彼女
※未成年の喫煙シーンがあります。これは未成年喫煙、犯罪を助長するような意図は一切ありませんのでご了承ください。
雨の降る町は、背徳的な姿を映す。
濡れた髪は顔を隠すように垂れている。
僕は、愛について考えていた。目に映る彼女を瞼の裏側に閉じ込めながら。
花にたとえた話がある。
ただ花が好きなだけならば花を摘み、水に挿して枯らす。しかし、花を愛しているのならば、植え、毎日水をやり、保護するように愛でる。これが好きと愛しているの違いなのだと。
愛は所有ではなく感謝することであるという教えだそうだ。
僕のこの心はどちらになるのだろう。
上裸でベッドの上に腰掛ける。深夜三時半、一回目の夜。
最近変えた煙草に火をつけてゆっくりと吸った。
「煙草、吸うんだ」
後ろから声が投げられる。少し大人びた女の子の声。
「嫌だった?」
「うんん、意外だっただけ」
ガサガサとシーツの擦れる音がする。起き上がったのだろうか。
するとすぐに、ベッドの上から気配が消えた。振り返ると彼女はベッドから降りていた。
「君、もっと真面目くんだと思ってた」
「それはこっちのセリフだよ。君からこんなことに誘われるなんて思ってなかった」
ゆっくり煙を吸って、ため息混じりに吐き出す。
彼女は長い髪を揺らして笑う。
「処女だと思った?」
「・・・まあ、正直」
「ふふっ、残念。君は見た目通り童貞だったけどね」
からかうというか、挑発するように言った。
残念だったかどうかは・・・いまいちわからない。
でも、明るく、容姿もよく、成績もよく、人望も厚い彼女だ。彼氏がいないはずないとは思っていた。
はっきり言ってものすごくモテる彼女は、少なくともうちの学年で知らない人間はいない。
だから、本気で処女だと思っていたというより、そうであってほしいという夢とか願望とか、そういう気持ちの悪い類のものだったと思う。
「とりあえず、童貞卒業おめでとう。そしてご愁傷様。君の初めてははこんなビッチ女でした」
皮肉交じりの言葉は彼女のあまり高くない自己肯定感を写し出していた。
「僕、別に処女厨とかじゃないし、気にしないよ。むしろありがとうございますって感じだね」
嫌だとは思ってないと思う。確かに彼女が、他の男に抱かれる様を想像しないわけじゃない。
だが、それが不快だと思うことは、こんな僕にはとてもおこがましい行為であって。
これもまた、彼女と似たような心ゆえなのかもしれないと思う。
「・・・私のこと、好きになっちゃダメだよ」
唐突にそう言った彼女の目を、僕は心の内を探るように見た。
「どうして?」
少し優しめの口調で聞いてみる。
答えても答えなくてもどちらでもいいという意を込めた。
「だって、浮気なんて誰もされたくないでしょ?」
笑う。彼女はどんな言葉を吐くときも、その表情から笑顔が消えることはない。
まるで、棘のある花が、どこまでも美しいように。
今、その印象が強く残った。
深夜二時。ピンク色に光るホテルの一室、二回目の夜。
僕はもう二度と来ないと思っていた夜を、二度と話すことのないと思っていた相手と、再び同じベッドで過ごしていた。
金曜日。放課後の教室で帰る準備をしていた僕に、彼女は先週と同じように「勉強を教えて欲しい」と言って誘ってきた。
戸惑いはしたし、断ろうかとも思ったが、別に悪いことをするわけでもないし、嫌なわけでもない。
なんなら、恋人がいない僕には多少なりとも魅力的な誘いだ。
僕はまた、求め、求められるがままに欲で体を重ねた。
体に汗がジワリと張り付いている。今は彼女ではなく、シャワーが恋しくて仕方ない。
「今日は吸わないの?煙草」
