徘徊ルート
FILE NO.24
28才 会社員
女性 Yさんの体験談
これは私が会社帰りに体験した話です。話の始まりは約三年前でした。
午後5時に仕事が終了し、電車で自宅のある駅まで移動します。その駅から自宅に帰るまでの約10分間が、私には恐怖の時間だったことがありました。
住んでいる場所は分かりませんが、私の帰宅ルートに徘徊する70歳くらいのおばあさんがいました。毎日ではなかったのですが、たまに遭遇することがあり、その度に警戒せずにはいられませんでした。恐らく認知症なのだと思いますが、当時の私は認知症のことをあまり知らず、テレビのドキュメンタリー番組を少し見たくらいでした。認知症患者の徘徊については、『記憶が欠落した状態で、一人で外へ出歩く』、くらいの認識しか持っていませんでした。そのため、身なりは普通の人と同じで、少し人より呆けているくらいかなと思っていました。道で出会ったとしても、危険を感じることはないように感じていました。
しかし、そのおばあさんは、私のイメージを遥かに凌駕して、酷く異様な様子をしていました。付き添いの人はおらず、常に一人で歩いていました。
頭はボサボサで、着古したような黒く汚れた上着とズボンを、毎回着用していました。足が悪いのか、左足をいつも引きずって歩き、ずるずると道の真ん中をゆっくり歩いていました。バック等の荷物は特に持っているようには見えず、両手は常にだらんと下げていました。それだけでも異様なのですが、一番異様に感じたのは顔と声でした。顔は…あまり正視出来ませんでしたが、どす黒くて例えると鬼の形相という感じでした。まっすぐ一点を見つめて怒っている、そんな様子です。そして声、これが一番怖かったです。歩きながら何か小声でぶつぶつ言っているのですが、突然予告もなく「うがあああぁぁぁぁッッ!!」と寄生を上げるのです。足早に通り過ぎようとした時、すれ違った瞬間に体をビクッと震わせて大声を上げた時の衝撃は、恐ろし過ぎて言葉にできません。近づいたら襲われるのではないかと、通り過ぎる時は距離をとって足早に駆け去るようにしていました。このおばあさんに遭遇した誰もが怖がっていたと思います。小さな子供がいたら泣き出すレベルでしょう。
私も怖いので、遭遇した時に周りに人がいない場合は、来た道を引き返して、面倒でも遠回りして回避するようにしていました。
いつまで経っても慣れませんでしたが、このおばあさんと帰り道で遭遇するようになってから二年くらい経った頃、次第におばあさんの徘徊ルートが分かってきました。私の家近くの歩道を通って行くのを後ろから見たことがあるので、恐らくこのおばあさんは私の家から近い所に住んでいるのではと思うようになりました。近くに小学校がありますが、この小学校を越えた場所では徘徊するのを見たことがありませんでした。
残念な事に、おばあさんと遭遇するルートは、私の帰宅ルートと全く同じでした。小学校付近から途中にある神社の参道を通って橋を渡り、しばらく川沿いに進んで住宅街に入り、車が通るには幅のせまい道を通って駅に向かう、歩いて8分くらいのルートです。不思議なことにおばあさんは、住宅地を抜けた後、駅方面に向かうことは一切なく、住宅地を抜けた辺りで突然くるりと体の向きを180度変えて、元来た道を引き返していきました。その異様な行動を見た時、おばあさんが通れないような、何か結界のようなものでもあるのかと本気で訝りました。が、恐らく、おばあさんの徘徊コースの果てがここだったようです。認知症の徘徊患者は何か目的があって外へ出歩くことが多いようですが、おばあさんの徘徊範囲には何か意味があるのかもしれません。
いつもは会社帰りの夕方に遭遇することが多いのですが、昼の時間に出歩いていることもあるようです。休みの日のお昼頃、何度か遭遇したことがありました。帰宅ルートの神社の前や、住宅街の抜け道で見かけることもありましたが、別道で遭遇することもありました。駅に向かう線路沿いの道や、その線路の踏切で見かけたことがあります。おばあさんが駅に向かう道は住宅街だけではなく、線路沿いの道もあるのだと解って私は気持ちが暗くなりました。何故なら線路沿いの道は、私の回避ルートだったからです。この駅までの2ルートを駆使して、おばあさんとの遭遇に私は備えなければなりませんでした。
それでも、おばあさんと遭遇する時間帯が、休みの昼間や会社帰りの夕方で、まだ暗くならないうちだというのが救いでした。おばあさんが夜には徘徊している姿を、私は見たことがありませんでした。
二年半を過ぎた頃、忽然とおばあさんに遭遇することがなくなりました。寝たきりになって歩けなくなったのか、それとも亡くなられたのか…。不謹慎ですが私にしてみれば、毎日安心して帰路に着けるので、至極ありがたいことではありました。
残業で遅くなった夜、いつもの帰宅ルートを通っていました。
月が綺麗な夜でした。
通ったのは午後10時頃のため、周りに人気はありませんでした。静まり返った住宅街には、帰りを急ぐ私の靴音だけが響き、薄暗い街頭だけが暗い道を照らしていました。一人のため、ちょっと怖い気はしましたが、強く周りを警戒するほどではありませんでした。
