第21話 健太の気づき
授業中、僕は千尋のことを考えていた。
昨日、千尋が勇気を出して僕を水野屋に招待してくれた。「健太さんにも、私の大切な場所を見てもらいたいんです」と言って、少し恥ずかしそうに微笑んだ千尋の顔が忘れられない。
数学の田中先生が黒板に複雑な関数を書いているのに、僕の頭の中は全然違うことでいっぱいだった。明後日の日曜日、千尋の水野屋を訪問する。百年続く老舗和菓子屋。千尋が生まれ育った場所。千尋の大切な世界。
気がつくと、ノートには数式ではなく、「水野屋」という文字ばかり書いてしまった。しかも丁寧に、何度も何度も。
「佐藤、この問題分かるか?」
突然先生に当てられて、僕は慌てた。
「え、あの……すみません」
クラスがくすくすと笑う。先生はため息をついて、次の生徒を指名した。
隣の山田が小声で言った。
「お前、今日ヤベーな。ずっとボーッとしてるじゃん。どうした?」
「そんなことないよ」
「嘘つけ。さっきからノート見てたけど、ずっと同じもの書いてるぞ」
山田がのぞき込んできた。
「水野屋って何だ?」
「和菓子屋さん」
「なんで和菓子屋?お前、和菓子なんて食わないだろ」
確かにそうだった。これまで和菓子に特別な興味があったわけではない。でも、千尋が話してくれる和菓子の世界は、なんだかとても魅力的に聞こえる。
「ちょっと……知り合いの店で」
「知り合い?」山田がニヤニヤしながら聞いてきた。「もしかして、彼女の実家?」
「違うよ!」
僕が慌てて否定すると、山田は笑った。
「でも、顔赤いぞ。絶対そうだろ」
確かに、僕の顔が熱くなっているのを感じた。なんで僕は、千尋のことになると、こんなふうになるんだろう。
「もしかして、最近電車で一緒にいる子のことか?」
千尋と一緒にいるところを何度か見られていたのか。電車は同じだったのだけど、時間がいつも違うので油断していた。まさか見られているとは。
「あの子、すっげー可愛いよな。お前、女子と話すの苦手だったのに、いつの間に仲良くなったんだよ」
「そんなんじゃないって」
「うっそだー」
おちゃらける山田を横目に、千尋のことを考える。千尋のことを「可愛い」と言われると、なんだか誇らしいような、でもちょっと複雑な気持ちになる。
◆
その夜、部屋で一人になると、千尋のことを考えずにはいられなかった。
最初に電車で話しかけた時のことを思い出す。千尋が本を読んでいて、僕は「和菓子の本ですか?」と声をかけた。あの時の千尋の表情――恥ずかしそうだけど、嬉しそうだった。
「はい、おばあちゃんから借りた本なんです」
そう答えた千尋の声は、少し震えていた。緊張していたのかもしれない。でも、和菓子の話を始めると、千尋の目が生き生きと輝いた。
「上生菓子って、季節の花や風景を表現するんです。春なら桜、夏なら朝顔、秋なら紅葉……」
千尋が話す和菓子の世界は、僕が知らない美しい世界だった。職人の技術、季節への想い、受け継がれる伝統。千尋の言葉から、その奥深さが伝わってきた。
そして、野崎さんを紹介した時の千尋の反応。
「本当に……本当にありがとうございます」
あの時、千尋の目に涙が浮かんでいた。僕の提案が、千尋にとってどれほど大切なことだったのか、その時初めて分かった。
千尋はいつも一生懸命だ。学校では真面目に勉強し、家では和菓子作りを学び、おばあさんの看病もしている。僕なんかより、ずっとしっかりしている。
でも、時々見せる不安そうな表情。水野屋の将来を心配している時の、困ったような顔。そんな千尋を見ていると、何か力になってあげたいと思う。
なんで僕は、こんなに千尋のことを考えてるんだろう?
千尋と話していると、時間があっという間に過ぎる。千尋が笑うと、僕も自然に笑顔になる。千尋がいない電車は、なんだか物足りない。
これって、何なんだろう。
考えても答えが出ないので、千尋の抱えている問題について調べてみることにした。
スマホで「和菓子屋 経営 大変」と検索すると、予想以上に深刻な記事がたくさん出てきた。
「老舗和菓子店の廃業相次ぐ」「後継者不足で伝統の味が消える危機」「洋菓子に押される和菓子業界」
読んでいると、胸が苦しくなった。千尋が心配していたのは、こういうことだったのか。
でも、明るい記事もあった。
「SNSで復活した老舗和菓子店」「インスタ映えする和菓子が若者に人気」「デジタル化で売上倍増の秘訣」
記事を読んでいると、共通点が見えてきた。伝統の技術は変えずに、伝える方法を変えている。美しい和菓子の写真をSNSで発信することで、若い世代が和菓子の魅力に気づいている。職人の手仕事の様子を動画で見せることで、和菓子への関心が高まっている。
つまり、和菓子そのものの価値は十分にある。ただ、その価値を知ってもらう方法が古いままなんだ。
これだ。デジタル化。
千尋の話を思い出した。水野屋の和菓子は本当に美味しい。職人の技術も素晴らしい。でも、若い人にはあまり知られていない。
もし、水野屋の魅力をもっと多くの人に伝えることができたら……。
僕はノートを取り出し、アイデアを書き始めた。
「ホームページを作る」
「SNSで和菓子の魅力を発信」
「オンライン販売で全国に」
「和菓子作り体験イベント」
「季節限定商品のPR」
どんどんアイデアが浮かんでくる。千尋が話してくれた和菓子の世界を、もっと多くの人に知ってもらいたい。千尋の頑張りを、無駄にしたくない。
でも、これらのことは千尋一人では難しい。おばあさんの看病もある中で、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
千尋はデジタル関係が得意じゃない。でも、僕なら手伝える。プログラミングは基礎的なことしか知らないけど、SNSの使い方も分かるし、今から勉強すれば何とかなる。これなら、千尋ではなく「僕」だからこそできることだ。
そこまで考えて、僕は手を止めた。
なんで僕は、ここまで真剣に千尋のことを考えてるんだろう?
