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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君への手紙

悠久の時を眠る君へ

作者: まさかす

 やりたい事があるならやればいい。それを成すが為のあらゆる努力を寸暇を惜しまずやれば良い。


 生きたい奴は生きれば良い。病気を理由に生きられないというのであれば如何ともしがたいが、そういった要素が無く、泥水を啜ってでも生きるという意志と気力があるなら生きていけばいい。


 家を失っても生きている人はいる。その人達の中にはただただ寿命を待っている人もいるであろうが、中には這い上がろうと必死で足掻いている人もいる。生きる意思も気力もあるのに生きていけないと言うのなら、既にそれなりの制度と団体は存在する訳であり、それらを頼れば良い。とはいえ思い通りになる訳では無く、それなりの我慢も必要であろう。その上で余程のわがままを言わなければ、それらはそれなりに役に立つだろう。

 

 何もせずに金が欲しいという奴もいる。そんな物は拒否すればいいし放っておけばいい。個で支援したい人がいるならすればいい。


 煩雑且つ複雑に定期的に管理され、時には武士道精神的な潔癖さや忍耐を要求されるこの国に於いては、生きずらい事もあるだろう。

 一度住所を失うと這い上がる事はおろか、その日を暮らすにも苦労する事もあるだろう。その人が悪いと言うつもりも無いが、国家が悪い訳でも無い。きっとその現状は、我々国民が望んだ結果でもあるのだ。若しくは、惰性で以って選んだ結果とも言えるだろうか。


 この国では生きてゆけないと思うなら、この国を捨てて海外へ行けばいい。海外へ行く金が無いなら貯めればいい。それがどんなに大変であろうとも、生きる意志と気力があるなら案外出来るだろう。そこまでの気力が無いなら諦めれば良い。


 多くを求めずとも、生きていくならそれなりの気力と意思は必要だ。そしてそれなりに競争をせざるをえないだろう。存外どこにでも競争は存在する。競争の無い場所なんて私には思いつかない。その競争に勝てないと言うのなら、諦めればいい。


 死にたい奴は死ねば良い。自分に何の価値も見出せず、生きる意思も気力も無いなら死ねば良い。好きにすれば良い。


 生きるのは大変であり、『生は難く死は易しせいはかたくしはやすし』なんて言葉も存在する。そして理由はどうあれ、自死を選択する人がいなくなる時代など、未来永劫来る事は無いだろう。だが現在に於いては、それを実行しようとすれば苦痛を伴うやり方しか存在しない。それは社会が個人の選択を尊重していないとも言える。私から見れば真綿でジリジリ締め上げられているのを尻目に、「社会として生かさず殺さず」とでも言っているようにも思える。だが少なからずそれを求める人がいるという状況に於いては、それを支援する制度は必要であろう。例え非難されようとマイノリティであるからと切り捨てず、何の痛みや苦しみも無く、何の憂いも残さないよう、個人の意思で終えられる制度が必要と言えるだろう。


 どんなに恵まれた環境で過ごそうとも、世の中には経験していない事や知らない事は星の数ほどある。そういった事があるのを承知の上で死にたいというなら、それを尊重すべきだろう。その人が未来を拒否するなら、それはそれで尊重すべきだろう。喜怒哀楽の全てを放棄したいと言うのなら、それを尊重すべきだろう。あらゆる全てから解放されたいというのなら、それを尊重すべきだろう。


「考えが甘い、世の中を舐めてる」

「無責任だ、逃げているだけだ、楽したいだけだろ」

「お前よりも辛い状況で頑張っている人は星の数ほどいる」

「人に感謝すると言う事を知らないのか」

「自分1人で生きているつもりか、自己中心的すぎる」

「命の重さを考えろ」


 そんな事を言われるのだろう。だが心の中では「人に迷惑を掛ける前に1人で勝手に死んでしまえ」と、往々にしてそんな事を思っているのだろう。どちらにしても下らない事だ。他人に自分の価値観を押し付ける人間など下らない。何故「生きなければならない」と強制されなければならないのだろう。「死んではいけない」と言われなければならないのだろう。人の生き死にを強制するのは、傲慢と言う物だろう。


