SIDE・リオン5
僕はモニュメントの手前まで戻ると、ふと立ち止まり、もう一度だけ後ろを振り返った。
澄み渡る青空。穏やかにそよぐ風。木々の葉がやさしく揺れていて、まるで何事もなかったかのような、穏やかな世界がそこには広がっていた。
でも、その静けさに背を向けて、一歩だけ前へ踏み出した瞬間。
「……っ!」
肌を刺すような風。ぐにゃりと歪む視界。空の色が滲んで、足元も不安定に揺れていた。
やっぱり――ここが、境界か。
僕は少しだけ距離を取ってから振り返り、ルシアを呼んだ。
「ルシア! 聞こえる?」
「うん!ちゃんと聞こえるよ!」
「僕のいるところ……どう見えてる?」
「んー……ぽかぽかの陽射しの中で、リオンがちょっと真面目な顔して立ってるだけに見えるけど?」
「……そっか。ありがとう」
やっぱりだ。ここから先とこっちでは、まるで世界の見え方が違う。
僕は急いでルシアのもとへ戻った。
「リオン、大丈夫……?」
「うん。けど、やっぱり僕とルシアで見えてる景色が違ってた」
「え……?」
「僕が立ってたところは、空も歪んでて、風も冷たかったんだ。でもルシアからは、まったく普通に見えてた」
ルシアは少し戸惑いながら、モニュメントに視線を向けた。
「……じゃあ、やっぱりモニュメントが境界……?」
「間違いない。あの先はもう、何かに浸食されてる。こっちとは、明らかに違う」
するとルシアが僕の袖をきゅっとつかんだ。
「同じ場所にいるのに、同じ景色を見てるはずなのに、感じ方がこんなに違うなんて……なんだか苦しいよ……それに寂しい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと締めつけられた。
「……うん。でも、それに気づけたのは、ルシアがいてくれたからだよ」
僕は静かに頷いて、彼女の目を見て言った。
「必ず、街を元に戻そう。ルシアが苦しくないように、寂しくないように……」
ルシアは少し驚いたような顔をして、でもすぐにふわっと笑ってくれた。
「……リオン、頼もしいね」
「でしょ?」
ちょっと胸を張ってみせると、ルシアがクスッと笑った。
「うん、ちょっとだけね」
「ちょっとだけかよっ!」
そんな軽口を交わしながら、僕たちは城へと向かって歩き出した。
モニュメントを背に、街の中心部を抜ける石畳の道を駆け足で進む。
風は優しく頬を撫でてくるのに、胸の奥は妙にざわざわして、落ち着かなかった。
さっきまでの滲んだ空も、あの異様な揺れも、まるで夢だったかのように静かな時間が流れている。
そのとき、不意にルシアが言った。
「ねえ、リオン」
「ん?」
「……リオンって、どうしてお城にいるの?」
僕は足を止めかけた。けれど、ルシアは歩を止めず、横目で僕を見るだけだった。
「変な意味じゃないよ?ただ……ああいう場所に入れる人って、限られてるでしょ。さっき、通信してた相手も、お城の人……なんだよね?」
「……うん、さっきのはアルトくん。今はサクラちゃんのそばにいる人だよ」
「サクラさんって……女王さま、だよね?」
「そう」
僕は少しだけ息を吸い込んで、歩調を合わせながら話し始めた。
「……最初にこの世界に来たとき、僕には使命があった。サクラちゃん、つまり女王さまの感情を動かすこと」
「えっ……」
「この国では、感情を持つ者は少ない。だから、女王の心が動けば、この世界そのものが変わるって言われてて……」
ルシアは静かに頷きながら僕の言葉を待ってくれていた。
「だから、異世界から感情の豊かな人間を呼び寄せるって方法が選ばれて、選ばれたのが……僕だった」
「……じゃあ、サクラさんを落とすっていうのは……?」
「うん。恋愛的な意味で心を動かす。それが僕に与えられた役割だった」
ルシアは眉を少しだけ寄せた。
「……それって、本当に本人の意思とか関係なく?」
