第10話 関係の修復
『失楽園』事件から数日間、僕と千尋の間には微妙な空気が流れていた。
朝、電車に乗ると千尋はいつもの場所にいるのだが、いつもより少し遠いところに立っていた。僕も、何を話しかけていいか分からなかった。
でも、完全に避けているわけではない。目が合えば軽く会釈するし、電車が遅延すれば「今日も遅れますね」「そうですね」程度の会話は交わしていた。
ただ、「今日は何を読んでるんですか?」という質問だけは、どちらからも出なかった。
僕は毎朝、千尋が読んでいる本が気になった。今日は『こころ』、次の日は『舞姫』、その次は『雪国』。どれも安全な、誰に聞かれても恥ずかしくない名作ばかりだった。
(きっと、無難なタイトルをわざと選んでるんだな)
僕はそう思った。でも、それを指摘することもできない。
学校では、山田が僕の変化に気づいていた。
「健太、最近元気ないな」
「そう?」
「なんか、朝の機嫌が良くなかったり悪かったりするぞ。情緒不安定だな。何かあったか?」
山田は鋭い。僕は適当に答えた。
「別に何も。季節の変わり目だからかな」
「そうか?そんなふうには見えんが……何かあったら相談しろよ」
山田の優しさが、僕には少し重く感じられた。
一週間が過ぎた金曜日の朝、いつものように電車に乗ると、千尋がいつもより近い位置に立っていた。
そして、千尋の方から話しかけてきた。
「あの……」
僕は驚いた。この一週間、千尋からの積極的な話しかけはなかった。
「先日は、変な反応をしてすみませんでした」
千尋の方から謝ってくるなんて。僕は慌てた。
「いえ!僕の方こそ、変なタイミングに質問をして……よりによってしつ……」
「ご、ごほん」
僕は思わずタイトルを電車の中で口にしようとして、千尋の咳払いに気づいて止める。
「す、すみません」
千尋はジト目で僕を少し見ると、ため息を付いて続けた。
「でも、健太さんの反応も当然だと思います。普通、高校生があんな本を読んでるなんて思いませんよね」
千尋が苦笑いした。僕も、つられて苦笑いした。
この一週間の気まずさが、少しずつ溶けていくような気がした。
「なんで読んでるんですか?……あ、また変な質問を」
僕は慌てて口を押さえた。また同じことを繰り返すところだった。
「大丈夫です」
千尋が笑った。昨日までの気まずさが嘘のように、いつもの笑顔だった。
「実は、うちの祖母が読書家で。『教養のある女性になりなさい』って、いろんな本を勧めてくるんです。でも、たまに選択を間違えるみたいで……」
「おばあさんが……」
僕は納得した。それなら分かる。きっと古い世代の人が選んだ「名作文学」のリストの中に、ああいう作品も含まれていたのだろう。
「祖母は戦前生まれなので、『これも名作よ』って普通に勧めてくるんです」
「そうなんですか」
「でも、確かに文章は美しいんです。内容は……その……大人っぽすぎますけど」
千尋がまた頬を赤らめた。でも、今度は恥ずかしそうというより、困ったような顔だった。
「祖母に『どうだった?』って聞かれるのが一番辛いんです」
僕は想像して、思わず笑い出してしまった。確かに、おばあさんに『失楽園』の感想を求められたら困るだろう。
「それは大変ですね」
「健太さんは笑い事だと思ってるでしょうけど、真剣に困ってるんです」
千尋が頬を膨らませた。その表情があまりにも可愛くて、僕はもっと笑いたくなったが、我慢して慌てて質問した。
「あの時は……『失楽園』の時は、何て答えたんですか?」
当然、『失楽園』は声を小さくするのを忘れない。
千尋の動きが止まった。頬がほんのり赤くなる。
「……」
しばらく沈黙があった。千尋は小さく頬を膨らませて、僕を見上げた。
「……イジワル」
小さな声だった。でも、本当に怒っているわけではなさそうだった。むしろ、困ったような、恥ずかしいような、でも少し楽しそうな表情だった。
「すみません、気になって」
千尋はため息をついた。
「『とても……大人の恋愛が美しく描かれていました』って答えました」
「それだけですか?」
「それだけです。祖母は『そうでしょう、名作よね』って満足そうでした」
僕は想像して、また笑いそうになった。きっと千尋は必死に顔を赤くしながら、そう答えたのだろう。
「でも、その後しばらく祖母の顔を見るのが恥ずかしくて……」
「すみません。でも、なんだか安心しました」
「安心?」
「てっきり、そういう本が好きで読んでるのかと……」
「そんなわけないじゃないですか!」
千尋が慌てて否定した。その慌てぶりがまた可愛くて、僕は心の中で笑った。
「桜ヶ丘駅、桜ヶ丘駅です」
アナウンスが流れた。今日はあっという間に時間が過ぎた気がした。
「それでは、また月曜日」
「はい、また月曜日」
千尋が降りていく時、いつもより軽やかな足取りだった。
僕も、一週間ぶりに朝から気分が良かった。
学校に着くと、山田が気づいた。
「健太、今日は機嫌いいな」
「そう?」
「先週までなんか沈んでたのに、今日は生き生きしてる」
山田の指摘に、僕は少し恥ずかしくなった。そんなに分かりやすかっただろうか。
「金曜日だからかな」
「そうかもな。週末だし。TGIF!Hoo!」
「TGIF?」
僕は思わず聞き返す。
「『Thank God, It's Friday!』ってオーラル(英会話の授業)の先生が前言ってただろ?神様ありがとう、今日は金曜日だ!って」
全く覚えてない。
「なんだそりゃ」
二人は笑い合う。
僕の機嫌がいい本当の理由は違う。千尋との関係が、また元に戻った安堵感。それどころか、前よりもっと親しくなれた気がした。
おばあさんの話を聞けたし、千尋の困った顔も見られた。そして何より、千尋が自分に心を開いてくれているということが嬉しかった。




