第一章:『フグのようにデンジャラスな』
第一章:『フグのようにデンジャラスな』
1
「おうぃふうぃでふうよ、ふぉれぇ」
口いっぱいにふぐ刺しを頬張りながら、同い年で恋人の肉倉佐奈が言ってくる。汚いし、みっともないからやめてくれ。
「めったに味わえない高級料理で興奮するのもわかるが、口に食べ物を入れながら話すなよ。行儀悪いだろ」
…もぐもぐ。…もぐもぐ。ごくん。咀嚼に合わせて白い頬がふにゃふにゃと伸び縮みし、みずみずしく膨らんだピンクの唇がわずかに上下する。嚥下の瞬間には浴衣の裾の合間から覗く、細いのどが蠱惑的に跳ねる。その艶めかしい光景に、俺は不甲斐なくも見とれてしまう。
「だって、絶品ですよ、鉄也さん。新鮮でくどすぎない脂とぷりぷりとした食感がたまりません。一皿いけちゃいますよ」
「あ、ああ。確かにおいしいが、そんなに頬張ることないだろ」
佐奈のかわいらしく、煽情的な食べっぷりに魅了されて、反応が遅れてしまう。
俺、神薙鉄也は十九歳の大学三年生だ。
俺と佐奈を含めた帝成大学公衆衛生科学部食品衛生学科の真野ゼミ一同は、地方の大学で行われる学会に参加するため、遠く離れた某県へと遠征をしている。
学会は日がな一日行われ、研究室のトップである真野教授が他の先生へのあいさつ回りや講演に出ずっぱりのため、その日中に帰ろうとすると、大学に着くのが真夜中になってしまう。
そのため、学会のあった大学付近にあるこの旅館に一泊し、明日の朝一で帝成大学に帰る予定になっている。
この旅館では、育つ水も与えられる餌も人工的に調節された、陸上養殖によって育てられたフグがうりらしい。
本来禁漁期で、旬ではない冬の今頃の時季でもうまいトラフグが食べられると、行きの新幹線で隣に座っていた真野教授が楽しそうに言っていた。
現在、俺たち生徒と教授、それと他の大勢の宿泊客は、畳張りの大広間に一堂に会し、活きのいいフグを使った夕食に舌鼓を打っている。
丈の低いこげ茶色の机が一直線上に何列も置かれ、その上にはふぐ刺しやフグの唐揚げ、鉄砲鍋といった数々のフグ料理が並べられている。
座敷と廊下はふすまで隔てられており、廊下の奥にある厨房からひっきりなしに何人かの仲居さんが料理の皿や飲み物を持ってくる。
大広間を出て左に少し行くと大きな厨房があり、料理人たちが頑張って料理を作っている。
俺と佐奈は隣り合って、厨房に一番遠い列の一番右側に座っていた。卓の対面には同期の塩見と修士一年生の網野先輩が座っている。左隣の卓では今年卒業してしまう四年生と修士二年生が、教授と談笑に花を咲かせていた。
「おおう、聞けよ、神薙ぃ」
来年はいなくなってしまうから、寂しくなるなあ。そう思って先輩に話しかけに行こうとすると、網野先輩が鍋をつついていた箸を持ち上げてこちらを差してきた。
汚いからやめてほしいなあ。仮にも食品衛生学科の大学院生なんだから。
「なんですか、網野先輩。飲みすぎて吐いても知りませんよ。もう後始末はごめんですからね」
「だあいじょうぶ、らいじょぶだって、まだまだいけるから」
呂律も怪しいし、顔は提灯のように真っ赤だ。卓上には空になったビール瓶が転がっている。
網野先輩は酔うとめんどくさいタイプの人だ。俺に佐奈という美人な恋人がいることを許せないらしく、素面でも何かと突っかかってくるが、酔うとさらに面倒になり、説教臭くなる。
やれお前はかわいい恋人をもっと大事にしろだとか、やれお前はもっと男らしくならないとだめだとか、酒の席ではしょっちゅう絡まれる。
おまけにあまり酒に強くないにもかかわらずペースを考えずに飲む悪癖がある。そのせいで何度お店の人に頭を下げてきたことか。
今は標的が俺だけになったが、去年の夏にやったバーベキューでは、ひどく泥酔した先輩が俺の近くにいた佐奈に絡んだ時があった。
「なあ、肉倉さん。こんな冴えない、パッとしない神薙なんかほっといてさ、俺と付き合わない?俺ならいろいろと満足させてあげられるよ」
先輩は卑劣にも、当時付き合い始めて一年ごろの、俺たちの仲を引き裂こうとしてきたのだ。さすがにひどすぎると思い、間に割って入って文句を言おうとすると、佐奈は俺の腕を掴んでぐっと引き寄せ、
「私は今以上に満足することはありません。鉄也さんは最高の男です。私はまだ鉄也さんとお肉を楽しみたいので、先輩は木陰で休んでいてもらえますか?」
