1-3
掃除用具箱。
よく耳を傾けてみると、確かに声はそこから聞こえているように感じる。
俺は少しビビリながらも立ち上がり、掃除用具箱の前まで行くと、へこみ錆び付いた扉を力いっぱい引いた。
「誰だっ……っておいお前かよジュリア」
中には、灰色のプリーツスカートに黒のカーディガンといった、セレナと同じ学校指定の制服を纏った女子生徒が詰まっていた。
それは、俺と共に一年の頃からこのノープロ部に所属する、ジュリアだった。
泣き顔を見られたくないのだろう、腰まで真っ直ぐと伸びた紫色の髪の毛と己の手で顔面を完全に覆ってしまっていて容姿は窺えないが、間違いない。
「まったくビックリせやがって。ジュリア、お前はそんなところで何してるんだ?」
と言うか、一体いつからそこにいたのだろう。
「か、変わろうと、変わろうと思ったのよ……でも変われなかったの」
嗚咽交じりの優しい声で彼女はそう呟いた。
「いや、お前は随分変わってると思うぞ?」
俺の知っている人物の中で、コイツは間違いなく五本の指に入る程変わった奴だ。
「変われてないわ! ほ、ほら、私って、よく暗いだとかマイナス思考だとか言われるじゃない? だから変わろうと思ったの」
「それは分かったけど、それでどうしてそんなことになってるんだ?」
「この中に隠れてて、皆が来たらワッて驚かせようと思ったのよ」
なるほど。普段のジュリアなら絶対にしないような目立つ行いだ。
しかしとなると、コイツは俺達がこの部屋に来る前から今の今まで、こんな狭いところでスタンバイしていたわけか。
「じゃあ何で出てこなかったんだよ」
「だ、だって今日部の出席人数が少ないじゃない? どうせなら人が多いときにしたいなって。だから集まるまでもう少し待っていようって」
ぞじだら゛ぁぁぁぁ、とジュリアは再び泣き始める。
「出て行くタイミングを失ってしまって。更にどうしようかって悩んでたら、あんご君部活終わろうとしてるじゃない……」
それでまとめに入ろうとした途端、泣き出したわけか。
何ともジュリアらしい話である。
「やっぱり慣れないことはするもんじゃないわね。もう変わろうとするのはやめるわ」
「まあそう落ち込むなよジュリア。もっと前向きに行こう前向きに」
ワッとはできなかったかもしれないが、結果的に俺は驚かされたわけだし。
「じゃ、じゃあ今日ワッってできなかったことは別に構わない、むしろできなくてよかったと思うことにするわ」
「おう、そうしろそうしろ」
「だって私なんかがそんなことをしたら、余計に嫌われていたかもしれないもの。現状維持は達成できたのよ」
ん、何だ? 前向きな話かと思ったら、一転よく分からなくなってきたぞ。
これは前向きなのか? 後ろ向きなのか?
「あのさあジュリア、お前は自分が思ってるほど、周りに嫌われてはいないと思うぞ?」
いや断言できる、彼女は別に周りに嫌われてはいない。
「いいえ嫌われているのよ。この世界の意思でさえ、私を嫌っているわ」
「はぁ? そんなわけないだろう」
俺がそう言うと、彼女は必死に抗議の声を上げる。
「だ、だって私が芝生の上に座ろうとすると、いつも大地は激怒して私のお尻をビショビショにしてくるもの」
「これからは濡れてないかちゃんと確認してから座れ?」
「それに。私には反撃のできない遥か上空から、水を降りかけてくることもよくあるわ」
「盾を使え? 傘という名の盾をな?」
「あと、あと、毎朝カーテンを開けると、私の目に光攻撃を仕掛けてきたり」
「落ち着こう? まずは電気をつけよう?」
「ホント、私って嫌われてるわ……」
ホント、とことんネガティブ思考だなコイツは……。
「こんにちはジュリア先輩」
いつまでも出てこないジュリアを見かねたのか、セレナがフワフワと宙を泳いで俺達の傍へとやってきた。
「あらセレナちゃん、こんにちは」
「いつまでそんなところに入ってるんですか? そろそろ出てこられてはどうでしょう」
「そ、そうね、ごめんなさい」
後輩に促され、ジュリアはようやく詰まっていた体を外へと出した。
無理矢理詰め込んでいたせいだろう、体のあちこちには、何かに圧迫されたような痕がたくさん付いていた。
とは言えしかし、彼女は別に太っていたりするわけではない。
控えめに見ても、とても良いスタイルをしていると言えよう。
