18.押せば落とせる?
アッシュが優しくルキの背を撫で続けること数分。ルキの呼吸は落ち着いていたが何も言わず、アッシュに抱き着く姿勢はそのままだった。
「おい、ルキ。落ち着いたよな?」
「うぅ~……」
「ルキ?」
アッシュはひょいっと軽い調子でルキを引き剥がし、正面から向き合う形を取った。先ほどまでの状態であればそう簡単に引き剥がせなかっただろうが、今のルキは本当に軽く引き剥がすことが出来た。
ルキは真っ赤になりながらもじもじとしていて、何かを気にしているというか、何かを隠そうとしているようだった。それは普段のアッシュであれば簡単に気づけることだったが、今のアッシュはそれに気づくことはなかった。
アッシュはアッシュであとほんの一押しでルキと一線を越えていたであろう自身の状態を悟らせまいと平静を装うのに必死だったからだ。
とはいえそこまで必死にならずとも今のルキであれば気づくこともなかった。互いに相手に隠したいことがあり、そのせいで互いに相手をちゃんと見ることが出来ていないのだから。
「おい、ルキ。大丈夫か?」
そう言いながらアッシュがルキの肩に触れると、ルキは体をビクッと小さく跳ねさせ、俯いてしまう。
流石にそれには疑問を抱きながらアッシュがルキの顔を覗き込むとルキはバッとアッシュから離れるとシャワーを手に取った。
「あ、あんまりこうしてても仕方ないし! とりあえず身体を洗わねぇとな!! な!?」
「え、あ、そ、そうだな」
「だよな!!」
言うが早いかルキは頭からシャワーを浴び始めた。その様子があまりに必死だったのでアッシュは疑問符を浮かべるばかりだったがあまり気にしても仕方がないか、とアッシュも自身の体を洗うことにした。
とはいえそれは自身の傷口を洗い流し、治癒魔法で傷口を塞いでからの話だ。また今回使用した治癒魔法は詠唱を必要としない小さな傷を塞ぐ程度のものだったの、アッシュからは見えないがルキの歯形がうっすらと残っていた。
そうとは知らないアッシュが普通に体を洗い始めたのを確認してからルキはアッシュに気づかれないようにと、とある一点を洗い流していたがそれが何処だったのか、というのはルキの名誉の為に語るべきではないだろう。
そうしてアッシュとルキがそれぞれ身体を洗い、髪を洗い、後は湯に浸かるだけ。という状態になっていた。
浴槽は広く、アッシュとルキの二人が同時に入ったとしても充分過ぎるほどに余裕があった。ということで特に気にすることはなくアッシュは先に浴槽に入り、腰を下ろした。
するとその後に続くようにルキが浴槽へと足を踏み入れ、少し考えてからアッシュの足の間に腰を下ろした。
「あ、おい。ルキ」
「べ、別に良いだろ! さっきよりは……さ、さっきよりは、おかしくない、だろ……?」
「それはそうだけど……」
「なら良いってことだよな!」
そう言ったかと思うとアッシュに凭れかかるようにして背を預けた。先ほどのこともあってアッシュの鼓動は少しだけ早くなる。だがそれ以上にルキの鼓動は早かった。
「あー……えっと……な、なぁ、アッシュ」
「どうした?」
「その、さっきはごめん……」
「さっきの……あー、うん、あんまり気にしなくて良いぞ。俺も気にしないようにしておくから……」
ルキの口にしたさっき、というのはアッシュの首筋に噛みついたことだ。
それを聞いたアッシュは、それに付随するあれこれを思い気にしない、と答えた。その真意としては思い出せばルキのことを今まで通りに見られなくなるのではないか、という危惧が含まれている。
というよりも平静を装ってはいるがこうしてルキと密着している状況に内心では酷く動揺していたりする。
「本当にごめん……何か、ふと目が惹かれて、そうしたら自分を止められなくて……」
「あー、ほら、それは……たぶん狼人の本能とかそういうのだろうから気にするなって。食い千切られたとかじゃなくて歯を立てられただけだし俺は大丈夫だからさ」
「アッシュはそうかもしれないけど、絶対におかしいんだよ……だって、その、あー、えっと……」
