1.日常
ウルシュメルク王国の首都マアンナ。
まだ太陽が昇り始めた早朝だというのに首都の大通りには多くの人の姿があった。
鎧を着込んだ冒険者たち、屋台を開いて朝食は如何と道行く人に声をかける商売人たち、人と人の間を器用に避けながら元気に走っていく子供たち。その他にも散歩をする老人や朝食の支度で何か足りなかったのか買い物をしている主婦と思しき女性、犬や猫などの動物。
そういった者たちが往来する大通りは非常に活気に溢れていた。
そんな大通りから外れた、人の往来がない通りを一人の青年が歩いていた。
限りなく白に近く、それでいて灰色だと言える不思議な髪をした青年は人気のない通りを進み、一軒のバーの前で足を止めた。
バーというだけあって朝早くから開店しているはずはない。だがその青年は気にした様子を見せることなく扉を開けてバーの中へと足を踏み入れた。
「おはよう、アッシュ。今日は随分と早いわね?」
灰の髪の青年をアッシュと呼んだのは、バーテンダーの制服を着た女性だった。
「あぁ、おはよう、ハロルド。昨夜は来なかったからな。何か面白い話でもないかと思ったんだ」
「あら、そういうこと?そうねぇ……アッシュが気になりそうな話はなかったと思うわ」
ハロルドと呼ばれた女性は人差し指を立て、それを頬に沿えるようにして小首を傾げながら小さく微笑んでそう言った。
その際に薄紫色の綺麗な長い髪をふわりと揺れる。
そうした仕草は少女のような可愛らしさと、それと同時に落ち着いた大人の魅力を感じさせるものだった。
だが妙な言い方ではあるがそうした姿を見慣れているアッシュはそれに反応することはなかった。
「そうか……そうか。それなら依頼の方はどうだ?」
言いながらアッシュはハロルドと対面するようにカウンター席へと腰を下ろした。
アッシュが口にした依頼というのは冒険者ギルドでは取り扱われることのない非合法な、もしくは依頼人が冒険者ギルドを仲介出来ない理由のある依頼のことだ。
このバー、ストレンジではそういった依頼を受けることが出来る。ハロルドはその仲介人の役目を担っている。
「そっちも特になかったわ。いえ、暗殺や強奪の依頼ならあるけど……そういうのはもう受けないでしょ?」
「あぁ、ろくでなしのクソ野郎だって自覚はある。とはいえ、そういうのは遠慮したいだろ?」
「そうね……今のアッシュにはそういった依頼はあまり似合わないものね」
そう言ってからハロルドはクスクスと小さく笑った。
ただそれを聞いたアッシュは眉尻を下げてから小さく頬を掻いた。
元々アッシュという青年は幼少期を貧民街で生き抜いた人間だ。
本来であればそのようなことは相当運が良くなければ不可能なのだが、アッシュには誰にも言ったことのない秘密がある。
所謂異世界転生者という存在であり、幼少期から既に自我が確立されていたためにどうにか死ぬことを回避し、今まで生きてくることが出来たのだ。
勿論それ以外にも最悪とも言える環境の中で運良く結んだ縁が生存の決め手になっていた。
閑話休題。
貧民街で生きていた頃であればアッシュはハロルドの挙げたような依頼を受けていただろう。
だが今のアッシュは貧民街ではなく王都の居住区で生活をしており、非合法な依頼に関しては受けないにしていた。
そうした事情があってこその似合わないというハロルドの言葉であり、まるで子供の成長を喜ぶ母親のよう、もしくは姉のようにすら見えたことからアッシュは気恥ずかしさ、というよりもバツの悪さを感じてしまっていた。
そんなアッシュを見て微笑ましく思っていたハロルドだったがふと何かに気づいたように口を開いた。
「そういえば……ルキはどうしたのかしら? アッシュが一人で、というよりルキがアッシュから離れてるなんて珍しいこともあるのね?」
「ルキなら俺のベッドに潜り込んで幸せそうに眠ってたから置いて来ただけだぞ」
事も無げにルキという人物を置いて来たとアッシュは言った。
それを聞いたハロルドは頬を引き攣らせながら言葉を返した。
「……え、それ大丈夫なの? あの子のことだからアッシュがいないって気づいたら大変なことになるんじゃないかしら……?」
「大丈夫だろ。ルキだっていつまでも俺にべったりしてても仕方ない――」
そんなハロルドに対してアッシュがおざなりにそう返していると突如として勢い良く入り口の扉が開けられた。
何事かとアッシュとハロルドがそちらに顔を向けようとすると同時に、何かがアッシュに向かって恐ろしい速度で突撃してきた。
「クトゥグアッ!?」
「アッシュ!?」
まるで砲弾を撃ち込まれたかのような音と衝撃によりアッシュは店の奥へと吹き飛ばされた。