 他方で「生き方は自分で決めろ」と言われる。世界には自分で決める訳にはいかない人もいるのだろうから、概ねそれが出来る事は、実は有難い事なのだろうし大事な事なのだろう。だが決めた物が死であると拒否され文句を言われる。


 一体何だと言うのだ。個人の意思を尊重しないというのなら、最期まで面倒を見ろと言うのだ。衣食住は勿論、医と職をそちらで用意し提供してくれというのだ。それが出来ないのであれば、個人の全てを尊重しろというのだ。あらゆる全てを自ら下す事を前提とした社会を作るべきなのだ。制度を設けるべきなのだ。


 女性に対して「子供を産め」と言ってしまえば、先進国の間ではハラスメントであるというのが既に常識となっている。女性が誰も子供を産まないならば、その国の未来が無い事は必然でもある訳だが、そうであっても女性には自由がある。私は諸手を挙げてそれに賛成する。「産まない」では無く「産めない」といった事情のある者もいるであろうが、それがその人の意志であるならば尊重すべき事だと思うからだ。であるならば、死にたい人に対して生きろと言うのも、ハラスメントという物だろう。個人を尊重していないという物だろう。それに異を唱える者がいるならば、その者は女性に対し平気で「子供を産め」と口にする者だろう。


 自暴自棄となり死を望み、それを他者の手に託すが為に、人や物に対する破壊活動を行なう者だっている。それに対し、自らの人生に自らピリオドを打つ人間は「正悪」で言ったら「正」と言えるだろう。その「正」に対して文句や下らない言葉を並べ立てるのではなく、静かに何の苦しみも与えないように終えられる制度があったって良いじゃないか。無理に生きろといって、その結果暴発したとしたら本末転倒とも言えるでは無いか。苦しんで生きてこそ人間だとでも言うのか。人の命が欲しいと言っているのではない。自分の命を捨てようと言うだけだ。


 時折耳にする「生きる権利」という言葉。権利はあるから公に面倒を見ろと。だがそれと対であろう「死ぬ権利」を口にする者はいない。それを公で面倒見ろと口にする者はいない。人は自分にとって都合の良い事しか口にせず、世間を恐れて当たり障りの無い事しか口にしない物であるが、例え世間の批判を恐れず、それを口にしたとて、きっと叶わないであろう。五体満足、健康である今の私が、それを叫んだところで、甘えてる等の言葉で以って拒否されるだけであろう。


 むしろ人はいつまで生きたいと願っているのだろうか。永遠に生きたいとでもいうのだろうか。経済的に恵まれている人ならそう願うのも分からなくはないが、困窮している生活を送っている人でも、永遠に生きたいと思う物なのだろうか。今がどん底と言える状況の人であっても、永遠に生きたいと願う物なのだろうか、死にたくないと思うものなのだろうか。


 毎日のように多くの命が誕生すると同時に、理由はどうあれ多くの命が消滅している。そこにその人の意思は殆ど介在しない。そんな中、意思を以って終わりを迎えようとする人がいたからとて何だと言うのだ。


 綺麗言には興味は無い。「無理に生きる必要はない」と言えばいいだけじゃないか。そんな制度があればどれだけの人が救わるか知れない。


 人の人生には折り返し地点が存在する。そこまでは色々な物を積み重ね続ける。そして折り返し地点に差し掛かると、今度は積み重ねたそれらを徐々に捨てたりと減らしていく。故に終わりを迎える前に、それら全てを失わないように積み重ねていく。


 だが私は早々に尽きてしまった。また積み重ねる気力があるなら積み重ねれば良いが、私にそんな気力はもう残っていない。ならば終えて良いだろう。きっと自ら終えるタイミングとは全てを捨て終わった時、若しくは積み重ねるのを諦めた時なのだろう。私にとって今がその時なのだろう。


 待っていればいずれ必ずやってくるであろうその終わりを私は待てない。だが残す家族親族が憂いとなって足枷となっている。その足枷が存在しなければ社会にどんな迷惑をかけようとも終えていた。かといってその足枷を自分で処分するなど私には出来ない。捨てようにも捨てる選択も出来はしない。


