決意
いつもと変わらない平穏。
あれ以来、私たちの生活にこれといって変化があったわけではないが、突発的に不安定になりがちだった私の精神は、今はだいぶ落ち着いていた。
自分という存在を、心が受け入れた――そう、誰かに認めてほしいと願いながら誰よりも自分を認められなかったのは、ほかならぬ私自身だったのだ。
だから自分を愛することができるようになった今、私の心は安らかだった。母や、父……そして一族のものへのわだかまりさえ、日に日に薄らいでいくのを感じる。
血の匂いに対する過剰反応もしなくなった。
胸のふくらみを隠すのもやめた。
私は私でいい――そう、確かに認めてくれる人がそばにいるから、他の全てを失っても、私は私でいられると思った。
二年後の秋。
ダルフェイはもうすっかり大人になり、背も私よりずっと高くなった。
もう、私などそばにいなくても、立派に一人で生きていくことができるだろう。
このへんで別れるべきなのかもしれないと、何度も考えた。
異種の血が混じっているとはいえ、ダルフェイの外見に、それは余り顕著ではない。わずかに盛り上がったこぶのような角は柔らかな髪に隠れているし、犬歯もやや鋭いものの、目立って見えるほどでもなかった。
立派な、逞しい青年。
特別美貌ではなくとも、洗練された肉体がじゅうぶん彼を魅力的な男に見せるだろう。
彼の優しい性格は、きっと誰にでも受け入れられる。
知り合うきっかけさえあれば、素敵な女性を妻にすることもできるかもしれない。
だが、自分に向けられる無邪気で優しい笑顔を見るたびに、私は別れを切り出すことが出来なくなった。
完全に両性体であることを受け入れた時、しかし、同時に私はどちらの性にも自分の視点を置くことが出来なくなっていた。
以前は男であることを望んでいたから、自分は両性体であってもより男に近いのだと信じていた。
だから自分にある女性の部分を感じだとき、心と体のバランスが取れなくなって、ヒステリーを起こしたりしたのだ。
だが、今では自分が女であるということも、男であるということと同じように受け入れられる。
私は、一人で生きていくべきなのかもしれない。
きっとあらかじめ一人で生きるべくこの体を授かったのだから。
しかし、ダルフェイには伴侶となる者が必要だ。
どうすればよいのか、わからなかった。
自分の体をながめてみても、答えは何1つ見つからない。
頼りない肩。ささやかではあるが確かに隆起した胸。しかし、少年のように細い腰に女性のように発達した骨盤は無い。
私はバルコニーにでて、秋の湖をながめていた。
森の紅葉を水面に映し、静かに水をたたえるサルマキスは、悲しいほどに美しい。
水面は風を受けて静かな波紋を広げ、赤い枯れ葉がゆっくりと揺られながら湖岸に辿りつく。
たとえようも無く幻想的なその風景の一部に……いつか私は生まれ変わりたいと思った。
「ラルム!」
突然あわただしい足音とともに、ダルフェイが家の中に駆け込んできた。
彼は今朝から、一人で森に出ていたのだ。
いつものおとなしい彼とは明らかに異なった、血相を変えたその様子に、私はすぐに何か異常事態が発生したことを悟った。
「どうした?」
ずいぶんと息を切らせているところを見ると、相当慌てて戻ってきたらしい。
「何があったのだ」
「大変だ。あの道……君と初めて会ったあの道を、モンスターの群が歩いてた。多分……オーガの率いてる群だと思う」
ダルフェイは、直接自分の片親にあたる一族に会ったことはない。
だが、それでも見間違いはしないだろう。
オーガの率いる群が、あの道を歩いている……それが意味することは2つ。
「どちらへ向かっていたのだ」
「僕の、村があった方に向かってると思う」
では、奴らは再び、あの村を襲いに行くつもりなのだ。
ダルフェイの故郷に……かつて私が見捨て、彼を生み出したその村に。
「助けに行かないと!」
ダルフェイの叫びに、私は少し動揺した。
「助けに……? 村をか?」
「そうだよ」
「お前を捨てた村だぞ」
「でも、あの村には父さんがいる!」
一瞬、彼が何を言ったのか、私にはわからなかった。
彼のいう父とは、まだ何もわからない幼子だったこの子を、森に追放した張本人ではないか。
しかも、彼とは血のつながりは一切無い。
血の繋がりがあるとすれば、今その村を襲おうという群の首領こそが、彼の命の親なのだ。
「僕は父さんを助けに行く」
「ばかな……何をいっているんだ。人間のほうから見れば、お前だって……」
お前だって、村を襲いにくるモンスターの仲間にしか見てもらえない。
言いかけた言葉を、私は慌てて飲み込んだ。
思考が混乱する。
言葉を失っていると、ダルフェイはふと穏やかに微笑んだ。
「たとえ村人がどう思おうと、僕は助けに行くよ」
「……」
「危ないから、ラルムはここで待っていて。ちゃんと帰ってくるから心配しないでと、伝えておきたかっただけなんだ」
ダルフェイは、そう言って身をひるがえした。
あまりにも真っ直ぐで……迷うことの無いその強さは、一見愚かしくさえあった。
冷たい秋の風が、二人の間を吹き抜ける。
急激な孤独感に、私は思わず叫んだ。
「待て!」
その声に、ダルフェイは足を止めた。
だが、振り返らない。彼は、これから戦場へ赴くのだ。ほんの数年間、自分を育ててくれた血の繋がらぬ父を救いに……本当の父であるオーガを殺しに行こうというのだ。
村を助けに行く――。
そう結論付けるまでの彼の葛藤は一体どんなものだっただろう。
たとえ命がけで救っても、また拒絶されるだけかも知れないその村をまもると決めた、その決意をいまさら私に揺るがせられるはずがなかった。
「待て、ダルフェイ。私も行く」
その言葉に、ダルフェイは驚きと喜びを同時に浮かべたような表情で振り返った。
「ラルム……」
「私が一緒なら、お前がモンスターの仲間に間違えられる心配はない。エルフと行動をともにするオーガなど、前代未聞だからな。もっとも……この私が普通のエルフに見えるかどうかははなはだ疑問だが」
灰色の髪をしたエルフなんて、一歩間違えたら妖魔にしか見えない。
そう言って苦笑すると、ダルフェイはどこか嬉しそうに笑って頷いた。
「ラルムなら、きっと村を助けに行くと言ってくれる……そう信じてたよ」
「100人力とはいわないが、多少の役には立てるだろう」
こうして、私たちはようやく他者の待つ世界へと再び飛び出していった。
待ち受けているのは、幸福か、不幸か――。
いずれにしても、二人一緒に受ける運命ならば、今ここで離れ離れになってしまうよりも、ずっとましなような気がした。