目覚め
「ラピス、起きなさい!」
目を開けると、視界いっぱいに淡い光が広がった。
天界のそれのは違う、優しい光ーー
レースのカーテンが緩やかに揺れ、白いベッドの上にふわりとした布団。
ふと横を見ると、丸みを帯びたかわいらしいクッションが寄り添うように置かれている。
天界の冷たく静かな空気とは違い、どこか温かくて柔らかい匂いがした。
「ここは……」
「ラピス?」
数回のノック音と同時に、自分より年上であろう女性がドアを開け、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「大丈夫?今日午後から出発でしょう?
入学の準備は終わっているの?そろそろ起きないと。」
もちろん見たことのない顔だったが、ラピスの口が自然に動いた。
「お母さん…?」
ーーおかあさん?!
以前魂と話をした時にたびたび出てきていた”お母さん”という言葉。
知識としては持っていたが、ラピスには母親という存在はいないはずだ。
ということは…。
「はいはい。まだ寝ぼけているのね?
早く準備しちゃいなさいね!」
ーー人間になった…?
ラピスは勢いよく起き上がり、自分の背中に手を伸ばした。
ーー羽根が…!
いつもそこにあったもの。
天界で無意識に羽ばたかせていた、自分の証ーー
ない。
どこにもない。
「……っ!!」
言葉にならない息が漏れる。
今自分は紛れもなく、人間なのだ。
ラピスはベッドのそばにある大きな窓に手を伸ばす。
手入れされたカーテンを開け、さらに窓を開ける。
全て触ったことも見たこともないもののはずなのに、こうすればいい、と自分の人間の身体が覚えている。
「はーー…っ!!!」
物質界の空気。
これが…空気…!!
自然の香りが混ざった爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込む。
なんで清々しいのだろう。
天界では感じられない感覚だ。
ーーこれが、ずっと憧れていた物質界…!!
ラピスは窓から外の景色を眺めた。
石造りの道、そしてそれに沿うようにたくさん植えられた木々。
年季を感じる煉瓦造りの建物。
全て新鮮だ。
全て新鮮なのに、全て知っている感覚がある。
するとまた母親の声がする。
「ラピスー!ディアン君が来てくれたわよ!」
ーーディアン…?
この名前は聞き覚えがなかった。
必死に思い出そうとぼんやりしていると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「っ……お前!!一体、な、何をしてくれたんだ!!」
そのディアンらしき少年は、軽くウェーブがかかった焦茶色の髪、瞳は透き通った青色をしている。
しかし階段を勢いよく登ってきたのか、髪はやや乱れ、ドアに軽く手をかけて怒りを顔に浮かべてこちらを見ている。
ここまでまじまじと見ても、彼を知っている感覚は無かった。
「…何って…??」
「とぼけても無駄だぞ。
俺にはわかるんだからな……お前が禁忌を破った天使だって!!」
「!?…どうして…!?」
すると後ろからまた母親が現れ、声をかけてきた。
「あらあら。相変わらず仲がいい幼馴染ねえ。
なんだか、駅までお父さんが送ってくれるみたいよ。
ラピスもディアン君を待たせてないで、早く準備しなさいね。」
母親は特に違和感を感じている様子もなく、微笑ましく見守っているようだ。
ディアンに笑顔を向けた後、また階段を降りていった。
「……話は後だ。とりあえず…着替えて、荷物をまとめろ。
俺は下にいる。逃げるなよ。」
ディアンは乱れた髪を軽く触りながら、床に置いてあった皮造りの鞄を拾って、差し出してきた。
「うん…??」
ラピスはぽかんとして鞄を両手で受け取って抱えた。
皮の、少し変わったいい匂いがする。
今はまだはっきりとわからないことばかりだが、物質界にわくわくする気持ちはどうしても抑えられないのだった。
なんとなくクローゼットに目をやると、水色の制服がシワひとつなく綺麗に掛けられている。
これを着るのだと直感的に思った。
天界でももちろん服を着ていたが、おしゃれ目的で着替えたりする天使はいなかったし、ラピスもあまり着替えてみようと思うことはなかった。
でも今は、この新しい制服を見るだけで胸が高鳴る。
新しい生活が始まるのだと、直感が告げている!
