SIDE・レイル7
外に一歩足を踏み出した瞬間、思わず息をのんだ。
――明らかに、空気が変わっていた。
重く、じっとりと肌にまとわりつくような空気に、肺の奥まで濁ったものを吸い込んでしまいそうになる。
「……息、苦しい……」
ユウラが小さく呟いた。その頬に当たる風すら、黒い霧のように見えていた。
視界はぼやけ、建物の輪郭すら滲んで見える。まるで、街全体が黒い気配に包まれてしまったかのようだった。
足元も、ぐらり、ぐらりと相変わらず揺れていた。地面がわずかに沈むような、浮いているような、不安定な感覚。
「……ここ、本当に同じ街か……?」
俺は思わず呟いた。声にすら重みが乗って、喉の奥がヒリつく。
そのときだった。
「――ホーノルローン!」
唐突に、ライトが大声を張り上げた。
「えっ……!?」
俺とユウラが同時に振り返った瞬間、ライトが天に両手を掲げる。その掌から、ふわりと白く、柔らかい光が降り注ぎ、俺たちの全身を包み込んだ。
「……これは……?」
「結界を張りました。城に着くまでは持つでしょう」
ライトがそう言った直後、さっきまでの霧がすっと消えていく。
嘘みたいに、空気が澄んだ。
揺れていた足元の感覚も、次第に安定してくる。
「……すごいな、お前……」
俺は思わず呟いた。嘘でも大袈裟でもなく、本気で感動していた。
ライトは少し得意げに微笑みながら、肩をすくめる。
「いえいえ。お二人も、明日のギルド集会でそれぞれ武器や能力を得る予定ですから。とはいえ……生かすも殺すも、己次第ですけどね」
「……使い方次第、か」
「あなた方なら、大丈夫と信じてますよ。特に……レイルさん、あなたは」
ライトが、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その真剣な眼差しに、なぜか背筋が伸びる。
「……俺?」
「ええ。あなたは、まだ自覚していない力を内に秘めているように感じます。ギルドの中でも稀なタイプですね」
「ちょ、ちょっと……急にそんなこと言われても……」
視線を逸らしかけたその瞬間――
「――リアクトラースト!」
またしても、ライトが力強く声を張った。
その直後、地面に青白い光がぱあっと走る。まるで誰かの指でなぞったかのように、淡く、くっきりと、道の上に一本の線が浮かび上がる。
「こ、これ……」
「個体反応が一番少ない、最短ルートを示しました。……今から通るべき道です」
「すごい……」
ユウラが、心底驚いたような声を漏らした。そして、そっとライトの隣に並び、まっすぐに彼を見上げる。
「……ライトさん、本当に……ありがとうございます」
その言葉には、心からの安心と感謝がにじんでいた。
ライトは照れたように目を細めながら、軽く首を振る。
「私にすれば当然のことですよ。……気にしないでください」
「でも、危ないかもしれないのに……」
「危険だからこそ、私の役目なんです。ギルドの一員ですから」
静かに、しかし確かな自信を持ってそう言ったライトの声に、何かが胸にしみるような気がした。
「……よし、早く行こう」
俺が足を踏み出すと、その横でユウラもライトも深く頷いた。
そして、青く光る道を三人で静かに進み始めた。
途中まで、どうにか順調に進んでいた――
そう、思っていた……けど、それは突然だった。
「っ……!!」
俺の背中を、ぬるりと這うような寒気が撫でた。
何かが―― 近い。
「ユウラ、下がれ!」
そう叫んで振り返った瞬間、目に飛び込んできたのは、黒く粘つく何か。
まるで濃く擦った墨に粘度を持たせたような、不定形の物体だった。
ドロリ、ヌメリ、と流れるようにうごめきながら、音もなく地を這い、こちらへ迫ってくる。
「な、なんだよ……あれ……!」
息が止まりそうな気味の悪さに、反射的に腰の光剣を引き抜いた。
発光する刃が、ぬるりとした黒の表面にかすかな光の筋を走らせる。
「うおおおっ!!」
勢いよく剣を振り下ろした……が、次の瞬間、嫌な感触が腕に伝わる。
「……くっ、吸われてる……?」
斬撃は、まるで墨の沼に沈み込むように、何の抵抗もなく飲み込まれた。
その物体はぶるりと微かに震えたあと、なにもなかったように再び這い寄ってくる。
「効いてねぇ……っ!」
「レイルさん、右っ!」
ユウラの声に反応し、もう一度振り返った時には、その黒い塊がじゅるりと音を立てて地を這い、すぐ足元にまで迫っていた。
「下がって!」
ユウラもすかさず腰から光の銃を抜き、連射する。
ドンッ、ドンッ!