と、毅然とした態度で言い放った。鬼のような目で冷たく紡がれたその言葉は、先輩を震え上がらせるには十分だったらしく、網野先輩は青い顔で飛び出していった。酔っているときのことは覚えていない性質らしいが、それ以降佐奈に絡んでくることはなくなった。
今でも飲み会で網野先輩に突っかかられると思い出すなあ、とあの時の彼女の雄姿を振り返っていると、がなり声が響く。
「聞いてんのかよお、神薙ぃ」
「すいません、そんなに大声出さなくても聞いてますよ」
適当に聞き流しながら向き直る。
「おめえよお、田舎の旅館くんだりまで来て、肉倉さんとしっぽりやろうったって、そおはいかねえぞお」
何言ってるんだ。あんたは俺の何なんだ、と心の中で呟いておく。
「俺の目が黒いうちは、許さねえかんなあ」
この人の場合、白目の部分まで真っ黒いんじゃないだろうか。
「やめなって、網野くん。神薙君嫌がってるじゃない」
すかさず、隣に座っている網野先輩の同期、佐藤先輩が助け舟を出してくれる。
佐藤先輩は網野先輩と同じ修士一年生で、網野先輩にも俺たちにも分け隔てなく接してくれる優しい人だ。俺も困ったことがあったら先輩に聞くようにしている。
「佐藤が言うなら、これくらいにしといてやるが、くれぐれも、一線を越えることのないようふぉぐっっ」
ちなみに、趣味は空手で、黒帯の持ち主である。そのため、網野先輩も退散しかけたが、最後の一言が余計だった。鳩尾に一撃をもらって畳の上に転げ込む。
「本当、佐藤さんって網野さんを気絶させるのうまいっすよねえ」
「こういうことしょっちゅうだから」
倒れ伏した網野先輩をはさんで、塩見と佐藤先輩がのほほんと会話する。異常な光景に思えるかもしれないが、彼女が言うとおり、一年間ほぼ毎日こんな光景が続けば、誰でも慣れるものだ。
俺は一応佐奈の彼氏なので、この芝居を見てしまうことがことさらに多く、ゼミに入って一か月ほどで慣れた。
また、塩見は俺たちと同じ学部三年生だ。チャラチャラした言葉遣いと見た目だが、意外とまじめだ。酔っぱらっているわけでも、ふざけているわけでもない。
「ま、気を取り直して、フグ食べましょ、フグ」
佐奈は新鮮な刺身をほおばりながら言う。すっかり平気な様子だ。俺も頂くとしようか。
大きく口を開けて一切れ口に運ぶ。
うまい!ここのフグは絶品だ。
「おいしいですよね、もっといっぱい食べましょう。ささ、どうぞどうぞ。」
佐奈がそういって、ふぐ刺しの大皿を寄せてくる。こういう、気の利くところも佐奈の魅力の一つだ。
その後、特にこれといったハプニングも何もなく夕食が終わり、俺たちは部屋に戻った。ちなみに、部屋は男女で別れている。網野先輩ではないが、間違いが起きないようにだ。
俺としては、そろそろ何か起こってもいいんじゃないかと思ってみたりしているが、佐奈は違うみたいだ。付き合って二年になるし、そういうことをしようと遠回りに言ったこともあった。
しかし、彼女の返答はいつも、
「私、色気よりも食い気なんです。”そういうこと”にあまり興味がないんです。それに、」
佐奈は俺の耳元に口を寄せ、
「一番大好きな物は最後まで取っておきたいんです」
とのたまうのだった。その妖艶な笑みは、いつまでも俺を悩ませている。
戻ってきた和室でそういう不埒なことを考えていると、畳の上に座って爪楊枝で歯の掃除をしている塩見がニヤニヤする。
「なんだお前、肉倉さんのことかあ」
「なんでわかるんだよ」
「顔に下心が見えてるぞ、肉倉さんの前でそんな顔をするなよ」
酒は飲んでいない(飲めるはずもない)が、顔が熱くなるのを感じる。
「うっせ、余計なお世話だ」
「お熱いねえ」
彼は毎度のごとく俺をひとしきり辱めた後、大きないびきを立てて眠ってしまった。オヤジかよ。布団敷いてないんだが。
二人部屋で起こすのもめんどくさいので、仕方なく塩見を壁際まで引きづり、押し入れから布団を引っ張り出して自分だけしっかり寝た。
目を閉じてしばらくしてからも、夕飯での佐奈のあの唇が頭から離れなかった。
2
翌朝、俺と塩見が起き、帰るのに備えて荷物をまとめていると、部屋のチャイムが鳴った。
「おはよう。入ってもいいっ」
「ああ、佐藤さん。いいですよ」
服を詰め込むのに四苦八苦している塩見に代わって、俺が応対する。ドアのロックを開けて扉を開ける。
いつも冷静な妥当先輩が珍しく慌てた様子だ。一体どうしたんだろう。
「どうしました。集合時間にはまだ余裕があったと思いますけど」
「それどころじゃないの、人が、人が、亡くなったって」
