恋の期待なんかする年齢じゃない(と自分に言い聞かせているうちは、割り切れてなんていない)
ええええええ……。
なんか、バス動いてなくない?
仕事帰りの、バス。
久しぶりの定時あがりで、久しぶりの晴れのお天気。
祇園祭の宵山が終わるまでは梅雨と言われる京都では、7月の半ばの晴れの日は貴重。
バスの外はまだ明るくて、うきうきした気持ちで、スマホを見ていたんだけど。
ふと気づくと、バスがほぼ止まっている。
窓の外を見ると、3歳くらいの子どもの手をひいたお母さんがてくてく歩いて、バスを追い抜いていくレベルの遅さだ。
さっき四条大宮のへんで窓の外を見たときは、わりと普通に動いていたと思うんだけどな……。
降りる予定のバス停は、四条烏丸駅。
たぶん次か、次の次の駅くらいだったはず。
余裕で歩ける距離だし、この感じだと歩いたほうが、断然はやい。
次の駅で降りて歩こうかなと思っていると、タイミングよく運転手さんが言ったのが聞こえた。
「このバスは四条烏丸行ですが、祇園祭のため、四条烏丸にはとまりません。西洞院をでましたので、次は四条高倉にとまります」
えっ、そうなんだ。
前方に目を向けると、急いでいるらしい年配の女性が、運転手さんに「困るわぁ」と言っている。
運転手さんは、苦笑いで「すいませんなぁ」と返すけど、優先座席に座っていたおじいさんが、「西洞院の前でも放送したはったで」と言葉を添えた。
「そんなん言われても、あんまこっちこぉへんからわからへんわ」
女の人は、ぶつくさ言いながらも、おじいさんに促されるままに、空いていた優先座席に座った。
ちゃんとアナウンスを理解していた人は、西洞院で降りたのか、いまバスに乗っているのは、私も含めて5人くらい。
私もアナウンスを聞いていなかったので、まだ文句を言っている女の人に、なんとなく仲間意識を感じてしまう。
なんていうか、私って、粗忽っていうか、落ち着きないっていうか。
もう30歳すぎだっていうのに、大人らしさがぜんぜんない。
といっても若さは普通になくなっているから、見た目は大人、中身は子ども。
って、だめじゃんよ、それ。
まぁ、目の前の女の人よりはずっと若いけど……。
って、だめだ、ついつい若いつもりの思考回路してしまう。
こういうの、もうやめようと思っているのにな。
若ぶっているつもりはないけど、結婚もしてないし、子どももいないし、仕事もそんな責任あるポジションでもないし、どうも意識と年齢がずれている感じがする。
3日前、それで大ダメージ受けて、もう絶対、自分の年齢の意識をちゃんともとうって、心に決めたのに。
思い出しても恥ずかしい、3日前。
わりと仲良くしていて、よく二人で仕事帰りにごはんとか行っていた後輩(25歳・男性)が、男友達に私との仲をからかわれて「ないって、あの人おばさんじゃん」って笑っているのを聞いてしまった。
私も後輩のこと、男性として意識していたとかじゃないけど、2人でごはんとかよく行くから、ちょっと気になり始めていたところだった。
なのに、彼は、少しの照れも焦りもなく、ごく当たり前のように「ない」って。
私のこと「ない」って……。
なんか、めちゃくちゃショックだったし、恥ずかしかった。
それは、私が彼のことを意識しているとか好きだとかとは関係なく、自分に女としての価値がないって断じられたんだっていう痛みだった。
めちゃくちゃショックだったけど、でもそれは彼が決めることだ。
どうしようもない、仕方ないことだ。
私はその場をそっと離れて、泣きもせず、やけ食いも、やけ酒もせず、ただ自分の心に刻み込もうって思った。
私は、もう、おばさんなんだって。
恋なんて、期待しちゃダメなんだって。
「焦っても、どうにもならへんで。落ち着き」
「だって、人と待ち合わせてるんですよ。あぁ、もう、ほんま動かへんやないの。祇園祭いうたかて、どうせ今年も宵山やらはないのに」
からかうように言うおじいさんに、女の人は意地になったように文句を続ける。
けれど、その時、急に、コンチキチンという、耳慣れた音が飛び込んできた。
はっとして、女の人が口をつぐむ。
笛、太鼓、鉦だったかな、この祇園祭特有の音。
音に導かれるままに窓の外に視線を動かすと、斜め前に、月鉾が見えた。
すらりとした鉾の上に、高く高く天をめざすように伸びた、そのてっぺんに三日月。
鉾には、囃子方がおそろいの浴衣を着て乗っていて、銘々に音楽を奏でている。
ちょうど、お囃子の練習が始まる時間だったのか。
今年はじめての……けれど、子どものころから夏のたびに聞いてきた音だ。
2年ぶりに耳に入ってきたその夏の音は、自分でも思いがけないほど、胸をざわめかせた。
「鉾が」
だからか、思わず口から言葉がこぼれた。
そして、目を丸くする。
まるで示し合わせたように、前の席に座っていた男性が、同じことを同時に口にしたから。
あちらも驚いたのだろう、くるりと振り返ってきた。
目元の涼やかな、イケメンだった。
20代半ばだろうか。
闊達でさわやかな雰囲気と、薄い唇の近くにある黒子が醸し出す色っぽさがアンバランスで、なんとも目を引く人だった。
「そういえば、今年は鉾は立つんでしたね」
少しだけ、ときめいてしまった。
こちらを見た彼の目が、ちょっとだけ熱を含んだみたいな気がしたのだ。
えぇ、まぁ、勘違いはしませんよ?