鋭い音と共に放たれる光弾。だが、それも……
「え……消えてる……!?」
命中したはずの場所が、墨のような粘体に吸収され、光が拡散もせずに溶けていった。
「どうなってるの……っ!」
ユウラの頬が引きつり、手元が震え始める。
ぬるりとした黒の塊は、まるでこちらの動揺を嘲笑うかのように、再びにじり寄ってきた。
「結界……ライトの結界を突破してきてる……?」
「レイルさん、ユウラさん、下がって!」
その声と共に、ライトが前に飛び出した。
「ライト……!」
彼は俺たちの前に立ち、静かに右手をかざす。
その瞬間――
「――リノマ・シードリス……」
低く囁くようなその声と同時に、ライトの瞳が、ぞっとするほど鮮やかな赤に染まった。
「……!」
何かが……変わった。
空気の密度が変わる――
まるで世界の中心が、ライトの掌へと引き寄せられているかのように。
ライトの掌には、いつの間にか淡い赤の魔法陣が浮かび上がっていた。
バフンッッ……!!
風が――爆発した。
信じられないほどの風圧が、俺たちの髪と服を巻き上げ、押し寄せるように吹き抜ける。
その風の中心から、鋭い一条の光が、あの粘度を帯びた墨のような不定形の物体――どろりとうごめく闇そのものへと突き刺さった。
ズドンッッ!!!
地面が揺れ、空気が震え、瞬間的に視界が白く弾けた。
「うわっ……!」
俺は思わず目を覆った。
その直後――
ぐひゃぁぁぁぁ……!
耳をつんざくような、甲高い断末魔の声。
墨のような黒の塊は、その叫びと共に空中で引き裂かれ、光の中へと飲み込まれるようにして、一瞬で跡形もなく消え去った。
「……っ、ぜぇ、はぁ…はぁ……」
ライトは肩を上下させながら、ゆっくりと手を下ろした。
「……ライト……今の……」
「はぁ……はぁ……想定外でしたね。……結界すら意味を成さない個体なんて……」
「今の、普通じゃなかった……よな」
俺もユウラも、目の前の光景に息をのんだままだった。
「ええ。今のは、おそらく強制侵蝕型……向こう側の意思を媒介して現界した個体……でしょうね」
「……な、なんだよ、それ……」
「わかりやすく言えば、すでにこの街に、異なる世界の意志が干渉している証です」
ライトの表情はいつものように笑ってはいなかった。
その真剣な顔に、俺もユウラも言葉を失う。
「つまり……もう、待っている猶予はない、ということです」
静かに、しかし重く、ライトはそう言い切った。
ユウラが、震える声で口を開いた。
「……あの物体、もっとたくさんいたら……」
「確実に、明日の集会すら開催できません」
ライトの答えは、簡潔だった。
けど……だからこそ、俺たちの中に、ひとつの強い意志が芽生えた。
「行こう。こんなところで足を止めてる場合じゃない」
「……はい!」
「ええ。急ぎましょう」
まだ、終わってない。むしろ―― これからが、本番だ。




