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彼女を包み込んでいた白い霧が晴れれば、砂浜だった景色は一変し、辺りはスラム街へと切り替わる。目の前には杖を持った男性が他所へ視線を送っていた。
「永遠の美しさへ終止符を打ったお前はロストベアへ上陸する。そんなお前が次に歩むのはこの場所……」
杖を持った男性が見ていたのは人影が集団で誰かを袋叩きにしている光景。彼女がその光景を静かに眺めていると、男性は杖の矛先をスラム街の中心へ向ける。
「息抜きに散歩の時間にしよう。私についてくるがいい」
「……」
彼女は男性と共にスラム街を歩いて回った。多くの人影とすれ違う最中、背後からナイフを突き刺す光景、娼婦らしき人影が肉体を捧げる光景、裏路地で金貨と"ブツ"を交換する光景。様々な景色を視界に入れる。
「この有様、お前はどう考えるだろうか」
「どう考えるだと……?」
「人間から規制を取り上げ、自由を追い求めたが故の惨状。規制という首輪を外し、欲望に塗れた人間たちは"とても醜い"と考えないか?」
二人が歩みを止めたのは教会の前。あらゆる個所の十字架が叩き割られ、薄汚れた壁に、やや腐りかけた木製の扉。彼女は廃れた教会を見上げる。
「人間には"寿命"という名の外せない首輪がある。私からすれば……醜いのはその首輪を不当に外す吸血鬼の方だ。自由というのは寿命という首輪があるからこそ輝くものだろう」
「面白い意見だ」
「……お前は人間に期待しているのか?」
「期待などしていない。お前に同情を求めただけだ」
教会の扉が崩れ落ちれば、その奥の祭壇に小さな人影が見えた。影からするにすぐにでも倒れてしまいそうな老婆。だがその背後には赤色の闘気が垣間見える。彼女はその老婆に目を細めた。
「規制を奪い、自由を与え、人間たちが住まうこの場所は……自然界と変わらない。だからこそ"とても醜い"と考えるのだよ」
「……自然界?」
「振り向いてみるがいい」
彼女が歩いてきた道を振り返ってみれば、先ほどまでの人影は消えてしまっていた。代わりに山羊の影がスラム街を歩き回っている。
「この場所は……」
袋叩きしている集団は狼へ、ナイフを突き刺していた人影は大型の蠍へ、娼婦は翼を広げた鶴へ、ブツを交換していた人影は鷲に成り代わっていた。
「……?」
教会の奥で佇んでいた老婆は獅子の影へと姿を変える。彼女を宿敵と捉え、真っ赤な瞳で睨みつけているようだ。
「グァッグァッ!」
「……鴨?」
獅子を観察していた彼女の耳に届いたのは鳴き声。ふと足元を見下ろしてみれば、そこには鴨の影が彼女のことを見上げていた。不思議とその鴨に惹き付けられ、彼女は手を伸ばそうとしたが、
「……!」
瞬間、どこからともなく蛇が鴨へ飛びかかる。長い胴体を鴨の首へ巻き付け、抵抗させる間もなく首の骨をへし折った。
「……」
そして長い瞳孔で彼女に「手を出すなよ」と威嚇をすると、そのまま鴨を引きずりながらスラム街へと消えていく。
「お前はスパイとしてこのスラム街へ潜り込んだ。クルースニク協会から吸血鬼の情報を盗むために、この街で生き方を覚えることになる」
「……生き方」
思い返すように俯くと、砂嵐が音もなくスラム街ごと彼女たちを包み込む。周囲の建造物や人影は瞬く間に消滅し、立っていた場所は砂漠へと移り変わった。
「自由を掲げるのがクルースニク協会。だがしかし、それを阻む宗教団体が存在する」
「……宗教団体」
砂漠のオアシスにはローブを纏う人影。それを取り囲むように鬣犬の影が無数に集っていた。鬣犬は人影を獲物としてではなく、崇めるようにして取り囲んでいる。
「教団名は"魔女の馬小屋"。教祖は"魔女"と呼ばれる人物。お前たちは吸血鬼の情報を求めるうえで、この教団と接触することになる」
「……魔女の馬小屋」
天から照らす光が人影を覆い尽くせば、得体の知れないナニカが人影の背後に映し出される。彼女はよく認識しようと目を細めたが、眩しさのあまり目を閉じた。すぐに目を開くが、オアシスも人影や跡形もなく消えている。
「ここで一つ、お前に尋ねようか」
「何だ?」
「人に喜怒哀楽を与え、亡者を呼び起こし、幼き日々へと帰ることができる。死を迎えるまで永遠と生まれ、永遠に消えることがない。この"エニグマ"が指す答えは何だ?」
彼女は男性にそう問われると深く考え込む。エニグマは謎やパズルを表す言葉。考え込む最中、うっすらと三角の建造物の影が景色のずっと奥へと映し出されていた。
「……答えは"記憶"だ」
「ほう」
「記憶は亡者と過ごした日々や、感情に揺らいだ日々を甦らせる。記憶の中ならば幼少期にも戻れるだろう。それに記憶は生きている限りは永遠に生まれ、永遠に消えることはない……違うか?」
「見事な答えだ」
男性は三度だけ拍手すれば杖の先端を砂の中に沈ませる。彼女の前に浮かび上がるのは蛍光色の無数のギリシア文字。書かれている内容はAinigmaという単語ばかり。
「今のお前に足りないものだろう」
「……それは記憶のことか?」
「その通り。今のお前には寄せ集めた記憶に映し出された者たちが亡者なのか。それとも生者なのか。いや、もはや自身が生きていることすらも知り得ないはずだろう?」
「……」
彼女は左の手の平を見つめると力強く握りしめた。手足を動かす感覚は確かにある。だがどうしても生きた心地がしない。彼女は顔を上げると男性を見つめた。
「私が立っているこの場所は何だ?」
「……」
「あの世か? それとも地獄の果てか?」
「……」
問い詰めるが男性は視線を交わすだけで何も答えない。彼女は掴みかかろうと一歩だけ右足を踏み出す。
「……!」
「今のお前に与える答えはない」
踏み込んだ場所は流砂。すぐに引き抜こうと後退するが、流砂の範囲は広がりながら彼女の下半身を呑み込んでいく。
「この場所の意味も名前も、すべての記憶を取り戻せば理解するときが訪れるだろう」
「……何故だ? 何故、先に記憶を取り戻す必要がある?」
「物事や歴史は順序があるからこそ成り立つものであり、記憶もまた順序があるからこそ成り立つのだよ」
彼女の下半身が完全に流砂に沈んでしまえば、次は上半身が沈み始める。男性は杖を砂から引き抜くと、身動きの取れない彼女を見下ろした。
「だが忘れるな。お前は転生者として選ばれたからこそ……この場所へ訪れ、私の前に立っていることを」
「……」
首元まで流砂で沈めば、彼女は静かに目を瞑る。流砂に包み込まれているというのに熱さも冷たさも、圧迫される息苦しさも、何一つとして感じない。
「よく思い出せ、お前が歩んだ──クルースニクでの記憶を」
そして男性にそう告げられると彼女の肉体は流砂に吞み込まれてしまった。
5:Kresnik Society




