第二章:『ナツメグのようにスパイシーな』
第二章:『ナツメグのようにスパイシーな』
1
「はっはっはっ、アッツアツでおいしいですよ、このステーキ」
「舌を火傷するぞ、落ち着いて食べろ」
とある平日のお昼休み。お腹が空いた俺と佐奈、塩見はキャンパス近くに新しくできたご飯屋さんに来ていた。
俺、佐奈、塩見の順に並んで店の右側にあるカウンター席に座り、各々注文をする。
「うまいだろ、この店。一週間くらい前にできたシャレオツなステーキハウス、『300グラム一人前』だぜ」
やってきたステーキを涎を垂らしながら見つつ、塩見が自信満々に言う。店のネーミングセンスは意味不明だが、味は正に、一人前らしい。
店のうりは300グラム一人前の特大ステーキ。カウンターに置かれている各種スパイスで、気軽に味を変えることができるのもこの店の特徴だ。
しかし俺はサイコロステーキを注文していた。佐奈は一枚肉の百グラムステーキを頼んでおり、ライスとともにもぐもぐとおいしそうに食べている。塩見も同じものだ。
あんまりじろじろ見てると塩見に何を言われるかわかったもんじゃないので、正面に向き直りフォークをステーキに刺す。
「うまい」
口に放り込むとはじめにブラックペッパーのぴりっとした辛味が襲ってくる。だがそれは一瞬で、すぐにジューシーな肉汁と良く焼けた赤身のうまみが広がってくる。
こんなにおいしいお肉は初めてかもしれない。次はどんなスパイスをかけて食べてみようか。
ターメリックか、チリパウダーか。それとも、ナツメグか。
そんなことを考えていると、驚くべき事態が起きた。
「ぐ、ぐううううう。ああああああ」
突然俺の左隣に座っていた男の人が苦しみだす。フォークとナイフを取り落としながら両手を胸に当て、席に突っ伏す。ソースだか肉汁だかよくわからない液体が大きく跳ねる。
「あああああ。やめてくれ、来ないでくれ」
「どうしました。大丈夫ですか」
呆然自失としている店主とホールスタッフたちを差し置いて、とりあえず俺が声をかけてみる。
「俺の声が聞こえますか。私のことが見えますか」
「やめろ、来るんじゃない。くるなあああああ」
だめだ。何を言っても取り合う様子がない。
「うっ」
男は大声を上げるにとどまらず、暴れ始めた。片手を胸に当てながら、もう片方の手をありもしない幻に向かって振り回し始めた。スパイスの小瓶やお冷のグラスが次々と倒れる。
「らめてくれ、れめろおおぉぉ、ふぁ、ふぁ、ふぁ」
先ほどの佐奈の呼気と違い、喉に物が詰まったかのような、苦しそうな呼吸が彼の肺から漏れる。まずい、呼吸困難かもしれない。
「佐奈は救急車を、塩見は大学からAEDをもってきてくれ」
「はい」
「わかった」
俺は二人に指示を出しながら、彼に向き直る。
ばたっ。
遂に意識を喪失したのか、男は席から崩れ落ちる。そんな彼をよけるように付近の客たちは後ろに退く。
俺は床に転がった彼の体を仰向けにし、口元に耳を近づけ呼吸の有無を確認する。
…呼吸が認められない。数秒待ってみたが、帰ってくるのは沈黙だけだった。
急いで胸骨圧迫に移る。両手を組み、腕をぴんと伸ばした状態で手のひらを何度も男の胸に押し付ける。これを二十回ほど。
「大丈夫です、大丈夫ですから!」
続いて人工呼吸だ。衛生的にフェイスマスクなどがあればいいが、今は緊急時。そんなこと言ってられない。
自らの口を彼の口に合わせた途端、周囲からどよめきが起こった。
必死に息を送りながら、こんなことで興奮してんじゃねえよと思う。
人の生き死にがかかってる。何突っ立ってんだ。どうしてスマホをこちらに向けているんだ。
どうして、
ただ見ているだけなんだ。
「持ってきたぞっ」
塩見が真野教授と佐藤さんを連れ立って入り口から入ってくる。遠くからはサイレンの音が聞こえてきた。
三度ほど人工呼吸を終えてから、もう一度呼吸を確認する。…ない。
「大丈夫ですかっ。聞こえますか。少しひんやりしますよー。…離れて」
その後、AEDによる電気ショック、救急隊員による懸命な処置が行われたものの、男の息が吹き返すことはなかった。