 病や障害を持ちながらも、働く事で生き甲斐を持っている人もいるだろう。むしろ働かざるを得ない場合もあるだろう。そういう人には補助や支援をすれば良い。そして私にも補助や支援が欲しい。自死への支援が欲しい。私以外にも、そう言った物を望んでいる者は大勢いるはずだ。生き永らえさせる事だけが福祉と言うのなら、それは傲慢というものだ。


 一方で「自死」それ自体、苦痛を伴いはするが決して難しい訳では無い。家の中で首を括るのは簡単だ。それなりに勇気が必要とはなるが歩道橋から飛び降りる、ビルの上から飛び降りる、道路に飛び出すなんて方法だってある。若しくは同じ思いの仲間を募り、ホームセンター等で以ってそれなりの道具を購入し、事に及ぶなんてのもあるだろう。結局は残された家族親族の存在を無視出来るか否かだ。無残な自分の遺体を家族親族に見せる事を良しとすれば良いだけだ。全てを家族親族に押し付ける事を良しとすれいいだけだ。社会への迷惑を一切省みなければ良いだけだ。だがそれこそが私の足かせだ。決して外す事の出来ない足かせだ。故に私は道を塞がれ、一切の身動きが取れないでいる。


 毎晩布団に入ると、自分の肉体から心が離れる錯覚に陥る。その度に、その肉体が凶行を起こすのではないかと怖くなる。私は「誰か私の事を殺してくれ」と口には出さずに心で叫ぶ。抵抗しないから殺してくれと心で叫ぶ。恨まないから殺してくれと心で叫ぶ。出来れば一瞬で、自分が死んだ事にすら気付かないようにして殺してくれと心で叫ぶ。だがそんな事は叶わない。もうどうすれば良いのか分からない……。


 だがそんな憂いは突然にして杞憂となった。今、私の手元には見知らぬ誰かに貰った1錠のカプセルがある。紺のスーツを着て、同色の中折れハットを目深に被る如何にも怪しい男に貰った小さい赤いカプセル。


『これを飲めば永遠に眠る事が出来るよ』


 男は突然に私の前へと現れ、まるで私の頭の中を覗いたかのようなそんな言葉を口にした。そして『その薬は何らの痕跡も体には残さない』と、カプセルを私に手渡した。怪しい事この上ないが、まあいい。それが怪しかろうが何だろうが、私の目的は永遠の眠りである。それで永遠の眠りに就けるなら構わない。家族に最期の別れを直接言葉に出来ないのは残念ではあるが、寝てる間に自然を装った形で終えられるというのなら、これ以上望むべくも無い。


 さてさてどうでもいい事ではあるが、眠りに就いたとして良い夢が見られるだろうか。悪夢であればそれが永遠に続くと言う事だろうか。まあ、それだけは勘弁して欲しい。とりあえず文字通り最後である訳なので、今は楽しい事だけを考えよう。楽しい思い出に包まれて眠る事にしよう。これこそ正に「終わり良ければ全て良し」という事だろう。今の私にとって「死」とは、あらゆる全てからの解放である。





 100年前に書かれた手紙にはそんな事が書いてあった。その手紙を書いたその人は、手紙に書いてある通り今も眠り続けている。病院のベッドの上で眠り続けている。恐らく眠った時と同じ見た目の姿で眠っている。それにしてもそういう「尊重」という物に対しては反論もしづらいと言えばしづらいが、極端な程の個人至上主義の持ち主ではあるな。


 手紙の主が望んだ「永遠の眠り」とは、「死」を意味する物であったろう事は疑う余地も無いが、残念ながら怪しい男に渡されたカプセルは「死」ではなく、「細胞の活動をほぼ停止させる」という薬だったようで、寝ているその人を多くの医学者が調査したが残留物も無く、どうすれば起きるのかは不明のままに100年が過ぎた。


 心臓は1日に1回だけ鼓動する。脳は1日に1回だけ微弱に反応している。常温のコールドスリープ状態と言ったところだろうか。


 人工心肺を必要とせず、脳死でもない事で生かされ続けている。いや、生き続けている。生物学的にも生きている。現在は1日に微量のビタミン剤のみを適用するのみ。親族は「安楽死を」と求めたが、倫理的にそれは許可されなかったが為に、今も生きている。


