SIDE・レイル3
ユウラの体温が、どこかいつもより冷たく感じた。
その小さな体から伝わるぬくもりは確かにあるのに、今のユウラは、まるで不安や恐怖が体の芯まで染み込んでいるようで、俺の手のひらで、頼りなげに震えていた。
「すみません……体が、うまく動いてくれなくて……」
絞り出すような声。普段なら、きっとこんな風に弱音を口にする子じゃない。だけど今は、その姿すら痛々しいほどだった。
「無理するな。……立てるか?」
そっとユウラの背に手を回し、ゆっくりと抱き起こす。細い肩が俺の手の中で揺れた。
ユウラは小さく頷いたあと、唇をかすかに震わせながら言った。
「……レイルさんの足手まといには、なりたくないんです……」
――こんなに震えてるのに。
言葉の強さと裏腹に、ユウラの声には、恐怖と、焦りと、悔しさがにじんでいた。
控えめで、自己主張が得意じゃない。でも、決して逃げない。恐怖を抱えたままでも、誰かのために立とうとする……それがユウラなんだって、改めて思った。
「ユウラ、ちょっとだけ待っててくれ」
片腕で彼女をかばいながら、俺はもう一方の手で通信端末を取り出した。アルトの名前を選び、耳元にあてる。
――接続中――
……頼む、繋がってくれ。
『……レイル、どうなった!?ユウラいたか!?』
よし、繋がった。
「……ああ。さっき見つけて、無事に話ができた。今は一緒にいる」
『ほんとによかった……。早く戻ってこいよ』
「それより、大変なことになった。今、街の外れにいる。空に……黒い裂け目みたいなものが現れて、街全体も揺れてて、空気もおかしい」
『……黒い、裂け目?』
一瞬、アルトの声の調子が変わった。
『それ、リオンが前に話してた異常と近い気もするけど……裂け目の話はなかったな。こっちもすぐに確認してみる。今、リオンたちと連絡取ってるから』
「アルト……悪いが、今いる場所からタルが近い。紋章の刻印、先に済ませてから戻ってもいいか?」
『ああ、それがいい。合言葉は“青の魔道書を12冊、リズの枝を3本、レモンの果汁を加えて”だ。店主のオール――こと、ライトに伝えれば通じる』
「了解。終わり次第すぐに戻る」
『レイル……気をつけろよ。ミリの報告によると、外から来てる変質個体の行動が、今までと違ってきてるらしい。規則性が崩れてる。……何があるかわからない』
「わかった。慎重に動く」
通話を切ると、ユウラが俺を見上げ、小さく唇を開いた。
「……私、役に立ちたいって……いつも思ってるのに……すみません……」
「そんなこと言うなよ」
俺は優しくユウラの頬をなでるようにして言った。
「今こうして、俺の隣にいる。それだけで、もう十分だ。……無理に何かしようとしなくていい」
「……レイルさん……」
その小さな声には、どこか張り詰めていたものが少しだけほどけたような、そんな柔らかさがあった。
「無理に強がらなくていい。俺の前だけでは……素直でいてくれ。お前は、もっと……自分を甘やかしてもいいんだよ」
「……はい……ありがとうございます……」
言葉を重ねるたびに、ユウラの手の震えが少しずつ弱まっていくのがわかった。
「……アルトの話、聞いてたと思うけど。このままタルに向かう。ユウラは……大丈夫か?」
ユウラはゆっくりと頷いた。そして、少し躊躇いながらも、俺の手を取り直す。
その手はまだかすかに震えていたけれど、さっきよりも強く、しっかりと俺の手を握っていた。
「……はい。大丈夫です」
たったそれだけのやりとりだったけど、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
――これだけで、俺はまた前へ進める。
ユウラがそばにいる。それが何よりの力になる。
足元に続く石畳が、まるで生き物のようにかすかに波打っている。建物の軒先では、ランタンがキィキィと不安定に揺れ、窓ガラスが薄く軋む音が遠くから響いていた。
そんな異様な空気のなか、俺とユウラは肩を寄せ合うようにしながら、街の細い路地を駆け足で進んでいた。
俺の手の中には、ユウラの温もり。
ユウラは小さな体で、精一杯俺の横に立っていた。手のひらはまだ少し冷たいけど、握り返す力はしっかりしていた。
「……すみません、遅くて……」
「気にするな。ゆっくりでいい」
「……でも……街の様子が、さっきより……変です……」
ユウラが不安げに空を見上げる。
俺もつられて視線を上げると、さっきよりも濃くなった黒い裂け目が、空の真ん中に鈍く広がっていた。
まるで、誰かがこの世界の布を乱暴に裂いたように。そこだけが異物だった。
ユウラの足取りが一瞬ふらついた。
「きゃっ……」
「ユウラ……!」
咄嗟に支えると、ユウラはほんの少しだけ俺の胸に体を預けた。
すぐに顔を背けようとしたユウラに俺は――
「……大丈夫。いいんだ。そうやって少しずつでも頼ってくれることが、俺は嬉しい」
その言葉に、ユウラの指先がわずかに強く俺のシャツを握った。
「……ありがとう、ございます」
その声がかすれていたのは、たぶん風のせいじゃない。
俺たちはそのまま歩を進める。やがて、「タル」の木造の建物が見えてきた。
軒先の看板が揺れ、ギィィ……と風で小さく鳴る。
「……ここだ」
「……はい」
そして、俺たちは、手をつないだまま、店の扉を押し開けた。
―― チリリン……
やわらかい鈴の音が響いた。
中は驚くほど静かだった。まるで外の騒がしさが嘘のように、穏やかな空気に包まれている。
俺は思わず眉をひそめた。さっきまでの地面の揺れが、ここに入った瞬間、ぴたりと止まったからだ。
……異常なほど、静かすぎる。
カウンターの向こうで、茶色い髪をセンターで分けたローブ姿の男――オールことライトが、淡々と薬草の瓶を並べ直していた。
気配に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げる。
「いらっしゃいませ。……外の様子が、だいぶおかしくなってきましたね」
ちらりと窓の外を見て、静かな口調で続ける。
「空の黒い裂け目……気になりますね。嫌な予感が、じわじわと這い寄ってくる感じです」
ユウラが隣で小さく肩をすくめた。
それを感じ取ったのか、ライトがこちらへと柔らかく微笑む。
「でも、ご安心を。この店の中は、特殊な結界で守られています。外の揺れも、歪みも、ここまでは届きませんよ」
「……結界、ですか」
「ええ。街に何か起きたときのために、念のため施してあるだけです。安全確保の一環ですよ」
俺は息を整えて一歩進み出た。
「……ギルドの紋章の刻印をお願いしたい。それと、ここでカップル登録も可能なら頼みたい」
ライトはその言葉に、ほんの一瞬だけ表情を和らげた。
「ええ、もちろん可能です。登録端末も用意しておりますので、刻印後に案内いたしますよ」
「……よかった。ありがとう」
「……では、確認のために“例の言葉”を」
俺はユウラの手をぎゅっと握り直してから、ライトの耳元へ顔を寄せ、小さく、はっきりと囁いた。
「――青の魔道書を12冊、リズの枝を3本、レモンの果汁を加えて」
その瞬間、ライトの眼差しが変わった。
静かな微笑みの奥に、一瞬だけ光るような鋭さ。
だが、すぐにまた穏やかな表情へと戻り、彼は静かに頷いた。
「確認しました。どうぞ、奥へ」
ライトがカウンター脇の木製の扉をそっと開く。
「この先も、結界の範囲内です。どうか、安心してお入りください」