ふいに変な足音が、前方から響き渡りました。住宅街は特に長い道のりではなかったのですが、20メートルくらいの距離はあったと思います。こっちに向かってくる足音は普通ではなく、片足を引きずっているような不規則さがありました。私は足を止めて、こちらに向かってくる何かに、全神経を集中して目を凝らしました。暗がりで姿はまだ見えません。が、何かをぶつぶつと呟く低い声が耳に届いた時、あのおばあさんの姿が私の頭の中に即座に浮かび上がりました。私は縮み上がりました。夜におばあさんに遭遇するのは初めてだったからです。しばらく遭遇することがなかったので、すっかり油断していました。
不規則な足音と、ぶつぶつと呟く声は次第に大きくなり、距離が縮まってきます。道を変えようかと思いましたが、残業で疲れていたので、早く帰りたい気持ちが勝っていました。
もう足早に歩いて一気に通り過ぎてしまおう。
そう決心して、私は足音に向かって歩き出しました。もう何度も遭遇して慣れてしまったのもあると思います。すれ違う時に大声で叫ばれても、距離さえ取っておけば大丈夫だと思いました。
スタスタと勢いよく足早に歩いて、街頭の一番明るい所まで辿り着きました。足を引きずる音と、気味の悪い呟き声が、はっきり聞き取れることが出来る範囲内でした。姿はまだ奥の暗闇に溶け込んで見えません。今にして思えば、ここからダッシュして、姿を見ないように顔を背けながら、一気に通り過ぎてしまえば良かったと思います。が、時すでに遅く、逆に私の足は竦み上がって動かなくなっていました。夜に遭遇することが、こんなにも恐ろしいとは想像していませんでした。
怖い怖い怖い怖い怖い!
心臓が早鐘のように鼓動を打ち鳴らしていました。突然襲いかかった恐怖に体中が震えだして、もう前に進むのも後ろへ引き返すのも無理でした。足音と呟き声は非常にも近づくことを止めてくれません。街頭の明かりに映し出される、おばあさんの恐ろしい異様な姿を待つしかありません。早く通り過ぎてくれるのを祈りながら、金縛りにあったように立ち尽くすしかありませんでした。
足音はすぐ近くまで聞こえてきました。もう距離を取ることも出来ません。おばあさんは道の真ん中を歩いているのに違いなく、私の極近くを通るだろうことは覚悟しました。早く行ってしまって欲しい。私は目を瞑りながら、何度もそう願いました。通り過ぎ様に、耳元で大声を上げられたらと思うと、もう恐怖でしかありません。
ゆっくりと足を引きずる足音と低い呟き声は、私のすぐ近くまで来ていました。手を伸ばせば触れる距離のように感じました。
ふと、おばあさんの足音がすぐ隣で止まりました。呪文のような低い呟きだけが耳元に聞こえます。しかし、いつまで経っても歩き出す足音は聞こえず、通り過ぎていく気配もありませんでした。呪文のような不気味な低い呟き声だけが、いつまでもいつまでも止むことはありません。声ははっきり聞こえるのに、何を言っているのか全く聞き取れませんでした。
この状態に耐え切れず、私は薄く目を開きました。恐ろしいおばあさんの姿が目に飛び込んできたら気絶するかもしれないと思いましたが、そうはなりませんでした。
私の思考が一気に固まりました。
おばあさんの姿は、そこにはなかったのです。
そこに姿がないのに、すぐ近くから、おばあさんの呟き声がはっきり聞こえる。
コレハ…ナニ?
ワカラナイ。
「ううがあああぁぁぁぁッッ!!」
突然、狂ったような奇声が耳元で弾けました。途端に私は悲鳴を上げました。
その瞬間、金縛りが解けました。私の体は無意識に、駅の方へと全速力で駆けだしていました。もう、何がなんだか分かりません。とにかく駅の方へ逃げて逃げて、これ以上追って来れない『徘徊の果て』を目指して、ひたすら走り続けました。そのまま足を止めずに、明るい電灯が見える駅の入口まで走り抜き、まだ人の往来がある地下の改札口まで、一気に階段を駆け下りました。凄まじい形相で髪を振り乱しなから飛び込んできた私の様子に、周りにいた人達は呆気にとられているようでしたが、恥ずかしながら、その時は全く気にしている余裕はありませんでした。
もうもうもう、徒歩で家まで帰るのは絶対無理です。
少し経って落ち着いてから、私は家に電話して、父親に車で迎えにきてもらうようお願いしました。もちろん、別ルートで帰ってもらったのは、言うまでもありません。
その後しばらく、私は短時間でも残業はしないように心掛けました。夜におばあさんの徘徊ルートを歩くことは、恐ろし過ぎて絶対無理でした。帰宅時の夕方や休日の昼までも、同じことが起きるのではと不安でした。
…が、あれから、おばあさんと遭遇することは、今に至るまで全くありませんでした。
あの夜の出来事は、なんだったのでしょうか?
遭遇しなくなった後、おばあさんはどうなったのでしょうか?
あの晩、おばあさんの姿は何故見えなかったのでしょうか?
家の近くで誰かが亡くなったとも聞きません。
あれが幽霊であったとしても、歩けなくなって自力で動けなくなっていたとしても、あのおばあさんの魂は何かを求めて、今もこの町を徘徊しているのかもしれません。
〈終〉
この作品は、私の体験がモデルになっています。
実際に徘徊していたおばあさんは、今はどうなったのか不明です。