第35話 解毒剤と惚れ薬
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「神様、どうか……」
アルベール様が刺されてから、五日が経った。リーセロット様の持っていたナイフには毒のようなものが塗ってあったらしく、アルベール様はあの後三日間も生死を彷徨われた。昨日、クールナン侯爵夫人から「容体は安定した」という連絡を貰った時、私は心の底から安堵した。クールナン侯爵夫人からのお手紙には、私の心配も書いてあった。きちんと眠れているか、きちんと食事が摂れているか。はっきりと言えば、眠ろうとすればあの時の光景が目に浮かんで眠れなくなるし、食事も満足に摂ることが出来ていない。でも、それを素直に書くことは出来なくて。私は「そこそこ、出来ています」と返事をした。本当のことなど、到底言えなかった。
「どうして、こんなことになっちゃったのかな……」
そう、小さくつぶやいてしまう。私が襲われかけたと知った両親は、私にしばらくお屋敷に閉じこもるようにと指示を出した。特に、アルベール様が目覚めるまでは一歩も出ないように、と。それはきっと、あの事件の背後にアルテュール様がいらっしゃると分かっていたからだろう。……私も、そう思うから。
リーセロット様の暴走の背後には、アルテュール様が確実にいらっしゃる。だって、周囲がリーセロット様の異常な行動に気が付かなかったのは、間違いなくアルテュール様の魔法が関わっているから。
それに、一つだけ思うこともある。私はアルベール様が刺された時、とても苦しかった。それはまるで、愛する相手を失いそうになったようで。私は、その時気が付いてしまったのだ。アルベール様を、とても大切に思っていたということに。
これが恋心なのかは、分からない。でも、アルベール様のことを大切に思っていたことだけは真実。今思っても、私に縋ったり愛を叫んだりするお姿が、思い浮かぶ。そして、あのお美しい笑顔も。優しい声で「シュゼット嬢」と呼んでくださるようになった。あの声が、私は好きだったのだ。うるさいと言っておきながらも、私は彼に惹かれていた。……こんなことになって気が付くなんて、遅すぎるかもしれないのに。
「……アルベール様」
私は小さくそう呟いて、下に向けていた視線を上げた。だけどその瞬間……とんでもないほどの嫌な予感が私の身体を駆け巡った。背筋に冷たいものが走ったような気がして、身体が震えて止まらなくなる。……これは、何だろうか。
「嫌な、予感」
そう呟いて、私はお部屋に一つしかない扉を見据えた。エスメーには下がってもらっている。ほかの侍女にもしばらくは一人にしてほしいと頼んである。家族は大方仕事中だろう。だから、この扉が開くことはほとんどないはずなのだ。
でも、ゆっくりと扉が開く。私が身を構えれば、そこには「予想していた人物」がいた。私の記憶の中で、忌々しく笑っていらっしゃる男性。ほかでもない――アルテュール・プレスマン様。
「……あれ、バレていた?」
その後、アルテュール様は身構える私を見て、けろっとそうおっしゃった。正直、嫌な予感がしなければ彼がここに来ることなど思いもしなかった。いや、いずれ彼は私に接触してくるだろうとは思っていた。だって、彼の目的は私だもの。彼が欲しいのはアルベール様じゃなくて私だもの。
「いえ、嫌な予感がしましたので」
「……悲しいなぁ。俺はこんなにも、シュゼット嬢を愛しているのに」
そうおっしゃったアルテュール様は、何やら呪文のようなものを唱えられる。それは、アルテュール様が得意にされている隠ぺい魔法の一つだろう。多分、私が助けを呼べないようにされた。逃げたいけれどここは二階だし、そもそも扉の方にはアルテュール様が立っている。逃げ道は、ない。
「悪いですが、私は嫌われて喜ぶような変態と生涯を共にするつもりは一切ありません。お帰りください」
ただ、強気を装って私はそう言う。扉の方を指さしてそう言えば、アルテュール様は大声を上げて笑われた。……何が、おかしいのだろうか。こっちは必死だというのに。まさかだけれど、必死な私がおかしいとでも思っていらっしゃるのだろうか。だったら……尚更、私は彼と一緒にはなれない。
「そりゃあさぁ、キミに嫌われるのはすごく嬉しいよ。でも、最近気が付いちゃった。……これじゃあ、キミ自身を手に入れることは出来ても、キミの心は手に入らないなって」
「――何をっ!」
私がそう問いかけようとしたときだった。アルテュール様が一瞬で私との距離を縮めてこられる。そして、私の身体をソファーに押し倒してきたのだった。その力は、遠慮なんてない。そして、私の首に手を掛けようとされる。……私、ここで殺されるのだろうか。
「だから、取引をしようと思ってここに来たんだよ。……シュゼット・カイレ嬢を手に入れるために。その心も、俺のものにするために」
アルテュール様はその緑色の目を柔和に細められると、ポケットから小さな二つの瓶を取り出された。片方は、禍々しい赤紫色。もう片方は美しいブルー。
「この青色の方は、世にいう解毒剤だ。リーセロット嬢が持っていたナイフに塗ってある毒を、解毒するもの。悪いけれど、あの毒って体内に取り入れると昏睡状態に陥るからね。だから、この解毒剤がないとほとんど目覚めないだろうね」
「……う、そ、でしょう?」
「嘘じゃない。だってあれ、俺が魔法で作った毒だし。それくらい、出来るよねぇ」
アルテュール様はそうおっしゃると、ポケットに解毒剤だという瓶をしまわれる。そして、もう片方の禍々しい赤紫色の瓶を、私に差し出してこられた。
「これはね、世にいう惚れ薬。飲んだ後、初めて見た人物に惚れるの。……だからさ、シュゼット嬢――」
――この惚れ薬を飲んで、俺に惚れたら解毒剤をあげる。
アルテュール様はそうおっしゃると、その禍々しい赤紫色の瓶を、私の口元に押し付けてきた。