友達として?それとも……。
千尋が困っていると、放っておけない。千尋が喜んでくれると、僕も嬉しくなる。千尋の夢を応援したいと思う。
でも、それだけじゃない気がする。
千尋と一緒にいると、特別な気持ちになる。千尋の笑顔を見ていると、胸が温かくなる。千尋の手が僕の手に触れた時、ドキッとした。
これって……。
そんな時、LINEの通知音が鳴った。
『健太さん、日曜日に来ていただけるの、なんだか夢みたいです』
千尋の嬉しそうな気持ちが、文章から伝わってくる。
『もちろんです。楽しみにしてます』
と返事を打ちながら、本当に楽しみだった。千尋の大切な場所を見せてもらえる。千尋の世界に、一歩近づける。
『うちの店、ちょっと古くさいですけど、がっかりしないでくださいね』
千尋らしい、控えめなメッセージ。でも、その心配は全然必要ない。
『千尋さんが大切にしているお店です。きっと素敵なところだと思います』
しばらくすると、返事が来た。
『健太さんって、いつも優しいですね。私、健太さんに出会えて本当に良かったです』
僕の胸が熱くなった。千尋にそう思ってもらえるなんて。
『僕の方こそです。千尋さんと話していると、知らない世界を教えてもらえて楽しいです』
『明日、お時間をとらせてしまってすみません。でも……とても楽しみです』
そして、少し経ってから、ハートマーク付きのメッセージが届いた。
『健太さん、ありがとう♥』
僕はスマホを見つめた。千尋からのハートマーク。こんな小さな記号なのに、胸が温かくなった。
千尋は、僕のことをどう思ってくれているんだろう。友達として?それとも……。もういい加減、僕の曖昧な気持ちに向き合わないといけない時が来てしまった気がする。
僕は千尋との過去を振り返ってみた。一つ一つ、丁寧に。
最初に電車で千尋に話しかけた時、僕はなぜ声をかけたんだろう。和菓子の本を読んでいる千尋が、なんだか特別に見えたから。
野崎さんを紹介した時、千尋が涙を浮かべて喜んでくれた。あの時の僕の気持ちは何だったんだろう。千尋の力になれたことが、自分のことのように嬉しかった。
LINEを始めて、千尋からメッセージが来るたびに心が弾んだ。千尋の返事を待っている時間さえも、楽しかった。
千尋が困った顔をしていると、放っておけなかった。千尋が笑うと、僕も自然に笑顔になった。千尋がいない電車は、物足りなく感じた。
そして今、千尋からのハートマークを見て、こんなに胸が温かくなっている。
一つ一つ確認していくと、答えは明らかだった。
これは全部、恋だったんだ。
僕は千尋のことが好きなんだ。
友達としてじゃない。特別な人として。一緒にいると幸せで、力になりたくて、もっと知りたくて、ずっと一緒にいたいと思う人として。
これが、恋をするということなんだ。
千尋の笑顔を見ていると幸せになる。千尋の悩みを聞いていると、何とかしてあげたいと思う。千尋の夢を応援したいと思う。千尋ともっと一緒にいたいと思う。
千尋と過ごす時間は、何よりも大切に感じられる。
これが、人を好きになるということなんだ。恋をするということなんだ。
僕は今まで、こんな気持ちになったことがなかった。誰かのことをこんなふうに考え続けたことも、誰かのためにこんなに何かしたいと思ったこともなかった。
でも、千尋に出会って、全部が変わった。
毎日の電車の時間が楽しみになった。千尋の話を聞くのが嬉しくなった。千尋の力になりたいと思うようになった。
そして今、こうして千尋の大切な場所に招待してもらえることが、何よりも特別に感じられる。
明日、好きになった人の大切な場所に行く。千尋の世界を、もっと知りたい。千尋の一部になりたい。そして、僕にできることがあるなら、何でもしてあげたい。
スマホの画面で、千尋のハートマークがまた輝いて見えた。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
日曜日のことを考えると、緊張と期待で胸がいっぱいになった。千尋のおばあさんに会う。水野屋の和菓子を実際に見る。千尋が普段過ごしている場所に足を踏み入れる。
そして、僕にできることがあれば、何か提案してみたい。デジタル化のアイデア。千尋の負担にならない方法で、水野屋の魅力をもっと多くの人に伝える方法。
でも、それ以上に、千尋と一緒に過ごす時間が楽しみだった。
好きになった人と一緒に過ごす時間。これまで経験したことのない、特別な時間。
そう思いながら、僕はようやく眠りについた。
夢の中で、千尋が笑顔で和菓子を作っている姿を見た。美しい季節の和菓子を、丁寧に、愛情を込めて作っている。その隣で、僕も一緒に笑っていた。千尋と同じ世界にいる僕がいた。
朝起きた時、僕は確信していた。
今日から、僕の人生は変わる。好きな人のために、本当に頑張りたいと思える日々が始まる。