何と言えば言いのかわからない、もしくはそれを口にしても大丈夫なのか判断がつかないからこそ言い淀んでいる。というようにルキは言葉を濁した。
「おかしいって言うならとりあえず聞かせてくれ。俺としてはそうやって言葉を濁された方がもやもやするからな」
だがそんなルキにはっきりと言え。と言外に伝えながらアッシュが催促をすると意を決したようにルキはこう言った。
「……その、アッシュの匂いを嗅いだら頭のぼーっとして、気づいたらアッシュの血が口の中に広がって、そうしたら身体が熱くなって……それで、気づいたら、あんなこと……」
言葉を続けるルキは顔を真っ赤にしながらあんなこと、と言って俯いてしまった。
そんなルキの鼓動はより早く、大きなものになっている。それは凭れかかっているアッシュにもわかることであり、それに共鳴するようにアッシュの鼓動も早くなる。
「あ、あー……そう、だな。確かにあれはおかしかった、よな……」
このおかしかった、というのはルキの状態だけではなくそれに流されてしまった自分自身のことも含まれていた。
だからこそアッシュも言葉を濁しながらそう言って、これは無理やり話を変えた方が良いのではないだろうか、と考えていた。
「ま、まぁ! とにかく俺は気にしないようにするからルキもあんまり気にするなよ?」
そう言ってルキの頭を撫でるアッシュ。とりあえずこれで誤魔化せるはずだ。と考えてのことだったがこの状況はそう簡単には行かない。
アッシュの鼓動の早さと大きさを背中越しに感じたルキがぽつりと言葉を零した。
「アッシュ、すごいドキドキしてる……」
「……そういうルキだってそうだろ」
互いの鼓動を感じていて、それを口にすることで完全に相手のことを意識してしまうこととなった。それによってアッシュもルキも黙り込んでしまう。
その沈黙の中であるからこそより互いの早く大きな鼓動を強く感じることになりルキはもぞもぞとアッシュと向き合うように姿勢を変えて潤んだ瞳でアッシュを見た。
そんなルキを見てアッシュは何も言わず、ただその瞳に吸い込まれるような奇妙な感覚に支配されていた。
だがすぐにアッシュはその魅了に掛かってしまったかのような状態を脳に魔力を巡らせることで無理やり振り払った。
「アッシュ……なんか、また、頭がぼんやりして……」
「また!? あぁ、もう! ちょっと我慢しろよ!!?」
どうやらまたルキが正気を失い始めたのだと察したアッシュはそう言うとパーンッと小気味良い音をさせてルキの額へとデコピンを放った。
「痛ぇ!?」
それはただのデコピンではなく、魔力を込めてルキの額を打った瞬間にその魔力をルキの脳に叩き込んでいた。状態的に先ほどのように直接魔力を流し込まなくても問題ないと判断してのことではあるが、アッシュでなければ熟練の魔法使いでなければリスクの方が大きい手段だったりする。
小気味の良い音からは考えられない痛みにルキは涙目になってアッシュに打たれた額を抑えた。
「何すんだよ!? 音と違ってめちゃくちゃ痛ぇんだけど!!」
「また正気を失ってたからだ! あぁ、本当に心臓に悪いからやめろよな!!」
「うっ……そ、それは、悪かったけど……って、何で心臓に悪いんだ?」
心臓に悪い理由は非常に簡潔に言ってしまえばあの状態になったルキに酷く心を惹かれてしまうから。ということだ。それが原因で今までのようにルキに接することが出来なくなる。というのは避けたいとアッシュは考えている。
「あー……いや、それは……ほら、普段の様子と全然違うだろ?それは戸惑いもするって」
「あぁ、そういうことか……」
アッシュの言葉に納得したのか、していないのか。とにかくルキはそう返して一つ頷いた。
ただその後にすぐ何かを思いついたのかズズイッとアッシュに体を寄せてぴったりと体を密着させた。
するとアッシュは一瞬だけうっ、と呻くと自分を見上げてくるルキから目を逸らした。
「なぁなぁ、どうして目を逸らすんだよ。こんなの、別に珍しいことでもないだろ?」
「いや、それはそうだけど……いや違う! こんなに近いってのはそうそうないだろ!?」
「だから珍しくないって! ちょっとぴったり密着してるだけ。たったそれだけなんだからさ」