朝の準備でなにをすべきかはなんとなくわかった。
時間がかかったような気がするが、身支度を終えて、制服を着た。
横にかけてあった紫色のリボンを付けて、部屋の大きな鏡の前に立つ。
ーーこれが、人間の私…!
自分の背に羽根がないことにはまだ違和感を覚えるが、姿形は天使の時のままだ。
ラピスは嬉しくて鏡の前でクルクルと回った。
そしてふふふと笑った。
「…何してるんだ。」
振り返るとディアンがこちらを見ていた。
「えらく時間がかかっていると思ったら…。
呑気な天使だな。」
「ちょっと!……天使って言わないで!」
ラピスが小声でディアンを咎めると、彼はふんと鼻を鳴らしてそっぽをむいた。
「こっちの状況も知らないで…。
お前、俺の魂送りを邪魔したんだぞ。」
ーー魂送り…?
ラピスは自分の記憶を必死に辿る。
ーー彼はまさか…?!
「え、あなた人魚?!!?」
ラピスが驚くとディアンはチッと舌打ちをした。
「…そうだよ。お前が導くはずだった魂は、俺が魂送りをするはずの魂でもあったんだ!!
俺の!!最初の魂送りだったのに!!」
ディアンはラピスにぐいぐい近寄って責め立てた。
「う…そ、それは…ごめんなさい。
でも、人魚は碧海にいるんじゃないの…??どうして人間に…。」
「どこぞの怖いもの知らずな天使を連れ戻すためだよ。」
「連れ戻す!?」
ーーそれだけは嫌!
ラピスはディアンの両腕を掴んで懇願した。
「それは嫌…!私、人間として生きてみたいの…!」
「お前の気持ちなんて知るかよ。
俺たち人魚は、正しい魂の魂送りを完遂しないと、泡になって消えちまうんだ。」
「え!?き、消えるの…?」
それはなんだか罪悪感がある。
「あなたなら…私を天界に連れ戻せるの…?」
ディアンは少し黙って眉間にぐぐぐと皺を寄せてから、はぁと溜め息を吐いてしゃがみ込んだ。
「やり方は…わからない……。」
ラピスは内心ちょっとほっとして、
「じゃああなたは、泡になっちゃうの…?」
わざとらしく口に手を当ててうるうるとした瞳でディアンを見つめた。
それを見たディアンは一瞬眼光が鋭くなって、悪そうな笑みを浮かべて立ち上がりラピスを見下した。
「残念だったな。魂送りは激務だから、この件はまだ神にばれていない。
天界と物質界には大きな時差があるだろ?」
ーー時差があるんだ…!それはイリオットも言ってなかったな。
ラピスはそう思ったが、なんとなくディアンより下に出るわけにはいかないというような気がして、何も言わずに頷いた。
「だから俺がお前を天界にぶち戻すまで、監視する!!」
「監視!?」
ディアンはこれは名案だ!と言わんばかりの得意げな顔をしていた。
ラピスは戸惑ったが、とりあえずまだ人間でいられそうだからいいか、と思った。
「わ、わかったよ…。」
「とりあえず俺とお前はこれから、魔光列車に乗って、シリマナイト魔法学校に入学する。」
魔光列車…!
魔法学校…!!!
全てワクワクする言葉ばかりだ!
ラピスの瞳がだんだん輝いてゆく。
ディアンはそれに少し呆れたのか、反対に表情がどんどん曇っていった。
「絶対にお前を天界に戻してやるんだからな…。」
小声でそう呟いた。
2人がそんな会話をしていると、一階の方から、もう出発するぞ、と父親の声がした。
「いいか。妙な行動は起こすな。神にバレないように。
わかってると思うが、お前自身も禁忌を破っているんだからな?」
ーーはっ!確かに…。
ラピスは天使の禁忌のことをすっかり忘れていた。
今のこの状況は明らかに禁忌を破っていると言えるだろう。
ーーでもなんで何も起きないんだろう?もう人間になったから関係ないのかな…?
「わかった!じゃあ仲良くしようよ。幼馴染くん。」
「俺はディアンだ!!」