「まだ出してないだけだよ」
そう言って僕は思い出したようにバッグに手を伸ばす。
「もう慣れたんだ。君すごいね」
僕の手が止まる。
「慣れる?」
「煙草。気まずさとか動揺とか、いろんな感情誤魔化すために使ってるんでしょ?」
煙草を吸い続ける人ってみんなそうではないだろうか。そう思いながら「みんなそうじゃない?」と返す。
「先週は終わった後に私そっちのけですぐ吸ったもん。今日は煙草、探してない」
確かに、吸いたいと思わなかったが、自覚がなかった分、あまり納得しなかった。
「今は、シャワーの方がいい」
「私もー。一緒に入る?」
「そ、それはちょっと」
「他の人なら喜んでくるのに」
「・・・僕はそんなに元気じゃないよ」
彼女は立ち上がって、そのままシャワーに向かった。
自然と先を越されたのに気が付いたのは少ししてから。どうしようもなく、彼女の背中が消えた後だ。
一人になった僕は、先ほど出そうとしていた煙草をバッグから出して口にくわえた。
そういえば、今日は煙草用の消臭剤を忘れてきたのだった。
まあいいや。カラオケに行ってきたということにすればいい。
火をつけて、煙を吸うと、煙の中に僕の手の中で身をよじる彼女の姿が脳裏を通り過ぎる。
少しだけ汗が増える。また誤魔化すように煙を吸うと、肺が悲鳴を上げた。
「ゲホッ!!ゴホッゴホッ・・・はぁ・・・うっ」
咳が治まるのを待って、僕はまだ三分の一ほど残った紙煙草を灰皿に押し付けた。
たった二回、性交渉をしただけだ。彼女にとってはきっと、何人もいるうちの一人でしかない。
今回もただの気まぐれ。たまたま遊んだ玩具が、予想よりも面白かったからおかわりをしただけ。
特別なんかじゃない。少なくとも彼女にとっては
・・・じゃあ僕は?
遠くから薄っすら聞こえるシャワーの音は僕の心を表すようで、少し不快だ。
深夜二時半、二度あることは三度ある、そんなくだらない言葉が似合う三回目の夜。
前の夜から二週間ほど空いて、彼女から再び誘いがあった。
強く執着があるわけでも、性欲が強いわけでもないが、気持ち的に、なんだかお預けを食らったようで妙に悔しくて、そんな自分が恥ずかしくて、惨めで、少し力が入った。
たった二回、たった二回なのに
「今日、すごくかわいかったよ」
そんなことをいう彼女に、僕は首を傾げた。
「何が」
「私のこと、見返したかったとかそんなとこでしょ?前より少し乱暴だった」
お見通し、隠しても無駄だと言っているようだった。
「先週の金曜日、期待したんでしょ?」
した。そう心の中で即答した。
僕はちゃんと見ていた。知らない先輩、クラスのイケメン、街の知らないスーツ男。そんな奴らと肩を寄せ、僕の知らない場所へ歩いていく彼女の姿を。
今まで見えなかったはずのものが、物凄く鮮明に見えていた。
「だから言ったよね。私のこと好きになっちゃダメだよって。こういうことなんだよ」
なるほど、つまり僕は嫉妬していたわけだ。
たった三回。彼女にとっては何でもないただの火遊びの一つでも、僕にとっては一生忘れられないほどの特別で、性欲と恋愛感情と独占欲がゴチャゴチャになるほど、この状況に燃えていた。
「好きかどうかはわかんないけど、特別ではある」
初めてなんてそんなもんだ。そう僕は思う。
別段気持ちよかったわけじゃない。自分でする方が快感はあるし、普段使わないところを使って動くから、次の日体がめちゃくちゃ痛い。
だが、人がこれを求めるのはやはりこれには特別な何かがあるからだ。
だから彼女も、これを求めるのだろうと思った。
彼女は、僕の方を見たまま黙っている。