「えっ」
俺の大声につられて、塩見が玄関までやってくる。
「どうした、神薙。大きな声出して」
「宿泊客の一人が亡くなったんです。おそらくフグによる食中毒で」
聞き覚えのない声が飛び込んでくる。
「県警の里崎です。今回の不審死の捜査に伺いました」
佐藤先輩の脇から顔を覗かせた若い刑事は、懐から警察手帳を出した。俺と塩見は顔を見合わせた。
塩見の顔がみるみる青ざめていく。おそらく俺もそうだろう。
「もしかして殺されたのって、」
「不審死ですので、まだ殺人事件と断定はできませんが、あなた方の大学の誰かが亡くなった、というわけではありません。ただお話を伺いに来たんです」
「そうでしたか」
俺たちはほっと胸をなでおろす。
「でもおかしいの。ここのフグって養殖ものしか扱ってないはずだから」
「え。じゃあ…」
不可解な点が一つある。
「そう、この旅館では無毒なフグしか提供していません。なのにフグ中毒で人が亡くなったんです。私共としては殺人事件も視野に入れ、こうして聞き込みを行っています」
「なるほど…」
俺としては納得の声を上げるしかない。意味が分からない。無毒なフグを食べて中毒死なんて。
「亡くなったのは旅館の宿泊者である、長谷川宗光さん。歳は五十六歳。職業は電機会社のサラリーマン。この旅館には年に数回訪れるほどのリピーターでした。昨日は接待のためにここを利用していたようです。聞くところによるとお二人はここに来るのは初めてだそうですが、被害者のことはご存じないですか?」
里崎という刑事は早口でまくしたてながら、スマホの画面を差し出してくる。ディスプレイにはスーツを着た人たちの集合写真が写っている。
「この写真の真ん中の列の右側に映っているのが被害者です。この顔には見覚えがありますか?」
「ないですね。名前も初めて聞く人です」
「俺もそうっす」
本当に知らないので、やはりこれ以上言うことがない。
フグの毒の主成分であるテトロドトキシンは、接種から二、三十分で中毒症状が現れる。服毒事件であっても犯行時刻の特定が難しいため、、いわゆる当夜のアリバイは聞かないのだろう。
刑事はやっぱりか、といった様子で肩を落とし、スマホをポケットにしまう。
「ありがとうございました。皆さんは今日チェックアウトとのことですが、そちらは問題なく行えるように手配しておきます。ご協力ありがとうございました」
慇懃に礼を述べた後、里崎は廊下を歩いていった。
残された俺たち三人は、途方に暮れるしかなかった。
「でも一体、どういうことだろう。フグ毒っていったらテトロドトキシンだよね。フグは自分で毒を産生できないから、有毒の食物から摂取することで毒化するしかないんだけど」
佐藤先輩は腕を組んで疑義を呈す。
「じゃああれじゃないっすか。養殖している生簀に毒を持った生き物が紛れ込んじゃったとか」
「それはあり得ないの。ここで食べられるフグは百パーセント外部から遮断された環境で養殖を行う、内陸養殖という手法で育てられているの。海水も人工、餌も無毒のものしか使っていない。二十四時間水槽の様子を観測して、常にストレスが加わらないように環境を調整しながら養殖しているから、フグに毒が入る余地なんてないのよ」
真野教授や佐藤先輩を含めた修士の人たちは毎年ここに来ている。ある程度ここのフグの事情について知らされているのだろう。
「それじゃあ、長谷川さんって人はあるはずのない毒で亡くなったってことですか」
「詳しい事情は分からないけど、今のところはそうみたいね」
佐藤先輩も塩見も、もちろん俺も、それっきり黙るしかなかった。
※※※
帰りの新幹線の時間もあるので、とりあえず荷物をまとめてフロントに集まろうということになった。いったん佐藤先輩とは別れて、俺と塩見は荷造りを始める。
「良かったな、亡くなったのが肉倉さんじゃなくて」
「人がなくなるのに良いとかあるか。亡くなった人に失礼だぞ」
「そうだな、申し訳ない」
こういうところが素直なのが、彼に好感が持てる点だ。
「よし終わった。塩見はどうだ」
「こっちもなんとか」
「んじゃ行くか」
俺たちは荷物を持って廊下に出た。持っていた鍵で塩見がロックをかける。
エレベーターで一階に降りると、意外なことにメンバーが少なかった。ロビーには佐藤先輩と佐奈しかいない。
「あれ、他の方々はどうされたんですか」
「実はね…」
どうやら帰りの新幹線の線路上を倒木が塞いでしまい、運行がストップしているらしい。今さっき鉄道会社から教授に連絡があったのだとか。
