もっと優しい世界だったらよかったのに
はじがき。
私の死ぬまでの日記です。「強い」人でごめんなさい。この世界では「弱い」らしいですが、弱者の戯言には耳を貸したくないのでこの世をさりたいと思います。
二日。
ある人は言いました。
「甘えるな」と。あなたは甘えていますよね。私の「優しさ」いや、「弱さ」に。
私が周りの方に負い目を感じている「弱さ」を逆手に取って私が反抗できない「優しさ」に「甘え」を舐めずりながら私をおもちゃのように、サンドバックのように罵声を浴びせましたよね。
あなたはよく自分を「強い」人だと言いましたね。私はそうは思いません。あなたのことを「キチガイ」と言わせてもらいます。
そもそもあなたは、間違いましたね。「キチガイ」は「強さ」をなんだと思っているんですかね。「他者の心を理解できない狂気」を「強さ」という言葉を使って正当化しているんでしょうか。あなたの方が私より「弱い」から「強い」ように見せているんでしょうか。だとしたらものすごく滑稽ですね。自分の醜態を晒していることに気づいていない犬畜生のようです。
ですが、犬畜生は人間の心や空気はわかりませんか。それならばあなたが「強い」と自分を形容してしまうのも納得ですね。せいぜい、上司の気持ち悪い汚物に媚を売って幸せを頬張れる汚らしい口でも使って、出世できたらいいですね。この売女が。
一日。
ある人は言いました。
「強くなれ」と、あなたに問いたい。「強さ」とはなんですか。涙を流さないことですか。涙を流せないことは間違いなく「弱さ」ですよね。涙を流すことができない本人は「弱さ」に悩むでしょう。それじゃあ、涙を我慢できるのが強さなのでしょうか。また、涙を我慢できるように理不尽にも耐えることが「強さ」というのなら私は社会の理不尽を我慢できる犬畜生にはなりたくない。人のままで死にたい。売女にはなりたくない。夜鷹にはなりたくない。
自分自身を殺すことができる。これは「弱さ」なのでしょうか。「強さ」なのではないでしょうか。これは「弱者」の言い訳でしょうか。
「強さ」とは涙を流さないことではなく、人の涙を拭うことができる人ではないのでしょうか。人と共に生きるために「強さ」は必要なのでしょうか。真に必要なのは「優しさ」なのではないでしょうか。
そして、人と共に生きれない私はきっと「優しい」とはいえないのでしょう。生まれてしまってすみません。優しくなくてすみません。強くてすみません。弱くてすみません。
末日。
ある人は言いました。
「今日死のうと思った」と。なぜ死ななかったのか。怖気つきましたと答えました。やはり、「弱虫」だなと私は心底軽蔑そして、嫌悪と形容しても足りないほどの感情を覚えました。
いつ死ぬのか。私は問いました。その女は答えませんでした。
「弱虫が」
心底から出た言葉で女を罵倒しました。女は疲れ果てたような表情で眠りにつきました。
天井には死のうとした痕跡の絞首台がぶら下がったままでした。
眠れないので試行しました。
ある人は言いました。
「好きなことしかやってこなかった人間はかっこいい」と。
これはなんでかっこいいのでしょうか。好きなことを好きなようにやるのは「強い」「大人」ではないと思うのですが私だけなのでしょうか。
大人は子供にいいます。
「大きい夢を持て」
「諦めるな」
「お前ならできる」
この言葉のどれもエゴであり、願望です。逸材に触れていたい。逸材に感謝されたい。どれもエゴで立派ですね。死んでしまえ。
そして、歳をとるとともに夢は足枷に、教育は洗脳に変わっていってしまいます。
「やりたいことだけやっていればいいわけじゃない」
「やることをやれ」
好きなことをやれと言ったのはあなた方の方ではないですか。あの言葉は嘘だったのですか。大人とは嘘つきのことではないですか。
そして、その嘘つきに従った「優等生」の生涯がこれですか?責任は私にあるというのですか?そんなの非道いではないですか。
そして、大人の言うことを信じなかったものは救われるのですか?信じるものは救われるのではないんですか?
所詮成功者とは、不良の集まりじゃないですか。
結局私も、犬畜生であったと言うことですか。
そんなの、あんまりではないですか。
命日
ある人は死にました。
この世界を、優しくない世界を憎みながら死にました。
犬畜生を憎みながら死にました。
嘘つきを憎みながら死にました。
愛に飢えながら死にました。
「強い」自分を恨みながら死にました。
この世界は女の死を知りませんでした。
ニュースには載りませんでした。
その日のニュースは芸能人の結婚でした。
最後まで、嘘つきを恨んで死にました。
死ぬ目に思いました。世界とは個人であると。
優しくない世界を恨んで死にました。
ご愛読ありがとうございました。