いつもの仮面のように冷たい笑顔も、世界のすべてに絶望したようなその目も、そこにはない。
ただ茫然と、理解できないという顔がこちらを向いていた。
何か気に障るようなことを言ってしまったのではないかと、僕は必死に頭をまわす。
そんな僕を見て、彼女は少し考えるしぐさの後に口を開く。
「不思議。君の前じゃ、まるで私が普通の女子高生になったみたい」
「・・・ん?え?」
どこにそんな要素があったのかさっぱりわからないが、彼女が怒っているわけではなさそうなので少し安心した。
「今まで、私のことを好きだと言ってくれる人はすごくいっぱいいたけど、わかんないって言った上に特別なんて言う人はいなかったよ。みんな、私とするのはリスクそのものだもの」
彼女の表情は柔らかい。
「だから、三回もこうやって誘っちゃったのかな。本当は二回で終わらすつもりだったのにね」
困り顔で笑う彼女の表情は驚くほど自然で、学校でも見たことのない顔だった。
少女。そんな呼び方が似合う姿をしたのは、おそらくこれが初めてだ。
「・・・また誘ってよ。どうせ空いてるし、性行だけじゃなくて、本当に勉強教えるだけでもさ」
そんな、ちょっと最低で本心なことを口に出してみる。
彼女の表情は崩れることはない。
「自分から誘ってくれないの?」
「それ、僕に聞く?」
無理だと思う。理由もなければ交流もほぼない。ましてや根本的な度胸もない。
だが、彼女はそんな僕を見透かすように微笑む。
「君ならできるよ。いつか」
真っ直ぐと、僕の目を見てそう言った。
午後二時、昼、教室。
黒板の前では、まったく興味のない古文の話が、延々と壊れたラジオのように流れていた。
先週の席替えで、見事左下の窓側を手に入れた僕は、壊れたラジオを右から左へ流し、窓の外を見ていた。
心地の良い風が窓の外から入ってくる。
番号が呼ばれ、席を立つ音がした。
視線が自然と吸い寄せられる。彼女だ。
彼女は指定された行から、教科書に書かれた文字をその声で音読し始める。
その時初めて、今日やっている作品が何かを理解した。
そういえば、新しいとこ入ったんだっけ。
目を瞑る。暗闇の中で文字と、彼女の姿が浮かぶ。
窓の外の景色が見えた。授業はもうとっくに終わり、辺りは喧騒に包まれている。
僕は伸びをして、体の悲鳴を耳に入れた。
彼女の姿を教室以外で見ることが、最近めっきり少なくなった。
ここ二週間ほど。あの日を最後に特別話すこともなければ、夜を共にすることもなかった。
ちょこちょこ見かけはした。まあ、見ていて気持ちのいい光景でもなかったが。
そういえば、彼女の悪い噂が広がっているらしいと、友人が言っていた。
そこそこ目立つ彼女だ。裏ではあんなこともしているし、噂程度で済んでいるのは幸運だと思うし、一部女子からの反感も多少あるだろう。
「ねえ」
噂をすれば渦中の君。
後ろから最近やっと慣れてきたその声を聞いて、僕は振り返った。
「・・・なに?」
互いのためを思い、僕は少しだけ素っ気ない態度をとる。
しかし、冷静に考えれば三回も勉強を教えるという名目で二人でどこかに行っている時点で、あまり意味もないような気がした。
なんせ、僕が友人から聞いた話の根本は、その噂の中に僕が組み込まれたことだったのだから。
「今日、放課後時間ある?」
「どうしたの?」
「・・・少しだけ相談があってさ。二人で話したいの」
僕はつい周りを見回す。見ていないふりをしていたり、聞き耳を立てている人がいるのが、嫌でも見えた。
全員ではないにしろ、やはり少なくはないわけだ。
「いいよ。僕なんかでよければ」
「ありがとう、帰りになんか奢るね」