言いながらルキは悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
この状態になってみればルキの鼓動は収まり、代わりにアッシュの鼓動が大きくなる。それは密着しているルキには手に取るようにわかるものであり、それがルキの胸を高鳴らせた。
普段は好きだと言っても軽く流されているだけの自分が、こうもアッシュの鼓動を早く、大きなものへと変えている。それがルキにとっては嬉しかった。
嫌がるのではなく、ただ戸惑っているだけではなく、アッシュは自分のことを意識してくれるのだとわかったからだ。
「それが珍しいって言うかおかしいって言うか……!!」
焦ったようにそう言ってどうしたら良いのかと必死に思考を巡らせるアッシュの顔は赤くなっていて、その姿はよりルキの胸を高鳴らせ、充足感を与えるだけだった。
それと同時に今までに感じたことのないような高揚感をルキは感じていた。
そしてもっとアッシュが自分を意識するようにしたい。もっとアッシュが自分だけを見てくれるようにいたい。もっとアッシュが自分のことで頭が一杯になって欲しい。もっと、もっと、もっと。
ルキの思考がそういったものに染まろうかという瞬間、アッシュはルキを引き剥がしてからバッと立ち上がった。
「そ、そうだ! イシュタリアが散らかしてるのを片付けないといけなかったな!! 俺は先に出るけどルキはもっとゆっくりしてろよ! な!!」
「え、あ、アッシュ!!」
それだけまくし立てるように言うとアッシュは浴室から出て行ってしまった。
ルキが止めようとしたが一陣の風のように去って行ったアッシュにはその声は届かず、浴室の中にはルキだけがぽつんと残される形になってしまった。
普段であればこうして一人だけ残されてしまう。ということになれば急いでアッシュを追いかけるルキだったが、今回は違った。
仕方がないな、とでも言いたげに大きくため息を零してから肩まで湯に浸かると先ほどまでのアッシュのことを思い描く。
「……アッシュは俺を意識してくれた。それもほんの少しどころじゃないくらいに。これって……もっとぐいぐい押していけばもしかすると……」
そう呟いてからにへらっと頬を緩ませた。
「よし……よし! アッシュはどういう奴が好きなのかとかわからなかったけど俺にも充分チャンスはある!! 絶対に、絶対に落としてみせるぜ!!」
だがすぐに表情を引き締めると今度はアッシュを落としてみせると誰に聞かれるでもない宣言をした。
いや、宣言というよりも決意といった方が近いのかもしれない。
ルキはアッシュに対して好意を抱いている。
元々その好意は兄のような存在として、父親のような存在として、というものだった。だがそれはいつしか一人の人間に向ける恋慕の情へと変わり、それをすんなりと受け入れたルキはアッシュへと好意を伝えた。
だがアッシュはそれを家族に向ける感情だと考えてその言葉を受け入れると同時に軽く流すようにしていた。
ルキとしては軽く流されるのには不満があり、どうにか少しでも自分を意識してもらいたいと思って色々とやって来た。
「ベッドに潜り込んだり、抱き着いたり、抱き着いて匂いを堪能してみたり、他にもやったけどダメだった。でも、こんなことで意識してもらえるとは思わなかったなぁ」
しみじみとそう言ったルキの言うように、今までは何をしようとも一切効果が見られなかった。
だというのに今回アッシュは確実に自分のことを意識していた。その事実にルキは歓喜し、そしてこれならば充分にいける。と考えた。
「とりあえず、今日から一緒に寝るわけだしアッシュにはもっともっと俺のことを意識してもらわないとな」
これからのことを思い浮かべるルキはとても上機嫌な様子だった。
そんなルキは先ほどのこと、これからのこと。それらに胸を高鳴らせながらアッシュが言っていたようにゆっくりと湯に浸かることにした。
これからルキはアッシュのことを本気で落とそう。と考えるようになります。
これからアッシュはルキにぐいぐい迫られてぶんぶん振り回されるようになります。




