幼い初恋 -アルバート-
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少しの間、隠れ住んでいた屋敷の裏庭で出会ったトリクシーはとても可愛い女の子だった。少しうねった柔らかな栗色の髪と大きな琥珀色の瞳をしていて、黙っていれば物静かな儚い感じの少女だ。だが、ひとたび動き出せば生き生きとしており少しも目が離せない。
「ロイド、こっちよ!」
いつだってそんな声で呼ばれた。動くことは苦ではないが、トリクシーの動きを予想するのはとても大変だ。木に登っていたり、時には低い木々の中に潜っていた。
見つけると嬉しそうに逃げ出すのだが、それはまだ小さい女の子の足だ。姿が見えればすぐに捕まえられる。
「捕まえた。ほら、また怪我している」
トリクシーはいつだって擦り傷を作っていた。傷に頓着しないのか、ちょっと首をかしげてみて、痛くないから大丈夫だという。
綺麗に結われていたはずの髪をいつも乱しているようなお転婆娘だったが、着ているドレスがとても高級であることから僕を匿っている貴族の娘だと見当をつけていた。僕の思っていたことを裏付けるように護衛達から彼女と会うことを止められたことはなかった。
お茶の時間になって、菓子とともに出せば慣れた手つきでお茶を飲む。不思議と外で駆けているときとは違って、綺麗な所作をしていた。
「トリクシーは心配ばかりさせる」
「ロイドだからいいの」
呆れて呟けば、うふふと笑う。その屈託のない笑みはとても眩しかった。
彼女の明るさにどれほど慰められただろう。母上が亡くなってから命を狙われるようになっていた。僕の暮らしていた城では出所のわからない毒が仕込まれていることが多く、絶え間ない緊張感に食事をとることができなくなって心が疲弊した。そんな僕を見かねた父上が隠れ家を用意したのだ。
信用する人しかいない小さな空間はとても心地が良かったが、いずれ戻らなくてはいけないことを考えるだけで涙が出てきた。誰にも見せたくなくて裏庭で隠れているところにトリクシーと出会った。
突然、木の間から現れたトリクシーは髪の毛に葉をつけ、ドレスも土で汚れていた。驚いて涙が止まったが、僕が泣いているのに気が付いたトリクシーは何を思ったのか、そっと抱きしめてくれた。
それから時々トリクシーはやってきた。後ろに護衛を引き連れて彼女は屈託なく裏庭からやってきた。
沢山の花を使った花冠はいびつで下手であったが、それを僕の頭の上にのせて似合うと満面の笑みを浮かべる。お菓子をあげれば、嬉しそうに口にした。
その笑顔がとても暖かくて、鬱々とした気持ちが日に日に小さくなっていた。いつの間にか、トリクシーが会いに来てくれるのを心待ちにしていた。
「大きくなったら結婚しよう?」
好きとか愛しているとか告げる前に、結婚を申し込んだ。きっとまだ男女の好きとか愛とかトリクシーにはわからないだろうから。
お姫様に憧れているトリクシーの中で結婚が一番幸せな出来事なのだ。だからトリクシーの大好きな絵本を真似て、結婚を申し込んだ。
トリクシーは驚いて目を丸くしていたが、僕の言ったことを理解すると嬉しそうに抱き着いてきた。
「うん、大好き! ロイドと結婚する!」
お菓子や綺麗なものと同じ種類の大好きであっても、とても胸が熱くなる。
きっときっと、迎えに来るから。
そんな思いで彼女の小さな体を抱きしめた。柔らかな体からはほのかに花の香りがする。強くなって君を守れるようになる。そんな決意を胸に秘めて、彼女の耳元でもう一度囁いた。
「大好きだよ、トリクシー」
「約束ね。トリクシーをお嫁さんにしてね」
くすくすとお互いに笑いながら、約束する。
「うん。絶対に迎えに来るよ。だからトリクシーも怪我をしないようにおとなしく待っていてね?」
「ええー?」
ちょっと不満そうに唇を尖らせていたが、その小さな唇にちゅっとキスをする。トリクシーが真っ赤になって俯いた。
「約束だよ?」
「うん、約束。待っているわ」
***
「ロイド!」
突然の出来事に、襲撃者の相手をしている護衛達に意識を向けていた僕はトリクシーの声がするまですぐ側の危険を察知していなかった。強い力で突き飛ばされて地面に転がった。鋭い剣先がトリクシーの背を傷つける。トリクシーの小さな体がゆっくりと地面に落ちた。
不思議なほどゆっくりと見えた。音も何も聞こえなくて、ただただゆっくりだった。
背中のドレスが破れ、彼女の白い背中が露になった。白い肌には恐ろしいほど鮮やかな赤い血が溢れ、淡い色のドレスを汚した。
「トリクシー!」
大きな声でトリクシーを呼んだ。もう何もかもわからなくなっていた。ただただトリクシーを助けないと、そんな思いばかりが駆け巡っていた。
「ロイド、きちゃ、だめ」
小さながしっかりとした声で僕の名前を呼ぶ。トリクシーを助けようと立ち上がった。