そう言って、彼女はいつもいる輪の中へかけていった。
その後こちらへやってきた友人の心配の声が飛ぶ。
僕はなんとかそれを捌きながら、頭をまわす。
様子が違う。彼女の目は、まるで何かに怯えているようだった。
それからの授業はまったく頭に入ってこず、ホームルーム後の友人の静止を感謝の言葉とともに断って僕は校門で待つ彼女と合流した。
「・・・コンビニ寄る?」
「なんか買いたいものでもあるの?」
「ゴム。あとアイス食べたい」
そのゴムは、どのゴムだろうと下らない疑問が頭を過ぎた。
「煙草は買うの?」
「制服着てるじゃん」
「どうやって買ってるのあれ」
「家の近くに年齢確認全然しない個人経営の商店があってさ・・・」
他愛なく、どこか酷い内容の話をしながら蝉の鳴く街を歩いた。
今日はホテルの方には向かわず、途中のコンビニに寄って軽くアイスを食べて、どんどん住宅街へと入っていく。
家に向かっているというのは何となく気づいていた。
しばらくすると高級住宅地に入り、大きく、豪華な家が並び始める。
やがて彼女は周りに比べて少し小さめの一軒家の前で足を止めた。
どうやらここが、彼女の家のようだ。
「親、いないから安心して」
あまり考えてなかったが、言われてみればこんなところで彼女の両親に鉢合わせるのは気まずすぎる。最悪だ
彼女は特に何も言わず、僕を家へ上げた。
不思議と、前のような期待感がない。
これがきっと察するということなのだろうと、馬鹿みたいに思った。
玄関から中へ、そのまま流れるように彼女の部屋へ。
ここまでで、不気味なほど、家は静かで
なぜだろう。生活の匂いがしなかった。
「飲み物とってくるよ。なにがいい?」
「同じものでいいよ」
「わかった。適当に座ってて」
彼女は部屋を出ていき、僕一人だけが残された。
辺りをぐるりと見回してみる。女の子らしい部屋、というわけでもなく、全体的に白くシンプルで、物の少ない部屋だった。
なんというか、生活感がないというか・・・本当に寝るくらいにしか使っていないような
それはこの部屋だけではなく、ここまでの廊下など、目に見えたところ全てから感じられた。
ジロジロと観察しているとふいに足音が近づいてきて、慌てて姿勢を正した。
ドアのすぐそばで止まり、ガチャリと音を立てて開いた。
「おまたせ。紅茶にしたけど大丈夫?」
「あ、うん、ありがとう」
ティーカップやカップなどが乗ったトレイが机の上に置かれる。
少し重そうな音がした。多少手伝うとかした方が良かっただろうかと、今になって後悔した。
「変なことしてない?」
「し、してないよ!」
「まあ、別にみられて困るものなんてないんだけどね」
そう言って僕をからかうようにクスクスと笑う。
「そういえば久々に帰ったかも。一週間くらい?」
彼女は唐突に軽く言ったが、高校生が普通に学校に行きながら一週間家に帰らないのはおかしい。異常だ
あまりにも自然に言うものだから、僕の中の常識が崩れそうになる。
「どうやって過ごしてたのさ」
僕はわかりきったことを雑談のネタとして出す。
「ほとんどビジネスホテルとかで過ごしてたかな?あ、私おととい初めてカプセルホテルっていうのに止まったんだけどね・・・」
そう楽しそうに話し出す彼女を見て、僕は予想してた答えと違い少しだけ困惑する。
彼女は心から楽しそうにホテルの内装の話だったり、最近食べたスイーツの話だったり、近所の猫の話をしている。
そこから男の話は一切出てこない。
「あ、ちなみに。家に他の人を上げるの初めてなんだよね。私は」
僕の思考はほとんど飛んで、あからさまな動揺が走る。