「うん。気がついたらもう、この世界にいて、『君が女王を動かす鍵だ』って言われてさ。もちろん、当時の僕はその言葉に調子乗って――」
ルシアがくすっと笑いかけたのにつられて、僕も思わず笑ってしまった。
「そう、『僕に落とせない女の子なんていない』とか、『見てて女王さま、僕の美学で君の心を燃やしてみせるよ』とか、ひたすらナルシストなことばっか言ってた」
「……想像できるかも」
「できちゃうんだ……」
ふたりで小さく笑い合ったあと、僕はふっと表情を引き締めた。
「でも……ダメだった。サクラちゃんは、何をしても微動だにしなかった。言葉も、行動も、全部が届かなかった」
ルシアは驚いたように目を見開いた。
「……え、リオンが?」
「うん。僕の完璧ナルシスト攻撃が、まるで氷の壁にぶつかって砕けるみたいだった」
「それって……すごく、つらかったでしょ?」
「うん、正直きつかった。……でもね、それ以上にショックだったのは、そのあとだった」
ルシアが少し首を傾げる。
「……その続きって?」
ルシアの問いに、僕はふっと顔を伏せた。
「女王の心を動かすっていう使命……それをね、僕じゃなくて、他の人が果たしたんだ」
「え……?」
「アルトくんっていうんだ。さっき、通信してた相手。彼はサクラちゃんのそばにいて、一瞬で彼女の心を動かしたよ」
ルシアは驚いたように、静かに僕の顔を見つめた。
「つまり……女王さまの心を動かしたのは、リオンじゃなくて……?」
「うん。アルトくんだった」
喉の奥が少し痛む。でも、それを受け入れられないほど子供じゃない。
「僕がどれだけ自信満々に迫っても、サクラちゃんはまったく反応を示さなかった。笑うことも、怒ることも、何もなかった」
「……そんなに、完全な無感情だったんだ」
「そう。……正直、僕、自信あったんだよね、自分の魅力でどうにかなるって。けど……完敗だった」
少し唇を噛みながら、僕は言葉を継いだ。
「それでも、放り出されるわけじゃなくてさ。今度は巡回任務に就かされたんだ」
「巡回任務?」
「うん。変質個体、つまり……感情が歪んで力を持ってしまった個体を、抑える任務。言ってしまえば、始末屋みたいなもんだった」
ルシアが息をのむ音が聞こえた。
「……そんなこと、してたの……?」
「うん。もう、誰かを落とすとかじゃなくて。戦って、抑えて、時には消して……それが僕に与えられた次の役割だった」
「サクラさんが……それを命じたの?」
「そう。あの人は一切の感情を見せなかったけど、命令は的確だった。少しの迷いもなかったよ」
「……リオンは、それを……受け入れたんだね」
僕は少しだけ肩をすくめて笑った。
「最初はね、ムカついたよ。負け犬扱いされたみたいで。でも、不思議なもんで……動いてるうちに、自分にしかできないことがあるんじゃないかって思い始めてさ」
「それって……」
「皮肉だけど、女王にフラれた男だからこそ、やれる仕事ってあるんだなって」
ルシアは驚いたまま、それでもそっと僕の袖を握ってくれていた。
「でもね」
僕は、ルシアの瞳をまっすぐに見つめた。
「今こうして、ルシアと一緒にいるこの時間が、僕がこの世界に来てから、一番、本当の自分でいられる時間って気づいた」
「リオン……」
ルシアが小さく瞬きをして、それからふわりと笑った。
「……やっぱり、変な人」
「えぇ!? 今のどこが!?」
「全部。かっこつけようとして、全然かっこついてないとことか。ちゃんと過去を話してくれるところとか。でも、そこが……悪くないなって思ってる」
「えっ、それって……」
「言わない。察して?」
「ルシアああああああああっ!」
ふたりで笑い合いながら、僕たちは再び城へと足を進めていった。
――女王を落とせなかった僕だからこそ、出会えた言葉がある。
――無感情に弾かれた僕だからこそ、掴みたい温もりがある。
それを、今、ようやく本気で大事にしたいって思えてる。