彼女が僕を庇ったことに怒ったのか、襲撃者が舌打ちをしてトリクシーにとどめを刺そうとした。慌ててその襲撃者を突き飛ばした。身に着けていた短剣を抜き、打ちかかった。不意を突かれたのか、トリクシーを殺そうとしてた襲撃者は殺すことができた。
ほっとしたのも束の間で。
「うっ……」
わき腹が熱くなる。気が付けば、後ろからもう一人襲撃者が現れた。痛みに立っていられず膝をつく。顔をあげれば、襲撃者はもう一度僕の方へと剣を向けていた。
もう駄目だ。
覚悟を決めた。せめてトリクシーの手を握ってあげたい。
そう思って側にいるはずのトリクシーの倒れている場所を探す。息が浅くなるにつれて、苦しくなってきた。もう痛みもよくわからないわき腹に手を当ててトリクシーの方へ手を伸ばした。
「トリクシー」
大好きな女の子。守りたかった。
涙があふれてきた。痛みなのか、悔しさなのか、怒りなのかよくわからない。ただ母上を亡くした時のような悲しみではなかった。
「殿下!」
意識が落ちる寸前に僕を呼ぶ声がした。きんと甲高い音がした。
「頑張ってください。すぐに手当てします」
「トリクシーを、助けて。お願い」
小さな声が届いていたのかわからない。ただ、ただ意識が暗闇に飲まれるまでずっとトリクシーのことだけを思っていた。
***
トリクシーに会いたい。
でも、もう会うことができなかった。
安全だと思われていた場所で襲撃されたことで、城に連れ戻された。徹底的に調べ上げられた。意外なことに襲撃をしたことによって見つからなかったことがたくさん見つかった。
背後関係がわかれば非常に簡単なことだった。母上について一緒にこの国へやってきた侍女が首謀者だった。母上が一番信頼している侍女でもあった。政治的な理由はよくわからないが、簡単に言えば祖国にいる家族を人質にされ、僕の暗殺を請け負ったということだ。単に僕が母の祖国の王位継承権が二位であるということだけでだ。
それと同時に母上の死も今までは病死だとなっていたが、暗殺だと断定された。ただ母上の暗殺も僕の暗殺未遂も公表はされなかった。戦争になるのを回避したのだ。
今後のことを考え、クリフロイドという王子はいなくなった。その代わりに、母上が亡くなった後に側室から王妃になった異母兄上の母が僕の母親になった。名前もアルバートに変わった。体が弱く王領の田舎で療養していたとされた。年齢も本当は10歳だったが、8歳になった。第二王子のクリフロイドは母上と同じ病気にかかったため亡くなり、第三王子のアルバートが生まれた。
「トリクシーは無事? 会いたい」
怪我がよくなり起き上がれるようになると、見舞いに来た人や側仕えに必死に尋ねた。僕と一緒にいたから斬られてしまったのだ。その安否が気になった。彼女はたくさんの血を流していた。あのままにしておいたら死んでしまうほどだ。でも誰も、僕にトリクシーのことを教えてくれない。
この国の王太子も異母兄上に決まった。僕が王太子になると隣国との戦争に発展する恐れがあったからだ。僕は王位などどうでもよかった。異母兄上が引き受けてくれるならそれでよかったのだ。
「これからはわたしがあなたの母になります。仲良くしましょうね」
異母兄上が王太子になったとき、そう言って優しい王妃様は抱きしめてくれた。5つ年の離れた異母兄上も優しい顔で頭を撫でてくれる。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう答えた。本当はトリクシーがどこにいるのか聞きたかった。だけど、それは誰に聞いても曖昧に笑うだけで答えてもらえなかった。
今までは会いたいと訴えていたが、それはもう諦めた。きっとロイド……クリフロイドを知っている人間を側には寄せることができないのだと思う。僕を守るためだけに、嘘で固めているのだ。トリクシーの存在は邪魔でしかない。
きちんと理解していたが、感情はどうにもならなかった。
会いたい。
トリクシーに会いたいと、いつもいつも願っていた。彼女の笑顔が見たかった。
諦められない。諦めたくなかった。
でも周りの大人たちは許してくれない。何度もトリクシーについて聞けば、困ったような悲しい顔で諭され、時間が経つにつれて諦めなくてはと思うようになっていた。
「王妃様。トリクシーは無事?」
せめて無事かどうかだけが知りたかった。王妃様は僕の顔をじっと見つめ少し困った顔をしたが、一つため息を付いて頷いた。
「……ひどい怪我だったけど、命はとりとめたと聞いています」
「そう、よかった」
生きていた。生きていた。
それだけでよかった。もう会うことも、話すこともできないけど、彼女が生きているだけでよかった。涙が溢れてきた。涙を見せたくなくて、俯く。
トリクシー、ごめんね。
迎えにいく約束、守れそうにない。