あたふたし始めた僕を、彼女は優し気な目で見つめていた。
「本当に面白いね。もう童貞じゃないのに、ものすごく童貞みたいな反応」
「う、うるさいなぁ。慣れてないんだよ。女の子の部屋に入ったのも初めてだし・・・」
「そういうところが好き」
呟くようにそう言った彼女を、僕は何も言えずにただ見つめていた。
「ねえ、私のこと好き?」
心臓の動きがゆっくりと早くなり、血液が体の中を駆け始める。
この好きを、僕はどうしようもなく茶化したかった。
友人としてとか、人としてとか、そんなふうに
当たり障りのない言葉で蓋をしたかった。誤魔化したかった。
ダメと言われたのに、想ってしまった自分が恥ずかしい。
何を言っても壊れてしまうこの関係がとてつもなく怖い。
でも、できることならば彼女の近くにいたい、近くにいてほしい。
誰にも渡したくない。僕だけのものになってほしい。
「・・・愛してる」
そう絞り出した。
回答としては嚙み合わず、おかしいかもしれない返しの言葉を、彼女は黙ったまま受け取った。
昨日の帰り、突然降りだした雨の中。
彼女が四十代くらいの男と傘もささずに話しているというところを見た。
どこか言い争っているような様子の後で、男は彼女の腕を引き、彼女は顔をしかめ、男と口付けをした。
男は名残惜しそうにゆっくりとその場を立ち去り、彼女は空を見上げたまま立ち尽くしていた。
揺れた髪は彼女の顔を覆い隠して、そのまま溶けてしまいそうで、
背徳的な姿を映していた。
僕はその場を逃げるように離れた。
本当は彼女のもとへ行き、その手に持った傘を差し出すべきだったのだろう。
慰めるように声をかけるべきだったのだろう。
だが、僕は逃げた。
この時、僕の好きは愛しているになった。
欲望のままに彼女を抱くことができなくなった。
「それって、好きと何が違うの?」
無機質な声。間違えればもう次はないと、そう言っているようだった。
「僕はもう、女が欲しいわけじゃない。君が欲しい。君にとっての特別になりたい。ずっと、僕の中の特別でいてほしい」
拳に力が入る。爪が食い込む、手が震えている。
絞り出せる精一杯で、僕の思いを口に出す。
「君の中を、僕だけにしてほしい」
拙い言葉。不細工極まりない告白だった。
僕の妄想はこうだ。
彼女はずっと空っぽだった。心には何もなく、誰もおらず、その穴を埋めるように、心の代わりに体を許した。
満たされることはなく、人と金だけが増え続け、気まぐれでまったく女性経験のなさそうな僕を誘った。
それでも彼女は満たされず、物珍しさだけが残った。
だから、それだけじゃ嫌だった僕は、誰にも、家族にすら許さなかったであろうその心の中に、僕だけを刻んでほしかった。
最初で最後の人間にしてほしかった。
彼女の特別になりたかった。
僕の特別でい続けてほしかった。
何を考えているかわからないような顔のまま、彼女は息をついた。
黙ったまま何を思ったのか、ポットから湯気の上がらなくなった紅茶を注いで飲む。
そしてその手をカップに添えたまま、彼女は僕を見た。
「大胆な告白だね」
「一世一代の大勝負だったね」
やっと心にできた余裕でそんなふうに茶化してみる。だが、これもまた本心だ。
「私だったら恥ずかしくて、たとえ演劇とかだったとしても言えないかなぁ」
「それはちょっとひどすぎない?」
心臓の音は、会話とは裏腹に治まる気配もなく、何とも言えない作られた空気の中で、僕は彼女の返事を待った。
「・・・私ね、いろんな男の人たちとセックスするの、やめることにしたの」
「え?」
やめることにするではなく、した?