「だから私たち昼まで待機らしいですよ。ですから、朝食に行きましょう、鉄也さん」
「俺も腹は減っているけど、この旅館は今それどころじゃないと思うが…」
「それなら大丈夫です。ここで起こった事件も併せて、今日はサービスしてくれるらしいですよ」
「いやお金の問題じゃなくて…」
「事件なら腹ごしらえの後に、私たちで解決しましょう」
「え?」
「私お腹すきました。佐藤さん、塩見くん、行きましょう」
あのちょっと、説明を…。と思っていると、佐藤先輩が耳打ちしてくれる。
「真野教授がさっきの刑事さんに働きかけてくれたおかげらしいよ。刑事さんも去年のハロウィンの事件のこと知ってたみたいで」
あ、あれか。表向きは教授が解決したことになってるあの事件。
昨年の十月三十一日に起きた、ハロウィンパーティで起きた集団食中毒事件。この事件を解決したのが俺と佐奈だ。と言っても、実質的に解決したのは佐奈だが。
教授の鶴の一声で、里崎さんも渋々首を縦に振ったってことか。
「行きますよ、鉄也さん」
佐藤先輩と話しているのが少し気になるのか、それとも早く朝食を食べたいのか、むくれながら佐奈が急かす。
果たして今日は平穏無事に過ごせるのだろうか。
朝からちょっと不安になりながら、俺は宴会場への歩を速めるのだった。
3
事件が起きているのにかかわらず、俺たちは食事を食べ始めた。とはいえ、俺はご飯とみそ汁だけだが。
人が亡くなったっていうのに、食欲がわくはずがない。周りを見れば、修士の先輩方や宿泊客がちらほらと席を埋めていたが、皆箸が進まないようだった。
「それだけでいいんですか、フグの唐揚げもおいしいですよ」
そのフグで人が亡くなったっていうのに、なんてことを言うんだ。
「しっかり栄養を取らないと、事件を解決できませんよ」
「そのことなんだが、本当にこの案件に首を突っ込もうとしているのか。正直去年のはたまたまうまくいったようなものだったし、今回もそうすんなり解決できるとは思えないんだが」
「大丈夫ですよ。私と鉄也さんがいれば、どんな事件でもたちまち解決です。それに、この旅館には一宿一飯の恩があります。力にならなくてどうするんですか」
旅館の人たちの力になるのは警察の役目だが、と思ったが黙っておく。こうなった佐奈は意外と強情だ。
「わかった。俺はこれで十分だから、さっさと食べよう。里崎さんを待たせているんだろ」
「何言ってるんですか。鉄也さん待ちですよ」
見ると、同じ卓の塩見と佐藤さんに加えて、先ほどまで口いっぱいにから揚げを頬張っていた佐奈も食べ終わっていた。皆さん食べるのが速くないか。
「行きますよ、鉄也さん。廊下で里崎さんが待ってます」
座布団から立ち上がった佐奈が手を差し伸べてくる。俺は味噌汁の残りを掻き込むと、その手を握った。
「鉄也さんの手、いつもあったかいですね」
急にそんなことを言うから反応に困る。こちとらボディタッチがあるたびにドキドキしているのに。
「よく言われる」
「誰に言われてるんですか?」
佐奈の目がさっと冷ややかになる。
「昔の話だよ。あすかからよく言われたんだ」
「なんだ妹さんですか」
「夫婦漫才はそれまでにして、早く行ったら」
佐藤先輩が割り込んでくれて助かった。
「すいません、佐藤さん、塩見くん。行ってきます」
俺と佐奈は塩見と先輩に挨拶をして、刑事の元に急ぐのだった。
※※※
「朝餉の時間はどうでしたか。お二人とも」
「たっぷり食べさせていただきました」
刑事の皮肉たっぷりの物言いに、佐奈は気づかずに素直に答える。
「そ、そうですか。それならよかった」
里崎さんもたじたじになっている。
「えー、今日は特別に、新幹線が復旧する間まで、お二人には捜査に参加して頂こうと思っています。本来このようなことはないのですが、あの事件を解決したお二人であれば、何か気づくことがあるかもしれません。何かわかったらすぐに知らせてください」
「はい、よろしくおねがいします」
お得意の早口でベラベラと話す里崎に、佐奈が適当に返す。本当に今回が特別だってことわかっているのだろうか。
あと、さらっと”新幹線が復旧する間まで”って言ってなかったか。そんなのあと一、二時間しかないじゃないか。佐奈はちゃんと理解しているのか。
「改めて状況を説明いたしますと、本案件の被害者は長谷川宗光さん、五十六歳。大手電機会社で営業部長をしています。取引先との会合のために、昨日からこの旅館に泊まっています。顔は先ほど見せた写真の通りです」
