第02話 翌日の困惑
あの香りが忘れられなかった。
夜、数学の宿題をしていても、ふとペンが止まってしまう。母と夕食を食べていても、箸が止まってしまう。そのたびに、あの甘い匂いが蘇ってくる。シャンプーと石鹸と、それから何か温かい匂い。
「健太、お箸止まってるわよ」
「あ、ごめん。ちょっとね」
「疲れてるの?」
「う、うん。少しね」
母が心配そうに見てくる。僕は慌てて箸を動かした。
でも実際は、疲れているわけじゃない。あの子のことが気になって仕方がないのだ。
(変なこと考えてる…)
僕は自分を責めた。ただ電車で偶然体が接触しただけなのに、こんなことを考えるなんて。
父さんがいたら、こういうことを教えてくれたのかな。母さんしかいない家だから、女子のことがよく分からないんだ。
同じクラスの山田なら、こんなことで動揺しないだろう。山田は普通に女子と話せるから。
でも僕は、昨日の出来事が妙に印象に残っていた。
「大丈夫です」
あのきれいな声が、何度も頭の中で響いた。
翌朝、いつものように目覚ましが鳴った。でも今日は昨日と違って、すぐに飛び起きた。
「あれ、健太。今日は早いのね」
「うん、なんか目が覚めちゃった」
母が不思議そうに言った。僕は適当に答える。
洗面所に向かい、顔を洗う。そして、いつもより気持ち丁寧に髪を整えた。
(別に、あの子に会うからじゃないぞ)
自分に言い聞かせながら、でも鏡の前で髪型を確認してしまう。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
家を出ると、今日は昨日より暖かかった。桜のつぼみも、心なしか大きくなったような気がする。
駅への道のりを歩きながら、僕は考えた。
もし今日もあの子が同じ電車に乗っていたら、どうしよう。
なにか話したほうがいいのかな。でも一体、何を話せばいいんだ。
「おはよう、健太くん」
また近所のおばさんに声をかけられた。
「おはようございます」
今日は少し余裕を持って返事できた。
◆
改札を通り、ホームに立つ。7時22分発の電車が入ってくる。僕はいつもの場所に向かい、できるだけ昨日のことを思い出さないようにしていた。
でも、心は早鐘のように鳴っていた。
そして、あの子がいた。
同じ車両の、昨日とほぼ同じ場所。
また文庫本を読んでいる。
僕の心臓がドクンと跳ねた。
やっぱりいた…偶然じゃないのかな。
いや、乗っていて当たり前だ。私立桜ヶ丘女子高の生徒なら、この時間の電車に乗るのは自然なことだ。偶然でも何でもない。
でも、なぜか嬉しかった。
僕は努めて窓の外を見るようにした。でも、電車の窓ガラスに映る彼女の姿が、どうしても視界に入ってしまう。
今日は何を読んでいるんだろう。
ああ、また気になってる。
昨日の香りの記憶が蘇ってきて、僕は慌てて違うことを考えようとした。今日の一時間目は数学だ。宿題は終わらせた。母の弁当に何が入っているかな。
でも結局、彼女のことを意識してしまう自分がいた。
電車が揺れるたびに、昨日のことを思い出してしまう。あの一瞬の接触。あの匂い。そして、あの微笑み。
(今日も何か…)
よくわからない気持ちが湧いてくる。でも、話しかける勇気なんてあるはずもない。
「次は桜ヶ丘駅、桜ヶ丘駅です」
アナウンスが流れた。彼女が文庫本を閉じる。
僕は思わず見てしまった。一瞬、目が合ったような気がした。
でも、すぐに彼女は視線を逸らして、昨日と同じように電車を降りていった。
桜ヶ丘駅で彼女が降りていく後ろ姿を見送りながら、僕は思った。
(明日も…)
なんとなく、明日が気になった。
でも同時に、こんな自分がよくわからなかった。