それは、僕の思っていた時系列と異なるもので一瞬困惑する。
「大人の人たちはね、バレそうになったって言ったらなんとかみんないなくなってくれた」
もしかして、昨日見た男はその一人だったのだろうか。
だとしたら納得もできるが
「でもね、予想してた通り、学校の人なんかはだいぶ食いかかってきちゃって」
アハハ、と乾いた笑いを漏らす。
「三年の武田先輩、知ってる?」
「あ、あぁ、まあ有名だし・・・」
三年生にイケメンの先輩がいると、僕らの学年で一時騒がれたことのある人だ。
何より前に、彼女の肩を抱きながら街へ消えたのを見た。
「あの人とか、まああのひとだけじゃないんだけど、言いふらして写真流すって言ってきたの」
まあそりゃいるだろう、そういう人。
彼女に見せられたメッセージアプリの画面には、文字だけでも伝わってくる不機嫌さと脅すような文章、そして一つの動画が載せられていた。
彼のような知り合いも多い人が噂を流せばすぐに広がるだろう。
「彼女がいる人もいるし、全員が全員大っぴらに言うことはなくても、教師陣とかの耳に入れば私はきっと学校で問題になる」
彼女は持ったままだったカップを置いた。
「今はまだ憶測の段階の噂が本格化すれば、私はもしかしたらいじめの対象になるかもしれない。私と一緒にいると不幸になる。同類になる。日常に戻れなくなる・・・それでも君は、私だけの特別になってくれるの?」
僕は生唾を吞んで一度黙った。
本当は即答したかったが、その環境を思えば身が震える。
今いる友人も、信頼も、学校生活での何もかもを、彼女のために捨てる。
僕は今更、その未来に恐怖していた。
しかし、ふと彼女の方を見たとき、湧き上がる感情を抑えるように拳を膝の上で握り、口をつぐんでいるのに気が付いた。
不安、恐怖、期待、懇願・・・様々な感情が祈るような彼女の姿から溢れ、同時に彼女の瞳に映る僕からも、同じようなものが滲んでいた。
「・・・たとえどんなことがあっても、誰に何を言われても、僕は君のそばにいる。君が死ぬまで追い詰められたなら、僕も共に死ぬ。誰かを殺したいなら一緒に殺す。逃げるのならばどこまでも一緒に逃げよう。ただ・・・」
乾く口の中を息と唾液でリセットして、僕は最後の一押しをした。
「生きている限り、僕だけを見て、僕だけを特別にして」
切り札。これ以上僕にアピールできることも言えることもない。これでダメなら死ねるほど
きっと文字に起こしたら、恥ずかしすぎて悶絶するであろう言葉を、僕は震えながら口にした。
「・・・わけわかんない。こんなヤリマン女のなにがいいんだか」
フッと力を抜き、呆れたように笑った。
僕はこれに返す言葉に迷ってワンテンポ遅れて言葉を返す。
「・・・結構口悪いよね」
「あれ?気づかなかった?私、結構口悪いのよ」
「いや知ってたよ。改めて思っただけ」
彼女は笑って紅茶を一口飲み、また一つ息をついた。
僕もそれにつられてカップに口をつける。
「私も、もう君以外見ることはないよ。たとえそれが誰であっても」
僕は一瞬息が止まったあと、やっと初めて胸をなでおろした。
安堵しすぎて吐きそうだ。
「よかった。君が私のこと、そういうふうに思ってくれてて」
僕よりも力の抜けた声で彼女がそう言った。
「なんで?」
「だってこれでダメだったら私死ぬつもりだったもん」
「へ!?」
やっと落ち着いた心臓がまた強制的に動き出す。
そんな僕とは対照的に笑顔のまま、空になったカップを机の上に置く。
「なにも不思議なことなんてないでしょ?だって私は君以外見えないんだもの。生きる意味を失ったら死んじゃうのは当然じゃない?」
「え、じゃあ、体の関係を全部断ったのも・・・」
「君のために決まってるじゃん。言わせないでよ、恥ずかしい」
全然恥ずかしがっているように見えない。むしろ僕の方が謎の高揚感で顔が熱くなってくる。