こちらは、30歳過ぎ。
20代半ばの若者からすれば、じゅうぶんにおばさんだ。
自分の中のときめきをつぶすように、何気ない口調で話しかけた。
さっきのおじいさんと女の人が、知り合いでもないのに、当たり前のように話していたように、おしゃべりずきのおばさんという感じで。
彼は、一瞬、戸惑うように口をつぐみ、それから私と同じような何気ない笑みを浮かべて、言葉を返す。
「そうでしたね。宵山はないけど、鉾はたつってニュースでは見ていたのにな。すっかり忘れていました。……1年ぶりですね」
「去年は、なんにもなしでしたもんね」
「いや、ちゃんと神様はお招きしていたと思いますよ。でも、宵山も、鉾も山もなかったし、俺もこっちに来てなかったから。なんかちょっと感動しました」
「私もです!去年は、今よりもっと外出がはばかられる感じでしたもんね」
バスはゆったりと、月鉾の横を通っていく。
「写真、撮りたくなりますね」
歩道を見ると、スマホやカメラを構えた人たちがいる。
例年のように、あちこちから観光客が集まっているわけではない。
夜店もでないから、それを目当てにした人がたくさん集まっているわけでもない。
けれど、鉾を見上げる人々の目は、久しぶりに故郷に帰ってきたかのように、きらきらと幼げに輝いているようだ。
……なんて思うのは、私こそが、この光景に、この音に、心が締め付けられているからなんだろうけど。
「以前は、夜店ばっかり見てて、鉾なんてろくに見てなかったのに。1年ぶりに見ると、……なんかほっとしますね。あぁ、7月なんだって実感するっていうか」
「そうですね。いつもは鉾なんて、夜店のための大義名分くらいにしか思ってなかったのに」
思ったより砕けた感じで、彼が返してくれるので、思わず力を込めて言ってしまう。
たまたま同じバスに乗っていただけの知らない人なのに、なんだかすごく心が通じあった気がした。
……ロマンス的なやつじゃなくて、人間として。人間として、ね!
と、自分の心に言い聞かせる。
なのに、彼は、切れ長の濃い茶色の目で、私をじっと見つめてくる。
「あの。広報部の宮前さん、ですよね。俺、経理部の佐伯といいます」
「え。同じ会社の人……?」
まさかの、同じ会社の人だった。
いや、うちの会社わりと大きいし、部署によってはぜんぜん顔を合わせないから知らない人がいても不思議はないし、会社近くの駅から乗ったんだから、同じ会社の人がいても不思議はないんだけど。
知り合いじゃなかったよね?
慌てて脳内で検索をかけるけど、見覚えはないと思う。
でも、佐伯さんは、私の名前も知ってるし。
自分が忘れているだけなら、すごく失礼だ。
だけど、明らかに彼のことを覚えていない私の態度を気にする様子もなく、佐伯さんはにこりと笑う。
「はい。えっとよかったら、鉾、見ていきませんか。お急ぎじゃなければ、ですけど」
色気たっぷりの視線で見つめられて、ゆるりと、期待が胸をよぎる。
馬鹿。
期待なんて、しないって決めたはずなのに。
この年代の男の子にとって、自分なんて対象外だ。
わかっている。
わからされた。
あれから、まだ3日だ。
そのはずなのに、佐伯さんの私を見る目が、気のある女子を見る目に見えて、期待したくなる。
だから、それが駄目なんだってば。
「ごめんなさい。私、お花を買いに来たの。お店の閉店時間が、そろそろだから」
「じゃぁ、先に花屋に一緒に行くんで、その後、このへんまわりませんか」
ええええええええ。
いや、いま断ったよね。
強引だなぁ……。
ちょっとあきれて、口をつぐむ。
と、彼は顔をかぁっと赤くした。
「すみません。ちょっと、必死過ぎでしたよね。俺、ほんとこういうの慣れてなくて。あの。覚えていらっしゃらないと思いますが、大学生の時、うちの大学に宮前さんがいらしていて。うちの会社の志望者にいろいろ教えてくださっていたんですよ。そのときから、ずっと憧れていたっていうか。だから、今、すごいチャンスだと思って」
ええええええええええ。
って、なんかぜんぜん印象違うんですけど。
意外に真面目くんなの?
さっきまでの色気とか、どこいったの?
なんだ、これ。
照れて真っ赤になっている佐伯さん、めちゃくちゃかわいい。
あ、いや、憧れって、仕事的な、か?
女性として、ではないのでは。
「あー、うん。なんか、光栄です。じゃぁ、会社の後輩として、ちょこっと見てまわる?」
あんまり無下にするのも、なんだよね?っていうだけで、期待なんてしてないけど。
「会社の、後輩として……。はい。今は、まだそれでもいいです」
なんて、佐伯さんが赤面したまま言うから。
もしかして、もしかする……?
なんて、安易にもときめいちゃいそうになる。
軽率に、もう期待なんてしないって決めてたはずなのに。
いそいそと「連絡先を交換してください」なんて言う佐伯さんの、案外長い指先を見つつ、じんわりと胸が熱くなるのを感じていた。