俺のすぐそばで、一人の人間の命が失われてしまったのだった。
2
どうして、こんなことになってしまったんだ。
「鉄也さん。鉄也さん」
あの時、誰かが助けてくれたら、手を差し伸べてくれたら。
「鉄也さん!」
「わっ」
店の椅子にうなだれて座っている俺に向かって佐奈が大声を出す。
「今はへこたれてる場合じゃないですよ!この事件を解決するんです」
「事件?」
「そう、事件です」
言われて周りを見ると、警官とみられる青い制服や作業服を着た人たちがひっきりなしに店内をうろついている。
「一度外に出ましょう、皆さんのご迷惑です」
大学の近くということもあり、空いている講義室に関係者を詰め込んでいるらしい。大学側は大丈夫なんだろうか。
俺、佐奈、塩見は、事件の目撃者ということで、キャンパス二階にある空き教室に待機することになった。
授業で使ったことのあるテーブルの表面を撫でながら、あの瞬間に思いを馳せる。
息が失われていく人の苦痛の叫び、生気のなくなった人の顔。
今夜は眠れそうにない。
「私たちであの事件を解決するんです。あの人のために」
俺たちは令和のホームズカップルなんて呼ばれているが、今回は無力だった。
「ああ、そうだな」
「がんばれよ、ホームズカップル」
口ではうなづいてみせるが、俺の心の中には渦巻くものがあった。
事件を未然に防ぐことこそが、最も称賛されることじゃないのか、という疑念の渦が。
「失礼します」
そんなことを考えていると、教室のドアが開いた。なんと、そこにいたのは里崎さんだった。
「県警の里崎です、先日はどうもありがとうございました」
「里崎さん、どうしてここに」
「簡単です、私がこの事件の捜査に当たることになったので」
ま、そりゃそうか。ってそうじゃなくて。
「それはそうなんですが、どうして”里崎さん”がここに来たんですか、ってことです」
「それはですね、今件も協力して頂ければと思い、伺った次第です」
「は、はあ」
やっぱり。
さっきから塩見がおろおろしているので、目くばせをしておく。高校から付き合ってきたソウルメイトならこれで十分だ。
俺の目を受け取った塩見は意を決し、すっくと立ちあがって教室を出ていった。
「あれ、彼は…。被害者の身元は柿崎洋一。三十七歳のフリーライターです」
急な塩見の奇行に目を丸くしていたが、里崎さんは何事もなかったかのように元の調子に戻って説明を始めた。
「グルメ関係の記事を得意としていて、今日もそのためにステーキショップ『300グラム一人前』を訪れていたようです」
手元の手帳を見て詳しい話を始める。
「彼が頼んでいたのは店の目玉商品である、300グラム一人前ステーキと特大ライスのセットです。サイドメニューにはミニサラダとオニオンスープ、ウーロン茶のMサイズを注文していました」
「はい」
「なんでしょう、肉倉さん」
まるで授業のときのようにぴしっと手を挙げた佐奈を、刑事さんが指名する。
「被害者の死因は何ですか。300グラムもステーキを頼んでいましたし、症状を加味しても窒息死が考えられますが」
「そこなんです。そこがわからないんです」
「そこ、とは」
「現場での検死結果では窒息死だろうとのことですが、どうもその原因が肉を詰まらせたことによるものじゃないとのことなんです」
「じゃあ、それって」
「…柿崎さんは食中毒による呼吸困難でお亡くなりになったと考えられます」
「すいません、失礼します!」
ここまで里崎さんが説明し終えたところで、教室のドアが大きく開かれた。入ってきたのは塩見だった。
「今回の事件について、SNS上で書き込みが大量にされています」
「なんですって」
どうやら、今回の事件も難解なものになりそうだ。
3
らん丸
『今日のお昼に行ったステーキハウスで食中毒みたいなの起きてて草(いや草じゃないが)』
きょーーーこ
『お昼に食べたステーキ超おいしかった。でも、お客の一人が苦しみ出して倒れちゃった。これって食中毒?』
GARANDOU