出るところはきちんと出て、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる。
だがそれでも彼女は掃除用具箱の中に詰まっていた。なぜか。
それは掃除用具箱が小さかったから、ではもちろんなく、彼女の体の全長が、約五メートルもあるからに他ならない。
「相変わらず大蛇さんですね、ジュリア先輩は」
感心したようにセレナが言う。
ジュリア。彼女もまた、魔界から人間界へとやってきた亜人の一人なのだ。
種族としては、メリュジーヌ。
その特徴は言うまでもなく、下半身にある。
湿り気を帯びているかのような光沢。隙間なく敷き詰められた紫色の鱗。
ジュリアの下半身は、蛇そのものだ。
更に背中からは、コウモリのものに酷似した翼がはえている。
「ちょ、ちょっとセレナちゃん、そんなに見ないで。恥ずかしいわ」
人間界に残る神話には、メリュジーヌは週に一度だけ下半身が蛇に変身してしまう呪いがかけられた種族だと書かれている。
そしてその姿を他人に見られると、一生蛇の姿のままになってしまうのだとか。
だから変身してしまうその日には、恋人にさえ己の姿を見せなかったと。
しかしそれもセレナのときと同様人間側がでっち上げた空想で、実際にはメリュジーヌは生まれたときから蛇の姿だそうだ。
ただ己の姿を見せないという部分は、あながち間違いではない。
ジュリア達メリュジーヌは基本的にシャイで、目立つのを嫌う。
「おっぱいも大きいですし。羨ましいです。どうすればそんなに大きくなるんですか?」
「分からないわ、私だってなりたくてなったんじゃないもの。ホント、気は小さいのに体ばかり大きくなって。ああ恥ずかしい……」
穴があったら入りたい、とジュリアは手で顔を覆い俯く。
しかしこれ以上どこかに隠れられてはたまったもんじゃない、部活をしてもらわないと。
「ジュリア。入るなら穴じゃなくてシンキングタイムに入ってくれ。分かってると思うけど、ここに来たからには部活をしてもらうぞ」
「え、ええ、もちろんそのつもりよ。私が役に立つとは思えないけど」
「大丈夫だって、心配するな」
この部活に役に立つ部員など、俺も含め一人もいないのだから。
「それで、早速今回の相談なんだけど――」
俺は近くにあった席へと適当に腰を下ろし、アルラウネから届いたメールの内容を、花粉症の情報と合わせて説明をした。
「そう、花粉が勝手に……ただ生きているだけで他人に迷惑をかけてしまうだなんて大変ね。こ、こんなことを言ったらアルラウネさん達に失礼だけど、まるで私みたいだわ」
「ま、人間生きてりゃ他人に迷惑くらいかけるさ」
ただだからと言って、かけっぱなしでいいというわけでは決してない。
迷惑をかけずに済むならば、それに越したことはないのだ。
「と言うわけで、『どうすれば花粉で迷惑をかけなくて済むか』考えてみてくれ」
ちなみに、と俺は条件を付け加える。
「命を絶つ系の案はなしな」
「ええ、そうなの!? 花粉が飛んでしまうのがダメなら、もう自分が飛んでしまうしかないって考えてたのに」
「飛んでしまうって、高いところからだろ?」
「そうよ。もしくは線路へでも可」
「不可だよ!」
ジュリアなら十中八九そんなことを言い出すと思った。
先手を打っておいて正解だ。
「そ、そうよね。こんな案は不可よね。ごめんなさいごめんなさい……」
「お前も飛ぶなよ?」
一つ案を却下されただけで、心配になるほどの落ち込みようだ。
「大丈夫よ。私は飛ぶことさえ許されていないから……」
「そう言えばお前、飛べないんだったな」
彼女は背中に羽を持ちながらも、空を飛ぶことができないらしい。
体に比べて随分小さな羽なのでそれも当然と言えば当然なのかもしれないが、ただ小さいどころか羽自体持たないセレナが横でスイスイ飛んでいるのを見ると、少し不憫だ。
「ホントに恥ずかしいわ。どうすれば飛べるのかしら、どれだけ練習しても無理なのよ」
言って、ジュリアは両手を大きく広げ上下に必死に振り始めた。
「いやいや、何やってんの? ジュリア」
「え、飛ぼうとしてるのよ? 全然飛べてないけど」
「そりゃ飛べないだろ……」
「そうよね、私なんかに飛ぶ、なんて大それたことができるわけないわよね。私にできるのは、せいぜいドブにはまるくらいよ」
それもそれで結構難しいことだけどね?