「それは先ほど聞いたので大丈夫です」
「そ、そうですか。死亡推定時刻は夕食後の二十時から二十一時の間、彼の泊まっている部屋の中でうつぶせになってうずくまっているのが今朝、発見されました」
「それより、これから聴取しに行くんですよね?そちらに早く移りたいのですが」
佐奈は天然でやっているのか、俺以外の人には強く当たるようなところがある。
「え、ええ、わかりました。二名の調理師さんと女将さんの取り調べがこれからありますので、ついてきてください」
「ありがとうございます」
里崎さんが腕を上げ、廊下の先を示す。俺と佐奈は彼の背中について行った。
捜査のために特別に借りているらしい会議室の一室に入ると、青い制服を着た警察の人がドアの脇に立っており、白い甚兵衛を着た二人の男と和服姿の女性がパイプ椅子に腰かけていた。
俺たちと三人は軽く自己紹介を済ませた。二人の調理師は名前を大海と内川と言った。隣にいる女将は磯野と名乗った。
「俺らとしても、何が何やらわからないといった状態でな。な、内川」
「は、はい、そうです」
年長で大柄の大海は低く渋い声で、現状の心境を語った。対して小さく若い内川は、自信なさげに相槌を打った。大海さんはどっかと背もたれに寄りかかり、内川さんは猫背になって所在なさげにしている。
「あの、報道の方はどうなるのでしょうか」
若いおかみは、事件よりも旅館の体裁が気になるようだ。男たちが詳しい話をしだす前に、口を挟んできた。
「詳細は私にもわかりませんが、関係各所にはきちんとした説明をして頂く予定です。もちろん、フグ毒というワードを入れざるを得ませんが」
「そ、そうですよね。ありがとうございます」
彼女は不安が取り除かれたような、そうでないような表情を浮かべ、一歩分椅子を引いてから胸を撫で下ろした。
人の命よりも旅館のブランドイメージか。ま、女将なら仕方がないか。
「もちろんお二人はフグの調理師免許をお持ちですよね」
ここで、佐奈が突っ込んだ質問をする。
「当然だ。ちゃんとこの県で取得した有効な調理師免許を持っている。それに俺はもう十年もここでフグをさばいてきた。たまにしかフグをさばかないペーペーと違って、腕に自信があるんだ」
大海は憤慨したように答える。
フグの調理師免許は、国家資格ではない。フグをさばくには、調理師免許をその都道府県ごとに取得する必要がある。有効なのもその都道府県内のみだ。たとえ免許を持っていても、他都道府県ではフグを調理することができない。
また、しっかりとした免許を持った調理師でも、ブランクがあると危険だ。長い間フグをさばくという経験をしないでいると、無毒なフグを有毒化してしまい中毒を引き起こすおそれもある。車の運転のようなものだ。
「ちょっと待ってください。大海さんは十年って言ってましたが、内川さんはフグをさばいてどれくらい経っているんですか」
「こいつは免許取ってから一年も経ってねえ。だからあまり仕事を割り振らないようにしてんだ。ま、昨日も少しはさばいたけどな。全くやらせないってのも、こいつのためにならねえし」
「じゃあ内川さんが調理ミスをした疑いがあるということですね」
若い調理師に向き直り、佐奈が突っ込んだ質問をする。場の空気が一気に冷ややかなものになる。
「ちょ、調理ミスなんてとんでもない!」
怪しい。さっきからこの人は挙動不審だ。自分が働いているところで中毒案件が起きたのだから当然のことかもしれないが。
「嬢ちゃん、俺のかわいい弟子がそんなことしたって、本気で思ってるのか。しかも、仮に嬢ちゃんの言ってることが起こったとしても、うちの扱ってるフグの肝臓や卵巣に毒はないはずだ。そこんところどうやって説明するつもりだ。ええ?」
フグの種類によるが、この旅館で取り扱っている種類であるトラフグの場合は、肝臓や皮膚、メスの場合には卵巣に毒が含まれている。そのため、さばく際には慎重に調理をする必要があるが、万が一これらの器官を傷つけてしまった場合、可食部位まで有毒化する危険がある。
佐奈が指しているのは、このような行為があったかどうかを聞いているのだ。
しかし、相手もプロだ。仕事にケチをつけられて黙っていられない。大海さんも不機嫌になって当然だ。矢面に立たされている内川さんは相変わらずびくびくしているだけだが。
「それはまだわかりません」
「わからないのかよ」