『ステーキハウス『300グラム一人前』でカウンターの客が食中毒だって。もう行かんといとこ』
………
ひどい。なんて人たちだ。
あの時声掛けも助けもしなかったギャラリーたちの達者な口ぶりを見て、率直に思った感想がこれだった。
何でこんなことができるんだ。どうして食中毒なんて言い切るんだ。どうして店の被害、被害者の無念を考えずに、こんなことができるんだ。
怒りを覚えずにいられなかった。握りしめたこぶしがわなわなと震え始めた。
「鉄也さん」
その手にそっと、佐奈の白い手が乗せられる。
「鉄也さんの気持ちもわかります。でも今は押さえましょう。事件を解決するんです」
「ああ」
熱くなりすぎた。もっと冷静にならないと。
「コレは私の失態です。関係者に口止めしていなかった」
里崎さんが額に手を当ててため息をつく。
「起きてしまったことは仕方ありません。今はそれより、事件のことをもっと教えてください」
行き場のない怒りを持つよりも、事件解決の方が最優先だ。
「はい、今保健所の方に連絡を取っていて、もうしばらくでやってきます。続いて、ガイシャの人間関係ですが」
「いえ、それは必要ありません」
「はい?」
「火の通りきってないお肉を食べて、すぐに呼吸困難が発生するような重篤な食中毒はありません。食肉による中毒は考えづらいです」
「なるほど、なので保健所に連絡を取る必要がないと」
「そうです」
外に出ていた間に塩見が買ってきたグミを噛みながら、佐奈が口をはさむ。食べる前にはきちんと「いただきます」というところも佐奈らしい。
「では、いったい何の食中毒が起こったと?」
「それは、わかりません」
「はいはい、まだ食中毒の原因はわからないが、ある程度の推測はできているんでしょう。誰なんです、今回の事件の犯人は」
「ですから、わからないんです」
「はい?本当に、わからない?」
「ですが、わかっているであろう人ならわかってます」
「なんですかそのもったいぶった言い方は。誰なんですか」
「鉄也さん、今日の食中毒の原因は何ですか。そして犯人はだれなんですか?」
え、俺?
4
「教えてください、神薙さん。誰がどうやってこの食中毒を引き起こしたっていうんですか」
「わかりました。今から説明させて頂きます」
佐奈、里崎さん、塩見が俺のことを見つめてくる。やめてくれ。何も思いついていないのに。
考えろ、考えろ俺。
ん。待てよ。
佐奈はなんで俺に話を振った。この事件を解決してほしいから?
いや佐奈のことだ。そんな回りくどいことはしないだろう。ということは。
俺にしかわからない何かがあった。
思い出せ。何があった。どこがおかしかった。
数瞬のうちに思考を巡らせる。
まず入店して、その時にはもう被害者がいて、そのあと注文して、サイコロステーキが来て、ブラックペッパーをかけて食べて、その後味を変えようとしたら男の人が苦しみだして。
ん、そういえば。
どうして俺はあのスパイスにしようと思ったんだ。
しかも、そういえばあの時嗅いだ臭いって。
「まず初めに被害者の食中毒の種類は」
間違いない、あれだ。
「ナツメグによるものだと考えられます」
「ナツメグ?それって確かスパイスの一種ですよね」
「そうです。そのナツメグが今回の食中毒の原因です。詳しいことは遺体の解剖が済めばわかると思いますが、ほぼ間違いないと思います」
「そのように思った根拠は?」
「香りがしたんです」
「香り?」
「食事をしているときに強いナツメグの香りが」
そうだ。あの時強い香りを感じてナツメグにしようと思ったのだった。
「しかし、現場はステーキハウス、様々なスパイスの香りが入り混じっています。ナツメグだと断定できた理由は?」
「人工呼吸です。マウストゥマウスでしたので間違いありません」
分かった。味を変えようとしたときと人工呼吸のとき。二つの時に最も近くにいたであろう俺がナツメグの匂いに気付いたと踏んで、佐奈は俺に事件の説明を丸投げしたんだ。