「そうじゃなくて、飛びたければ手じゃなくて羽を使えよ」
「金? そうなのね、やっぱり世の中お金なのね。さて、いくら払いましょう」
「さてじゃねえ、いくら払ったって飛べないから」
そんなゲームじゃあるまいし。課金したって飛べるようにはならない。
「金じゃなくて羽だよジュリア。翼、お前の背中に付いてるだろ?」
「そう言えば。えっと、これを動かせば飛べるのかしら」
「断言はしないけど。それでも手を動かすよりは確率は高いと思うぞ?」
「そうなのね。練習してみるわ。教えてくれてありがとうあんごくん」
いや、どうして他人の悩みを解決してもらう話し合いの場で自分の悩みを解決してもらってるんだよ。マジでしっかりしてくれよ。
「あのさジュリア、アルラウネの悩みの解決法を考えて欲しいんだけど?」
「そ、そうだったわね。えっと……あの虫、何と言ったかしら」
とりあえず自身の悩み事の解決が見えたからか、落ち着いて考え始めるジュリア。
「あ、蜂だわ。蜂さんを飼えばいいんじゃないかしら」
「はいはい、じゃあ次ぎの案を――」
「ちょ、ちょっと無視しないで! 虫だからって無視しないで!」
「虫だから無視したわけじゃないよ?」
わけの分からない案だから無視したんだよ?
他人を勝手にスリップ事故に巻き込まないで欲しいよ?
「せ、説明だけでもさせてもらえないかしら」
「うーん……まあそうだな、分かったよ」
話を一切聞かずに突っぱねるのもよくないか。もしかしたら有用な案かもしれないし。
「ありがとう。もう一度きちんと言うわ。たくさんの蜂さんをね、体表で飼うの」
もう一度きちんと聞いても意味が分からない。
なぜそんな想像しただけでも鳥肌が立つようなことをするんだ。
「だって蜂さんって花粉を集めるんでしょう? だからアルラウネさんの花粉も、飛ぶ前に集めてもらうの。そうしたら周りに迷惑をかけずに済むわ」
「理屈は分からないこともないけど、アルラウネに体を張らせすぎだろ」
「他人に迷惑をかけたくないのなら、多少の我慢はしなくちゃ。私だって大きな体が邪魔にならないよう、教室では痛いと思うくらいにぎゅっと身を縮めてるもの」
まあこれも、ジュリアらしい案と言えばジュリアらしい案なのか。
しかしもちろん却下を言い渡した。
「考えてもみろ、それで花粉による被害がなくなったとしても、次は蜂に対する問題が出てくるだろう?」
蜂がおとなしく言うことを聞いて、アルラウネの体表に留まるわけがないのだ。
当然好き勝手飛び回る。
そうなってはセレナの案同様、学校中が騒然となってしまう。
「そっか、蜂さんは飛べるものね。私自身飛べないから、そこまで気が回らなかったわ」
いや、飛べない、羽すらない俺が気付いているのだが……。
「一体どうすれば蜂さんを大人しくさせられるのかしら」
「いやそんなことは考えなくていいと思うけど……」
どうしたってそれは不可能だし。そもそもその案は却下だ。
「ダ、ダメよ、アルラウネさん達のためにもきちんと考えないと」
でもどうしましょう、困ったわ。頬に手を当て呟くジュリア。
そんな彼女の呟きを待っていたかのごとく――
「おーっほっほっほっほっほっほ! お困りのようですわねジュリアさん!」
突如として高らかな笑い声が耳へと飛び込んできた。