大海さんはわかりやすくずっこけてみせる。何となくこの人は犯人じゃなさそうだ。
人は何か後ろ暗いことをした時、それが少なからず態度に出る。故意であってもなくても、あれがまずかったんじゃないかという思いが、顔なり声なりに滲み出してくるのだ。去年のハロウィンでもそうだった。
大海さんにはそれがない。だから、彼は犯人じゃない、と思う。
「質問を変えます。繰り返しお聞きすることになりますが、フグの非可食部位は、全てひとまとめにして生ごみとして捨てていると伺いました。やはり、昨日の分もそうですか?」
「まさか食中毒が起きるなんて夢にも思わなかったからな。いちいち残したりしてねえな」
そりゃそうだ。家庭じゃあるまいし、毎日毎日出るごみを置いておく場所なんてないだろう。
「続いて磯野さんにお聞きします。フグの仕入れはすべて大丸水産から行っているということでしたが、間違いありませんか?」
刑事さんがまだ三十代くらいであろう女将に水を向ける。
「え、ええ。うちは御覧の通り山の中にある旅館ですので、なじみにしている別の水産会社があったのですが、私の代から大丸さんに変えました。大丸さんは完全養殖で無毒なフグを頂けるということだったので、大海さんも味に遜色はねえ、っておっしゃってくれて。十年ほど前から今まですべてそちらから」
隣で大海さんがうなずいている。
「では、大丸水産で何かアクシデントがあって、有毒なフグが紛れ込んでしまったということは?」
「ないと思います。あそこは自社で養殖したフグしか取り扱っていないそうなので」
俺もそれはないと思う。外界から遮断されてしまえば、フグが毒を持てるはずがない。考えうる選択肢から除外してよさそうだ。
「ううん、そうですか」
「では、昨夜誰かが厨房に忍び込んだ、またはフグを持ち込んだ人はいらっしゃいましたか?」
首をひねってうなる里崎さんに代わって、佐奈がまたもや核心を突く質問を投げかける。
「それもないと思います。フグの調理では必ず大海さんが立ち会いますし、厨房の他のスタッフも知らない人がいたらすぐに気づくと思います。また、本旅館では生きているトラフグを〆てからさばくという手法で提供しておりますが、仕入れた時と調理前に必ず個体数のチェックを行っています」
「そちらはどなたが行っているんですか」
あくまで主導権を握られたくないのか、咳ばらいをしつつ里崎さんが質問を重ねる。
「仕入れた時は私で、調理前は大海さんです。ですので、誰かが前もってフグを忍ばせておくのは無理かと思います」
「…わかりました。お話は以上です。引き続きお話を伺うことがあるかもしれませんので、我々の目の届く範囲で待機しておいてください。ありがとうございました」
里崎さんが話を締め、俺たちは会議室を後にした。
「次に、昨夜厨房にいた他のスタッフに話を聞こうと思いますが、お二人はここまでで気づいたことはありませんか?」
「全部です」
「え?」
え?俺と里崎さんの驚きの声が重なる。
「他の人への取り調べは必要ありません。すべてわかりましたから」
「それって、どういう…」
困った里崎さんは俺を見る。俺にもわからないので、神妙にうなずいておく。
「その前におやつと行きましょう。鉄也さん、お土産物屋さんでお茶菓子でも買いましょう」
「わかった」
ええい、さっぱりわからんが、俺は佐奈を信じるぞ。
やけくそになった俺は一周まわって素直に返事をし、ジーパンの尻ポケットから長財布を取り出すのであった。
4
フロントの売店で栗まんじゅうを狩った俺は、佐奈と里崎さんと部屋に戻った。
佐奈がおやつを用意させたということは、お茶を飲みながらじっくり話すということだ。どんな言葉が飛び出してきてもいいように、覚悟はしていよう。
ご丁寧に布団を敷いて二度寝を決め込んでいた塩見を部屋から追い出し、こげ茶色の背の低い卓を部屋の中央に持ってくる。続きまして、お湯を沸かし、お茶の葉を入れた急須に流し込む。十分に蒸らした後、湯飲みに三人分注ぐ。最後にお菓子の包装を丁寧に開け、対面同士に座る佐奈と里崎さんの前に二つずつ置く。俺には甘すぎるのでなくてもいいな。
「案外器用なんですね」
「案外とは失礼ですね」
なぜか佐奈がムッとする。あんまり機嫌を損ねると話してくれないかもしれないので、里崎さんには「厳しくしつけられたので」と返すにとどめる。
「では、お話しください。今回の案件は事故なのか、それとも事件なのか」
「わかりません」
「は?」
は?