そんなことが目の前で起こったハロルドは吹き飛ばされたアッシュの名前を叫びながらカウンターから出てアッシュの下へと駆け寄った。
そうして駆け寄りながらハロルドはアッシュが座っていた椅子は吹き飛ばされた際に倒れたがそれ以外の椅子やテーブルは倒れていないことに気づいた。
何とも器用なことにアッシュは吹き飛ばされながらも他の物を巻き込まないように吹き飛ばされる角度を調整していたのだ。
それに気づいたハロルドは感心半分、そんなことをするなら自身の身を守れば良いのに。という呆れ半分といった感情を抱いていた。
「アッシュ! 無事か?! 怪我はねぇな!?」
「ぅぐ……これが、無事に、見えるのかよ……?というか、今まさに怪我するところだったぞ……」
そう言ってからアッシュは自身に飛んできた何かへと目を向けた。
そこには鴉の濡れ羽のような黒髪とピンと立った狼の耳、それとブンブンと左右に振られている尻尾という特徴を持った少年がアッシュに抱き着いていた。
アッシュとハロルドにはそれが誰なのかわかっていた。
「ルキ! とりあえず、放せ!」
アッシュは自分に抱きつくというよりもがっつりとしがみついているルキと呼んだ狼人の少年を軽く押し退けながら言った。
だがピコピコと耳を動かし、ふさふさの尻尾を千切れんばかりに左右に振っているルキはしがみつく腕の力を強めるばかりだった。
「はぁ……良かった……それに、アッシュの匂いだ……」
ぐりぐりとアッシュの腹部に顔を押し付けながら深呼吸をするようにルキはアッシュの匂いを嗅いでいた。
そんなルキをアッシュがどうにかして押し退けようとするのだが、それに抵抗するようにルキは腕の力を強めて更にきつくしがみついた。
「おい、本当に放せ……!! これ以上は、骨が軋むし内臓が絞まるんだよ!!」
狼人という種族は人とは比べ物にならない力を有している種族だ。
そんな狼人であるルキは十二歳前後と言えど既に人間を遥かに超える力を持っているので、そんなルキに力一杯しがみつかれるとどうなるのだろうか。
それを想像したからこそアッシュは無理に押し退けるのではなく穏便な手段として言葉を用いたのだがルキは一向に力を緩めようとはしなかった。
「クソ……! 何でこんなことに……!!」
アッシュは何を言っても意味がないのだと早々に悟り、そう悪態をついた。
「はぁ……だから言ったじゃない。アッシュがいないことに気づいたら大変なことになるんじゃないかしら?って」
そんな様子を見てため息を一つ零し、呆れたようにハロルドはそう言ってから言葉を続けた。
「ほら、ルキ。いい加減にしなさい。アッシュが困ってるわよ?」
「すぅー……はぁー……すぅー……はぁー……」
「深呼吸するのやめなさいね?」
ハロルドに言われてもルキはアッシュを放そうとはせず、それどころか深呼吸をしながら全力でアッシュの匂いを嗅いでいた。
その様子に蟀谷の辺りを人差し指で押さえながらハロルドは先ほどよりも大きなため息を零してから言った。
「はぁ……こういう場合はどうしたら良いのかしらね……」
「ルキ! いい加減に放せ!!」
「もう少し……! もう少しだけ……!!」
「放せって言ってるだろうが!! お前のそれは際限がないって知ってるんだからな!?」
「もーうーすーこーしーだーけー!!!」
先ほどまではどうにか言葉で、と考えていたアッシュだが放っておくといつまでも放してもらえそうにない事を悟った。
そのためアッシュはルキが怪我をしないように気にしながら、それでいて自分が締められないように全力でルキに対して抵抗することにした。
だがそれを察したルキはより強くアッシュにしがみつく。
「チッ……! ルキ! おすわり!!」
そうしたルキに対して業を煮やしたアッシュは短く、それでいて鋭くそう言った。
おすわり、と言われた瞬間。ルキはバッとアッシュから離れるとその場に正座をしてアッシュを見上げていた。
これには子供の頃からアッシュに仕込まれていたというか、躾をされていたというか。
とにかくルキは正座をしたまま尻尾をブンブンと振りながら、何かを期待するようにキラキラと瞳を輝かせていた。
「はぁ……最初から素直に放せよな……」
そう言いながらもアッシュはルキの頭を少し力を込めてぐりぐりと撫でた。
「仕方ねぇじゃん。起きたらアッシュがいなくて、アッシュの匂いを追って急いで来たんだからさ」
乱暴に撫でられていたのだがルキは嬉しそうにしていた。
先ほどよりも更に揺れている尻尾がルキの感情を如実に語っている。