 その手紙はクローゼットに入ったスーツ上着の内側ポケットに入っていたという。自然死を装ったのにこんな手紙を残していたが為に、結局は事の経緯を家族親族が知ると同時に、苦しませる結果になったのは不用意でもあるな。まあ、この人はこの人で、誰かに自分の思いを伝えたいという事だったのかもしれない。


 だがそれもようやく終わりを迎えそうだ。もうすぐ彼以外に人類はいなくなる。


 案外あっけないほどに、人類は滅亡への道を辿り世紀末が来た。最期まで彼の行く末を見れない事は残念であるが、まあ私ももう直ぐ死ぬのだからしょうがない。


 私が死んだ後でも彼は暫く生き続けるのだろう。一応残りのビタミン剤の全てを点滴出来るようにしておいた。そしてそれが切れて暫くした後、眠り続けたままに終わるのだろう。


 彼は今どんな夢を見ているのだろうか。良い夢を見ているのであろうか。それとも100年にも渡って、悪夢を見続けているのだろうか。どちらにしてもその夢ももうすぐ終わる。


「御希望通りもうすぐ死ねるから。安心してそのまま寝続けるがいいよ」





 これでようやく死ねるといった所だろうか。長かった。結局私は100年に渡りベッドに寝ていた。何と不憫だろうかと自分が嘆かわしい。


 私の耳には聞こえていた。全て聞こえていた。体を一寸でも動かせれば良かったが、それは出来ずに冬眠している状態と思われていたようだ。


 結局あの怪しい薬は私をベッドに寝かす為だけの薬だった。殆ど脳波も出ていないと言うのに、私の耳には人の声が届き考える事も出来た。何も出来ずにずっと起きていた。声も出せないが何度「殺してくれと」と懇願しただろうか。


 数十年前にはベッドの傍らで、両親を含む家族親族が亡くなった話を聞かされた。案の定、良い晩年を過ごさなかったようだ。そして今は世紀末が来たと聞かされた。死を望んだ私が人類最期の人間になるとは、どれほどの皮肉だろうか。哀しくて悔しく情けなくて、泣いていたつもりであっても涙も出ない。ただただ悲しいと無言で叫ぶしか出来ない。なんと苦痛な100年だっただろうか。


 結局、あの怪しい男は何だったのだろう。私が極端な迄の個人至上主義を唱えていたから罰でも与えたというのだろうか。まあ、やっと終わるのであればどうでも良いか。だが本当に長かった。





 まさか人類が自滅に近い最期を迎えるとはな……。まあ意外であったと同時に、「若しかしたらそんな事が起こるかも」という雰囲気を感じていたと言えば感じていたが。ちょっとあの男を面白がって見続けてしまったが故に、終わりを食い止める事を忘れてしまった。本当はあの男をあの状態のまま永遠に生かしておいて、心の叫びを楽しみたかったんだが。


 まあ仕方ない。失敗は誰にでもある事だ。私だって間違う事はあるさ。こうした経験を次に生かせばいいだけだ。今度はもう少しまともな人類を創生しよう。


 しかし人類のパラメータ設定とは何と難しい事なのだろうか。間違えた方向に進んだ人間に対し、正しい人間が近寄ると何故か悪い方向へと染まってしまう。1人にするとおかしな思想になってしまうし、そもそも環境による変化が激しすぎる。


 自我があるから駄目なのだろうか。それを取り払い、他の動物同様に本能だけにしてみた方が良いのだろうか。どんなに良いと思われる初期パラメータを設定しても、環境に依ってのブレが大きすぎる。初期パラメータだけでは上手くいかないという事かな。でも環境設定を変えると、それこそ激しい変化を及ぼすからあまりやりたくないしな。


 他の星の奴らはどう設定しているんだろうか。今度相談してみるか。1人で上手く出来ないなら相談しなくちゃな。

2020年05月17日 3版 ちょっと改稿

2020年03月27日 2版 誤字訂正

2019年12月18日 初版

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