温かな腕
「――……?」
目が覚めても、私には一瞬そこが何処なのかがわからなかった。
私は、一体……?
混乱する意識の中、記憶を手繰ろうと幾度か瞬きをした時、私は、自分がひどく泣いていたことに気づいた。
目の前にある指が、何かをぎゅっと握り締めている。
「……」
そして私は全てを思い出した。
目の前にあるのは、ダルフェイの胸。
彼の服の胸元を、私は引き裂いてしまいそうなほど強く握り締めていたのだ。
慌てて手を離そうとしたが、相当に力が入っていたのか、すっかり白くなった指先はいうことをきこうとしない。
だが、自分を抱きしめる温かな腕……その感覚が恐ろしくて、私は身を捩って必死にそこから逃れようとした。
それに気づいたのか、ダルフェイはあっさりと自分から腕を解いてくれた。
「あ……ごめんね。その……ひどく、うなされていたから……」
「……」
「ラル……」
「……いいんだ。ありがとう」
別に、不快ではなかった。
まどろみの中では、私はむしろ安らぎさえ感じていた。
私を悪夢から救い出してくれたあの優しい温もりは、ダルフェイの腕だったのだ。だが……夢から冷めたとたん、私の心はそれらの一切を否定し、拒絶してしまう。
しかしそれは自らへの嫌悪であって……決して、ダルフェイのせいではないのだ。
ふと視線を下ろし、体にタオルが巻かれているのを見て、苦笑する。
それをどうとったのか、ダルフェイはすまなそうに俯いて言った。
「具合が悪いと言っていたから……君の部屋に行く前に、狩りでついた血の匂いを、落としておかなきゃと思ったんだ。その……君が入ってると気がつかなくて」
幼い頃はほとんどまともにしゃべれなかった彼も、今では、人並みに言葉を操ることができるようになった。
もうすぐ、背丈も追い抜かれるに違いない。
彼が大人になった時、私はこの未熟な精神のバランスを保ちつづけることができるのだろうか。
私が黙っていると、ダルフェイは戸惑いながら、続けて言った。
「あの……その、ラルムは……女の人なの?」
予期していた問いに、それでも私は一瞬体を強張らせずにはいられなかった。
何故だかまた涙がこぼれ落ちそうになり、私は慌てて顔をそむける。
できれば、誰にも知られたくなかった事実。
それがたとえダルフェイであっても……打ち明けるのは恐ろしかった。
自分を落ち着かせるために大きく息を吐き、声が震えてしまわないように腹に力を込めた。
「違う。……だが、男でもない」
そう……それこそが、私の最大のコンプレックス。
人間でもなく、エルフでもなく……男でも女でもない、このおぞましい身体。
普段はきつくさらしを巻いているこの胸には両の乳房があり、下半身には男女両性の生殖器を持っている。
真性半陰陽――。
それが、私に与えられた性だった。
子供の頃は男の子にしか見えなかった体も、成長するにつれて徐々にありえないはずの変化を見せていった。その時の不安、恐怖……そんなものを、ダルフェイに理解しろといっても無理だろう。
絶対に知られたくなかった秘密。
永遠に気づかずにいたかった、自分自身の真実。
しかし、全てをあばかれてしまった今、私の心は意外にも平静だった。
空虚にも似たこの感情を……人は、安堵と呼ぶのかもしれない。
「以前、サルマキスの話をしただろう?」
黙ってしまったダルフェイに、私はそう切り出した。
「あれには、こんな神話があるのだよ」
それは、遠い異国の古い物語だった。
美の女神の息子である美しき青年ヘルマプロディトスが、森で狩りをしていた時の出来事。
彼は大変爽やかで美しい泉を見つけたので、水浴をしようと近づいた。
泉の妖精サルマキスは、その美貌の青年を見て、一目で恋に落ちた。
サルマキスは彼に愛を告げたが、ヘルマプロディトスはそれを拒絶した。
傷つけられたサルマキスは、彼を抱きしめ水中に引き込むと、神々に向けてこう祈った。
『私から彼を、彼から私を、何者も引き離すことの出来ないようにしてください――』
その願いが聞き入れられた瞬間、二人の体は完全に融合し一体となり、ヘルマプロディトスは両性具有者となった。
彼の姿は男女どちらでもないようであり、またどちらでもあるように見えた。
自らの体に起こった変化を嘆き呪ったヘルマプロディトスは、神に祈った。
『この泉で水浴する、すべての男が私と同じになりますように』
こうしてサルマキスの泉は、そこに入った男性を両性具有者とする力を持った。
「――私はヘルマプロディトス。だから、あの湖をサルマキスと名付けたのだ。もちろん、あれは神話のサルマキスではない。私が両性具有なのは、生まれつきだからな」
「……」
「私は、男性と女性の機能を、完璧に両方備えている。だが……完全にどちらでもあるということは、完全にどちらでもないのと同じことなのだ。これほど不完全な存在が……はたして他にあるだろうか?」
性を1つしか持たないものたちにとって、私はしょせん好奇の対象にしかならない。
私は誰にとっても異性であり、また誰にとっても同性だった。
古の神話では、人は元々二人で1つの体を有しており、その組み合わせは男と女、女と女、男と男の3種だったという。