「おすわり、の一言で放してもらえるなら最初からそうしたら良かったんじゃないかしら?」
「どう考えても犬扱いになるからやりたくないんだよ……」
「それを仕込んでる時点で犬扱いしてるわよね?」
アッシュはルキを犬のように扱うことはしたくない。とは言っているがそう躾けた時点で犬扱いをしているとハロルドに指摘された。
それをアッシュ本人も自覚しているようで、ハロルドの言葉を受けて何処となくバツが悪そうにしていた。
アッシュがこうした躾をしていたのには理由がある。
ルキは幼かった頃に常にアッシュの後ろをちょこちょことついて回っていた。
そうしたことがあってそれをどうにか落ち着かせることは出来ないかとアッシュは考え、ふざけてそう躾けたのだ。つまり、とてもろくでもない理由で行われた躾だ。
「アッシュになら犬扱いされても別に良いんだけどなぁ」
しかしルキはそうした扱いを嫌がってはいないようだった。いや、寧ろ歓迎しているようですらあった。
ただし、それはアッシュになら、という前提がついているのだが。
「いや、ルキは犬じゃないからな?」
「アッシュの犬になら喜んでなるぞ! 番犬とか忠犬とか!!」
アッシュは困ったように、それでいて言い聞かせるようにそう口にした。
だが当のルキはシュバッと勢い良く右手を挙げて尻尾を振りながらそう主張した。それも何処となく誇らしげにしているように見える。
そんなルキの姿にアッシュはどうした物かと少し頭を抱え、ハロルドはため息を零した。
「はぁ……何て言えば良いのかしらね……アッシュが関わるとこの子は色々ネジが飛ぶのどうにかした方が良いんじゃないかしら……」
そう言ったハロルドは何とも言えない微妙な表情を浮かべていた。
ただそれと同時に困った子供を見るようにも見えたので、ルキのそうした様子を温かく見守っているようでもあった。
アッシュはそれに気づき、やはりハロルドは子供に優しいな。と思いながらもそれを口にするのは野暮だと思い、何も言わなかった。
「まぁ、良いわ。それよりも二人とも、今日はどうするのかしら? 二人にお勧め出来るような依頼はないわよ」
仕方のない子ね、と言葉の中に含めながらハロルドはこれからの予定をアッシュとルキに問いかけた。
「なら冒険者ギルドで適当に仕事を探すさ。今からなら遠出しても問題なく戻れるからな」
「遠出か……ならゴブリンの討伐とかその辺りが良いんじゃねぇか?」
「その辺りが妥当だな。よし、そうと決まれば行くか」
問われたアッシュとルキはサクサクとこれからの予定を決めてすぐに行動に移ることにした。
アッシュが正座をしたままのルキの隣を通り過ぎると、ルキは置いて行かれないようにとサッと立ち上がってアッシュに続く。
「いってらっしゃい。気を付けなさいね」
「あぁ、いってくる」
「それじゃ、またな、ハロルド!」
「はいはい。ルキも気を付けなさいよ?」
いってらっしゃい、と言いながら手を振ってアッシュとルキを見送るハロルド。
そんなハロルドに対してアッシュとルキを軽く手を挙げてから答え、扉を開けて外に出た。
そしてアッシュは少し歩いてふと振り返りバーの名前を見た。そこにはこの世界の文字が書かれたプレートが吊るされていた。
読みはストレンジ。それはある意味でこのバーに集まるような人間を指すに相応しい言葉なのかもしれない。
「アッシュ、何してるんだ?」
「いや、何でもない。気にするな」
振り返る際に足を止めたアッシュを見上げながらルキ小さく首を傾げてそう言った。
そんなルキに短く返してからアッシュは再度歩き始め、ルキは足早にその隣へと並んだ。
「ふーん……まぁ、アッシュがそう言うなら良いけどさ。何かあったら言ってくれよ?俺はアッシュの為なら何でもするからさ」
「軽率にそういうことを言うのはやめとけ。面倒なことを押し付けられても困るだろ」
「大丈夫だ。アッシュにしか言わねぇからな」
「それでもだ」
ルキはアッシュにだけだ、と何処か自慢げにそう口にして胸を張っていた。
そんなルキに対してアッシュはため息混じりに返してからくしゃくしゃとルキの頭を撫でる。
「まったく……バカなこと言ってないでさっさと行くぞ」
「はーい」
何処となく楽しそうにそう返事をしたルキと共にアッシュは冒険者ギルドへ向けて歩を進めた。
ゴブリンの討伐依頼というのは冒険者ギルドでは常時取り扱っているが、遠出することになるのであれば少し急いだ方が良いと判断したアッシュはその歩みを少しだけ早めた。
ハーレムになる予定ですが早い段階で、ということはないかと思います。
そしてロリショタがメインになります。