俺たちの推理力を試すかのような挑発的な目で尋ねる里崎さんに、佐奈は極めて端的に返す。
まったくもって意味が分からない。どういうことなんだ、と聞き返したいところだが、俺も真相がわかっているという体だ。一応意味深に目つきを鋭くしておく。
「いったいどういう意味ですか」
「ですから、わからないのです。今回の案件が事故なのか、事件なのかは」
「いや、そこがわからないのがわからないんですけど」
「あえてどちらかに寄せて言うとするならば、本件は悪意を持った事故ということになります」
「悪意を持った事故?」
危ない。俺も聞き返そうとしてしまった。
「そうです」
佐奈は人差し指をぴん、と立てた。
「さっぱりです。どういうことですか」
「それを今から説明します」
お茶を一杯すすった佐奈は、大きく一息つく。その後彼女は床の間に置いてあったテレビの番組表とボールペンを持ってきた。
「まず、この旅館にはもともと、二つの悪意が存在していました」
予定表を裏返し、ボールペンの先をノックする。
「一つ目はフグの違法取引、おそらくはテトロドトキシンに由来する毒物が目的でしょう」
佐奈はペンで小さく円を描いた。
「そしてもう一つは、」
佐奈は紙面からペンを握る手を少しずらすと、
「経験の少ない調理師へのフグの調理の強要。と言っても、こちらは半ば慣習のようなものかもしれませんが」
もう一つ同じ大きさの円をさきほどの円と、一部が重なるように描いた。いわゆる、ベン図の出来上がりだ。
佐奈は出来上がった図を持ち上げ、里崎に見えるようにする。
「ちょっと待ってください。どうしてその二つの悪意があると思ったのですか。あの三人の話を聞いただけなのに」
「話を聞いたからです。一つずつ説明しますね」
佐奈はそういうと、一つ目に書いた円に『フグの違法取引』と書いた。
「まず、フグの違法取引があるとにらんだ理由は、磯野さんの話を聞いた時です」
再びペンを持っていない左手で人差し指を立たせる。佐奈の癖だ。
「彼女は十年前から大丸水産との取引を始めたといっていました。大海さんが天然ものと遜色ない味がするといっていたことから、以前の取引先は天然のフグを取り扱っていると予想できます。ここまでは大丈夫ですか」
「ええ、何とか」
「しかし本当に以前の取引先との関係は絶たれているのでしょうか。もし帳簿に残らない形で、以前の取引先とフグのやり取りをしていたとしたら…」
「その目的は食用としてではなく、有毒成分の売買ということですね」
「そういうことです」
「他にも根拠はあります。彼女はこうも言っていました。仕入れ時と調理の際に、フグの”数”を確認している、だからフグを足すのは無理だと」
「はい」
「しかし、この発言はこうも捉えられます。我々はフグの数しかチェックしていない、と」
「ということは…」
「はい、磯野さんは大丸水産から仕入れたフグのうち、何匹かを天然もののフグにすり替えていたのです。それを知らずに大海さんはフグの数だけを確かめて、異常なしとしていたのです」
聞くと同時に饅頭の包みを開ける佐奈。一口サイズのそれを口に詰め込む。
「なるほど、全て辻褄が合いますね。ところで、その推理には何か証拠といったものは…」
「そんなものありませんよ。それを探すのが警察でしょう」
確かに。どこかのミステリー小説じゃあるまいし、一般人に証拠などをねだるのは筋違いだ。
「続きまして、フグの調理の件です」
もう一つの円の中に『調理の強要』と書き込む。
「こちらはおそらく代々この旅館の調理師の間で行われてきた、度胸試しのようなものでしょう。免許を持っているがフグ調理の経験が薄い調理師に、無理やりフグをさばかせる」
ここでお茶を一服。
「以前はそれを客には提供せず、まかないとして自分たちで食べていた。有毒なフグを扱っていた十年以上前は。きちんと食べ終わるまでが遊びだった。くだらない遊びのはずだったんです。無毒フグを扱うようになった十年前までは」
