私もあの写真のおかげで筆が乗った気がします」
千尋が僕を見つめながら言った。その視線が普段より少し長くて、僕は心臓がドキッとした。
「千尋さんの文章があるから、写真も生きてくるんです」
「私も、健太さんのおかげで、どうやってウェブやSNSで人を惹きつけるか、少し理解できた気がします」
千尋がそう言いながら、恥ずかしそうに髪を耳にかけた。その仕草がとても可愛らしくて、僕は見とれてしまった。
千尋が立ち止まった。何か言いたそうな表情をしている。
「それに……」
「それに?」
千尋が少し俯いて、それから僕を見上げた。
「健太さんと一緒に写真を撮ったり、記事を考えたりするのが……すごく楽しいんです」
僕の心臓がドクンと跳ねた。千尋の頬が夕日のせいか、ほんのり赤く見える。
「わたしこれまでずっと、『なにか家のためにがんばらないと!』って思ってて、和菓子作りを頑張ったりとかわかりやすいことばっかりやってました。でもそれって、根本解決になってなくて自己満足だったんだなって健太さんに教わった気がします」
「そんな」
急に自虐的なことを言い出す千尋に僕は目を丸くする。
「いえ、これはホントのことですから。健太さんはわたしのうちに真摯に向き合ってくれて色々なことを提案、いえ、それどころか実際にウェブサイトやSNSのセットアップまでやってくれました」
「実際に運営してるのは千尋さんじゃないですか」
「でも、着想、提案してくれたのは健太さんです。健太さんはどうして私のためにここまでしてくれるんですか?」
「それは……」
君のことが好きだから。
でも、この言葉は声に出すことができない。僕は確かに千尋のことが好きだ。でも千尋は?
僕が彼女のことを好き、といったときに千尋がNOといったら僕らの関係はどうなってしまうのだろう?
言葉に詰まる僕を見つめる千尋。
そして千尋は僕の答えを待たずに言葉を続けた。
「私は本当に健太さんに感謝しているんです。ううん、私だけじゃない。お父さんやおばあちゃんもです。
健太さんと出会ってから、毎日が楽しいんです。今後とも宜しくお願いします」
「も、もちろんです。僕からもよろしくお願いします」
僕にはこのときはこれしか言えなかった。
しばらく、二人は無言で歩いた。でも、嫌な沈黙ではなかった。むしろ、何か温かい空気が二人の間に流れているような気がした。
歩きながら、千尋が意識的に僕の近くを歩いているような気がした。いつもなら一定の距離を保って歩くのに、今日は肩と肩が触れそうなほど近い。
「あ」
千尋が小さく声を上げた。小石につまずきそうになったのを、僕が咄嗟に手を伸ばして支えた。
「大丈夫ですか?」
「はい……ありがとうございます」
千尋の手が僕の腕に触れている。その手がとても小さくて、温かくて、僕の心臓が跳ね上がった。
千尋も同じように感じているのか、頬が赤く染まっている。でも、すぐに手を離そうとはしなかった。
「あの……」
千尋が上目遣いに僕を見た。
「健太さんと一緒に歩いていると、とても安心するんです」
その言葉に、僕の胸が熱くなった。
「僕も、千尋さんと一緒だと……」
言いかけて、言葉を止めた。何と言えばいいのか分からなかった。
千尋が僕の手から離れて、また歩き始める。でも今度は、さっきよりもさらに近い距離で。
時々、千尋の髪が風に揺れて、僕の頬にかかりそうになる。その度に、千尋のシャンプーの香りがふわりと漂ってきた。桜のような、優しい香り。
(千尋さん、いつもより距離が近いような……)
そう思った時、千尋がちらっと僕の方を見て、すぐに前を向いた。その横顔が夕日に照らされて、とても綺麗だった。
「健太さん」
「はい?」
「今度の土曜日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
千尋が小さく微笑んだ。その笑顔を見ていると、僕はこの時間がずっと続けばいいのにと思った。
駅の前まで来ると、千尋が振り返った。
「健太さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また来週も、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
千尋が小さく手を振って改札に向かった。
「いえ、何でもありません。また明日」
「はい、また明日」
千尋が改札に向かって歩いて行く。僕はその後ろ姿を見送った。
僕は千尋の後ろ姿を見送りながら思った。
(なぜ僕は答えられなかったんだろう)
「健太さんはどうして私のためにここまでしてくれるんですか?」
千尋の問いかけが、頭の中で繰り返される。答えは分かっている。君のことが好きだから。でも、それを言えなかった。
(もし告白して、断られたら……)
千尋との今の関係が壊れてしまうかもしれない。そう思うと、怖くて言葉が出なかった。
◆
家への道すがら、僕はゆっくりと歩いた。いつもなら急いで帰るところだが、今日は千尋との会話を整理したかった。
商店街の灯りがひとつずつ点き始める。いつもの見慣れた風景なのに、今日は何か特別に見えた。千尋と過ごした時間の余韻が、まだ心に残っているからかもしれない。
(千尋さんの「健太さんと一緒だと楽しい」という言葉)
あの時の千尋の表情を思い出す。少し恥ずかしそうで、でも本心から言ってくれているようだった。僕への特別な想いが込められていたような気もするけれど、それは僕の希望的観測なのだろうか。
「健太さんはどうして私のためにここまでしてくれるんですか?」
千尋のあの質問は、きっと本当に不思議に思っていたんだ。普通に考えれば、クラスメートでもない、同じ学校でもない女の子のために、ここまで時間を使う男子高校生はいないかもしれない。
でも僕にとって千尋は、もうただのお手伝い先の娘さんじゃない。一緒にいると楽しくて、笑顔を見ていると嬉しくて、困っている時は助けたくなる。そんな特別な存在になっている。
(君のことが好きだから)
その答えを、なぜ言えなかったんだろう。
踏切の音が響く。電車が通り過ぎていく。あの電車に千尋も乗っているのかもしれない。
僕は立ち止まって、電車の光が遠ざかっていくのを見つめた。
千尋との関係は、最初は偶然の出会いだった。電車で毎朝顔を合わせるようになって、少しずつ話すようになって、水野屋のお手伝いをするようになって。
気がついたら、毎日千尋のことを考えるようになっていた。
でも、もし僕の気持ちを伝えて、千尋が困ってしまったら。今のこの関係も失ってしまうかもしれない。
その恐怖が、言葉を飲み込ませてしまった。
家が見えてきた。母の作る夕食の匂いが漂ってくる。いつもの平和な夕方の風景。
でも僕の心は、答えの出ない想いで複雑に揺れていた。




