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7時22分の電車で始まる恋  作者: ほしみん


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第10話 関係の修復

『失楽園』事件から数日間、僕と千尋の間には微妙な空気が流れていた。


 朝、電車に乗ると千尋はいつもの場所にいるのだが、いつもより少し遠いところに立っていた。僕も、何を話しかけていいか分からなかった。


 でも、完全に避けているわけではない。目が合えば軽く会釈するし、電車が遅延すれば「今日も遅れますね」「そうですね」程度の会話は交わしていた。


 ただ、「今日は何を読んでるんですか?」という質問だけは、どちらからも出なかった。


 僕は毎朝、千尋が読んでいる本が気になった。今日は『こころ』、次の日は『舞姫』、その次は『雪国』。どれも安全な、誰に聞かれても恥ずかしくない名作ばかりだった。


(きっと、無難なタイトルをわざと選んでるんだな)


 僕はそう思った。でも、それを指摘することもできない。


 学校では、山田が僕の変化に気づいていた。


「健太、最近元気ないな」


「そう?」


「なんか、朝の機嫌が良くなかったり悪かったりするぞ。情緒不安定だな。何かあったか?」


 山田は鋭い。僕は適当に答えた。


「別に何も。季節の変わり目だからかな」


「そうか?そんなふうには見えんが……何かあったら相談しろよ」


 山田の優しさが、僕には少し重く感じられた。


 一週間が過ぎた金曜日の朝、いつものように電車に乗ると、千尋がいつもより近い位置に立っていた。


 そして、千尋の方から話しかけてきた。


「あの……」


 僕は驚いた。この一週間、千尋からの積極的な話しかけはなかった。


「先日は、変な反応をしてすみませんでした」


 千尋の方から謝ってくるなんて。僕は慌てた。


「いえ!僕の方こそ、変なタイミングに質問をして……よりによってしつ……」


「ご、ごほん」


 僕は思わずタイトルを電車の中で口にしようとして、千尋の咳払いに気づいて止める。


「す、すみません」


 千尋はジト目で僕を少し見ると、ため息を付いて続けた。


「でも、健太さんの反応も当然だと思います。普通、高校生があんな本を読んでるなんて思いませんよね」


 千尋が苦笑いした。僕も、つられて苦笑いした。


 この一週間の気まずさが、少しずつ溶けていくような気がした。


「なんで読んでるんですか?……あ、また変な質問を」


 僕は慌てて口を押さえた。また同じことを繰り返すところだった。


「大丈夫です」


 千尋が笑った。昨日までの気まずさが嘘のように、いつもの笑顔だった。


「実は、うちの祖母が読書家で。『教養のある女性になりなさい』って、いろんな本を勧めてくるんです。でも、たまに選択を間違えるみたいで……」


「おばあさんが……」


 僕は納得した。それなら分かる。きっと古い世代の人が選んだ「名作文学」のリストの中に、ああいう作品も含まれていたのだろう。


「祖母は戦前生まれなので、『これも名作よ』って普通に勧めてくるんです」


「そうなんですか」


「でも、確かに文章は美しいんです。内容は……その……大人っぽすぎますけど」


 千尋がまた頬を赤らめた。でも、今度は恥ずかしそうというより、困ったような顔だった。


「祖母に『どうだった?』って聞かれるのが一番辛いんです」


 僕は想像して、思わず笑い出してしまった。確かに、おばあさんに『失楽園』の感想を求められたら困るだろう。


「それは大変ですね」


「健太さんは笑い事だと思ってるでしょうけど、真剣に困ってるんです」


 千尋が頬を膨らませた。その表情があまりにも可愛くて、僕はもっと笑いたくなったが、我慢して慌てて質問した。


「あの時は……『失楽園』の時は、何て答えたんですか?」


 当然、『失楽園』は声を小さくするのを忘れない。


 千尋の動きが止まった。頬がほんのり赤くなる。


「……」


 しばらく沈黙があった。千尋は小さく頬を膨らませて、僕を見上げた。


「……イジワル」


 小さな声だった。でも、本当に怒っているわけではなさそうだった。むしろ、困ったような、恥ずかしいような、でも少し楽しそうな表情だった。


「すみません、気になって」


 千尋はため息をついた。


「『とても……大人の恋愛が美しく描かれていました』って答えました」


「それだけですか?」


「それだけです。祖母は『そうでしょう、名作よね』って満足そうでした」


 僕は想像して、また笑いそうになった。きっと千尋は必死に顔を赤くしながら、そう答えたのだろう。


「でも、その後しばらく祖母の顔を見るのが恥ずかしくて……」


「すみません。でも、なんだか安心しました」


「安心?」


「てっきり、そういう本が好きで読んでるのかと……」


「そんなわけないじゃないですか!」


 千尋が慌てて否定した。その慌てぶりがまた可愛くて、僕は心の中で笑った。


「桜ヶ丘駅、桜ヶ丘駅です」


 アナウンスが流れた。今日はあっという間に時間が過ぎた気がした。


「それでは、また月曜日」


「はい、また月曜日」


 千尋が降りていく時、いつもより軽やかな足取りだった。


 僕も、一週間ぶりに朝から気分が良かった。


 学校に着くと、山田が気づいた。


「健太、今日は機嫌いいな」


「そう?」


「先週までなんか沈んでたのに、今日は生き生きしてる」


 山田の指摘に、僕は少し恥ずかしくなった。そんなに分かりやすかっただろうか。


「金曜日だからかな」


「そうかもな。週末だし。TGIF!Hoo!」


「TGIF?」


 僕は思わず聞き返す。


「『Thank God, It's Friday!』ってオーラル(英会話の授業)の先生が前言ってただろ?神様ありがとう、今日は金曜日だ!って」


 全く覚えてない。


「なんだそりゃ」


 二人は笑い合う。


 僕の機嫌がいい本当の理由は違う。千尋との関係が、また元に戻った安堵感。それどころか、前よりもっと親しくなれた気がした。


 おばあさんの話を聞けたし、千尋の困った顔も見られた。そして何より、千尋が自分に心を開いてくれているということが嬉しかった。

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