「また、ナツメグ中毒の症状には強い幻覚作用と呼吸麻痺があります。被害者が『やめろ』『来ないでくれ』と言ったり、心肺停止になったのはこれらの症状によるものだと思います」
「はい、中毒の件は了解しました。ナツメグということで進言しておきます。ただ、別の問題があります」
手帳にメモを終えた里崎さんが訊ねる。
「それが故意によるものか、偶然によるものか、ということですね」
「話が速くて助かります。フグ事件の動機を見事言い当ててみせた神薙さんなら、何かわかりませんか?」
実はフグの事件の後、一度だけ里崎さんから連絡をもらったことがあった。事件は磯野さんの犯罪に抗議の意を表すため、大海さんが内川さんの手を汚させて引き起こした無差別事件だったと。
「はい、断定はできませんが、想像はつきます」
「なんですか、教えてください」
彼、柿崎さんの死を引き起こしたのは…
「柿崎さんはおそらく、自殺したのだと思われます」
「自殺?」
これには里崎さんばかりでなく、しばらく蚊帳の外だった佐奈と塩見も驚いた。
「はい。自殺です。ナツメグの致死量は成人男性なら五~十グラム。ステーキのありあわせには多すぎる量です。店主と被害者の中に何かつながりがないのなら、自殺だと思います」
「しかし、事故か何かでナツメグが多く入ってしまったとは考えられないでしょうか」
「ステーキハウスの店主も、300グラムのステーキを食べるほどの柿崎さんも、食のプロです。そんな間違いを起こしたり、誤って口にしたりすることはないでしょう。柿崎さんが進んで行わない限り」
「なんでまた、柿崎さんは自殺なんか」
「それを調べるのが警察の仕事、と言いたいところですが、おそらく昨今の不況によるものだと推測できます。近年は感染症の爆発的流行によってグルメ業界の市場が縮小してしまった。これに打撃を受けた柿崎さんは、絶望して自ら死を選んだのだと思います」
俺は推理を続ける。
「これも憶測になってしまいますが、柿崎さんはグルメの中でもお肉を重点的に扱っていたのではないでしょうか。300グラムのステーキを食べるほどの人です」
最後の言葉は俺にとってもつらいものになりそうだ。しかし、言わなければならない。
「だから、彼はほかの死に方なんて眼中になかった。最高の肉を食べながら生涯に幕を閉じたかった。お店や周りの人に多大な被害を被ると分かっていながら、彼はその選択をしたのだと思います」
5
「ははあ」
刑事さんは素っ頓狂に感心の声を上げる。
言った。言ってしまった。自分の蘇生行為が何の意味もないことだったかもしれないということを、告白してしまった。
教室に沈黙が下りる。誰も何も言わない。
すると、机にお尻を預けてグミを噛んでいた佐奈がそそくさと近づいてくる。俺はうつろな目でそれを眺めている。
彼女が俺の前に来る。そして、おもむろに右手を持ち上げて、
ぱあんっ。
白い掌が真っ赤に腫れるぐらいのビンタを俺に繰り出した。痛みで目が潤む。
「鉄也さんが今思っていること、わかります。でも、鉄也さんは正しい行いをしました。私よりも塩見さんよりも、何もせず黙っていた周りの人よりもずっと正しい行いを」
真っ白な両腕が俺の体を包む。それらはまるで天使の翼のようだった。左手にはグミの袋を持っているが。
「私は、鉄也さんを誇りに思っています」
鼻声になりながら、佐奈が言った。
「ただいまあった暴行について詳しく伺いたいところですが、あいにく今の話を上に報告する義務があります。失礼いたします」
「あっずるい。…俺も三限あったわ。じゃあな」
里崎さんと塩見は気を聞かせて出て行ってくれた。
がらんとした教室に残ったのは俺と天使だけだった。
「大好きです。鉄也さん」
「俺もだ、佐奈」
「今回の件、私が推理するほどでもありませんでしたね」
「佐奈はおいしいものだけ食べていればいいんだ」
「そんなわけにいきません。私たち二人で現代のホームズカップルなんですから」
俺と佐奈はともに涙ぐみながら、笑顔を交わした。
「ごちそうさまでした」
俺を抱きしめながらプラスチックの開閉式チャックを閉め、佐奈がぽつりと言った。