「まさか、…それを客に提供するようになった」
「そうです。無毒なフグであれば失敗があっても大丈夫だからと、十年前からさばかせたそれをお客さんに提供していた。そしてそれが常態化していった」
「じゃあ、大海さんと内川さんは…」
「聴取の際に、内川さんはやけにびくびくしていました。もともと気の弱い性格だったのかもしれませんが、もしかしたら大海さんにおびえていたのかもしれません」
ここでもう一つの饅頭に手を伸ばす。
「昨夜、大海さんは内川さんにフグをさばくように強要した。それも有毒なフグを。そして、内川さんは調理にてこずり、有毒な器官を傷つけてしまった。そのため、毒に汚染されたふぐ刺しが提供されてしまった」
包みをゆっくりと開け、半分ほどかじる。栗の深い風味を味わうように、ゆっくりと咀嚼する。
「どうしようもないふざけた遊びが、無差別に人の命を奪ってしまう結果になったのです」
饅頭を机に置き、ペンを持つ。ベン図の重なり合った部分に斜線をいくつも引いて強調する。その部分から曲線を引っ張り、小さく丸っこい字で『死』と書いた。
「もちろん、今すべて言ったことは私の推測です。物証のない絵空事です。ですので、信じて頂くかはお任せします」
そう言って佐奈は饅頭の残り半分をほおばる。続いてお茶をグイっと飲み干す。
「ごちそうさまでした」
里崎さんはお茶にも饅頭にも手を付けず、呆気にとられたままだった。
5
俺も少し気になったことがあるから、聞いてみようかな。
「あの、大丈夫ですか。一つ、お耳に入れておきたいことが」
「は、はい、なんでしょう。情報量が多くて戸惑っているのですが」
「昨日の非可食部分の廃棄の中で、口や皮膚が非常に傷ついたものはありませんでしたか」
「毒物等の鑑定は終わっておりませんが、一匹だけ損傷の激しい個体があったとのことです」
「だったら、それが天然フグだと思います。天然ものは縄張り争いなんかで体が傷つくことが多いですから、そちらを優先的に調べてもらえるといいと思います」
「は、はあ、なるほど」
「それに、本件は事件だと思いますよ」
「なんですって」
里崎さんの目の色が変わる。
「先ほど言ったとおり、天然と養殖のフグの見た目は区別できます。プロのフグ調理師が気づかないはずがありません。大海さんが磯野さんの違法取引に気付いていて、有毒な個体を選んで内川さんにわざとさばかせたんだと思います」
「どうしてそんなことを」
「さあ、そこまでは。おそらく女将への抗議の意を示したかったのではないでしょうか。個体数のチェックは大海さんもやっていたとのことだったので、相当前から気付いていたんでしょうね。磯野さんの重篤な背任行為に」
佐奈の推理を聞いて、前言撤回。物事に断定は厳禁だと学べたな。
「はい、わかりました。上にもそう掛け合っておきます」
若い刑事は肩を落とし、ふーっと溜息を吐く。
「もう何も驚きません。公衆衛生学とは関係なく、現代のホームズカップルだと教授がおっしゃった意味が分かりました」
「そうでしょうそうでしょう。ホームズもびっくりの推理力ですよ、鉄也さんは」
そんなこと言っていたのか、教授は。しかも佐奈、お前も褒められてるんだぞ。
「抜群の推理力の肉倉さんに、天性の客観的思考力を備えた神薙さん。お二人の名前は覚えておきます」
いや、そんな大層な人間じゃないんだが。俺も佐奈も。願わくば、二度と刑事になんて会わないほうが身のためだと思う。
「本日はありがとうございました」
里崎さんは律儀に礼を述べて部屋を出ていった。
なんやかんやで丸く収まったな。時間もちょうど昼前だし。
「鉄也さん、里崎さんの分まで食べてもいいですか。この栗まんじゅう、栗と餡のバランスが絶妙で」
「いいぞ」
「わーい。鉄也さん大好きです」
やっぱり、”そういうこと”ができるのはまだまだ遠い日だな、と悲しみつつ、俺は塩見をサルベージしに部屋の外に向かうのだった。