「前に君とシた日から今まで関係があった人、脅されたりしながらも片っ端からフってたの。あー大変だったなー労ってほしいなー」
子供のような口調に明るい声でそう言った。
それがまるで、可愛い少女を見ているようで、僕はそっと手を伸ばして頭を撫でた。
「・・・女の子の頭を撫でたの、初めてだ」
「彼女とかいなかったの?」
「いたけど、すぐ別れちゃったな。一週間くらい?」
中学の時のことを思い出す。
ノリで告白されて、ノリで付き合って、なんとなく合わなくて、冷めたって言われながら自然消滅するように別れた。
その後なんだか気まずくて、ほとんど話すことなく中学を卒業した。
その子のことも、別に嫌いではなかった。でも、どちらかと言えばただ女性や友人として好きというだけで、あの子じゃなくてもいいし、人生をすべて捧げられるかと言われれば、たとえ当時だったとしても、少し考えた後に、首を横に振っただろう。
それはきっと、あの子も同じだったと思う。
「そういえば、煙草を吸い始めたのも、その頃だったかな」
「そうなの?なんで?」
「なんか、周りと違うことをして、生きてる意味を見出そうとした中二病の時期がぼくにもあったんだよ」
「なにそれ。なんかもっと深い理由があるのかと思ってた」
「ないよ。ちょっと大人になったような気分に酔ってただけ。きっと、みんなそう」
そこでふと、もうバッグの中に煙草がないのを思い出す。
「もうここ最近吸ってないな」
「え、なんで?健康志向に目覚めたの?」
「なんでだよ。いやなんか、単純に吸いたいと思わなくなった」
詳しい理由は自分でもわからないが、吸わなくて済むならそれに越したことはない。
そこそこ長いこと吸っているし、そろそろバレそうな気がしていたからちょうどよかった。
お金の節約にもなるし
「ふーん、まあ、病気で私より早く死んじゃうよりはいいんじゃない?」
「それもそうか」
そういう意味では禁煙する理由はしっかりとあったわけだ。
後から知ったから理由と言えるかは怪しいが
そこまで来て、彼女は何を思ったのか突然もじもじとし始める。
「・・・ねえ、キスして」
上目遣いでねだるように、彼女は突然そう言った。
何の脈絡もなく、ただふと思ったからという速度だった。
僕は黙ったまま、顔を近づけて目を閉じた。
暖かいものが触れる。今までの形だけのものではなく、互いの存在を確かめるように、ゆっくりと探るように動かした。
それは、まるで儀式のようだった。
息が苦しくなって唇を離すと、潤んだ眼と紅潮した顔が映る。
「・・・今日はするの?」
「うんん、やめとこ。なんか、もっと恋人っぽくしたい」
「そっか」と言って僕はとりあえず彼女から離れた。
代わりに手を繋いで横に座る。
「恋人って、どんなことするんだろ」
僕がそう聞くと彼女は少し考えて「わかんない」と呟くように言った。
可笑しくて、少し笑ってしまう。
もうこんな姿を見たら、最初にホテルで見たあの大人っぽい姿が、僕の見ていた幻だったかのように感じてくる。
「じゃあとりあえず、手は繋いでおこっか」
「・・・うん」
手にあるのは、初めて感じるぬくもりで
人の手ってこんな感じなんだなと、知らないわけではないのに妙に不思議に思った。
僕はゆっくりと目を閉じる。
あの日、雨の中で考えていたことを、花の話を思い出す。
植え、水をやり、育てる。
そんな傲慢なこと、僕にできるのだろうかと、不安がないわけではない。
ましてやとても美しく、棘もあり、毒もあるならなおさらだ。
だが、したいという思いも、守るという決意も噓ではない。
手が少しだけ震える。どちらのものかはわからない。
ふと、いつか二人で死ぬときも、こんなふうに静かに死にたいと思った。
彼女もそれを最後まで望んで欲しいと思った。
殺風景な部屋の中で、人形のように座り、息をする男女。
白いカーテンと風の音だけが、ここでは自由に動いていた。