だが、あるとき神は人を2つに分断し、それ以降人は互いに1つになるべき半身を求め、恋をするようになったのだ。
その神話を信じるならば、1つの体に両性を有している私は、すでに二人であるのと同じだ。
他人を愛することも、愛されることも、私には赦されない。
私は……孤独に生きるべく、運命められた存在なのだ。
「気味が悪いだろう?」
自嘲に、くちびるの端が歪む。
ダルフェイは激しく首を横に振ってくれたが、私にはそれを素直に受け止めることは出来なかった。
「後から知ったことだが、ハーフエルフには性的な障害を持って産まれるものが多いのだそうだ。多くのものは生殖能力を持たないそうだが……それに比べたら、私はずいぶんマシなほうだと、きっとみんなは思うだろうな。私には、女性の生理も男性の生理も、どちらもあるのだから。もっとも、本当に子が作れるのかどうかはわからないが」
ずっと男だと信じていた体が、徐々に自分を裏切っていく。
頼る人もなく、誰にも相談することも出来ず……変わりゆく自らの身体の異常に怯えつづけた日々。
隠し通そうとしても、隠しきれるものではなかった。
向けられる、好奇の眼差し。
ただでさえ少なかった私の居場所を、この身体は完全に奪った。
苛められることには慣れていた。
だが、屈辱には耐えられなかった。
悪夢のような――記憶。
自らの身体を意識するたびに、思い出さずにはいられない……忌まわしい過去。
「何故なんだ?」
知らず知らずのうちに震えだしていた体を、私は両手で抱きしめていた。
「わ……私は、女じゃ……な、い……!」
だが男でもないと、誰かが笑った。
誰も守ってはくれなかった。
だから、逃げ出すより他になかった。
単なる異端者への虐待が、性的な好奇へと変わるのを、どうして私に防ぐことができただろう。
甦る恐怖と絶望の記憶に、震えが止まらない。
いくら涙を流しても洗い流すことの出来ない過去に、怯えつづけることしかできない自分がひどく嫌になった。
私は一体――なんなのだろう。
何の為に産まれて……何故、いまだに生きているのだろう。
そうだ、私には何の価値もないのに。
何故、今まで――私はここにいたのだろう?
「ラルム」
温かい指が、頬に触れた。
「大丈夫?」
心底心配そうな色をした瞳が、じっと私を見つめていた。
「ダル……」
「怖いことがあったんだね。僕には……君がどうしてそんなに苦しんでいるのか、よく、わからないけれど……」
「……」
「でも、僕にとってラルムはラルムだよ。君がエルフなのか、人間なのか、どっちなのかわからないのと……君が男なのか女なのかわからないのと、一体どんな差があるの? 僕には良くわからない。でも、君はそれがとても苦しいんだね。それなのに……僕、わかってあげられなくて、ごめんね」
「……え?」
「難しいことはわからないけど、僕は、ラルムがラルムなら、それでいいんだ」
そう言って、ダルフェイは少し照れくさそうに、場違いなほど明るい笑みを浮かべた。
何の疑いもなくガラス玉を宝石と信じて宝物にしているような……そんな無邪気で、屈託のない――強さ。
無粋な計算など出来ないものの言葉だからこそ、素直に心に響いたのかもしれない。
愚かしいくらいに純粋な――優しさ。
現実から目をそらし、前を見ようとしなかった私は、母と同じ過ちを犯していたのだろうか。
このままでも、私は私……。
それが1つの完成であると、何故、今まで気がつかなかったのだろう。
ダルフェイの笑顔は、まるで天使のように美しく見えた。
オーガの血の混じった……お世辞にも綺麗とはいえない顔立ちであるのに。
彼は美しい。
私よりも、千倍も万倍も――彼は完成された美を持っていた。
ダルフェイは言った。
「僕は、人間とオーガの子供だけど、どうしてそれがいけないのか良くわからなかった。ただ、僕がいると父さんが悲しくて、だから、僕も悲しかった。でも、ラルムに会えて……一緒にいてくれたでしょ? だから、僕はこのままでよかった。僕が他の何かにならなくたって、ラルムは一緒にいてくれる。だったら……他に望むことなんて、僕には何も思いつかなかったもの」
「……」
「僕は、あの湖に入ったら、ラルムがいなくなっちゃうんだと思ってた」
大事なものを失うと言ったから――。
そう言って、ダルフェイは少し悲しそうな顔をした。
「ラルムは僕の願いを叶えてくれた。ずっと、一緒にいてくれた。それなのに、僕は君の願いを……何も叶えてあげられない」
「……」
「ラルムの願いを、叶えてあげられなくてごめんね」
「ダル……」
「知られたくなかったこと……知っちゃってごめんね」
今にも泣き出してしまいそうなその顔を見て、私はようやく微笑むことができた。
「……大丈夫だ、何もお前が泣くことはない」
体は大きくなったけれど、中身はまだまだ幼い……ダルフェイ。
しかし、その純真で清らかな心の強さに、私は魂を救われた気がした。
「私がバカだったのだ……。お前は、何も悪くなど無い」
「ラルム……」
「心配をかけてすまなかった。私はもう……大丈夫だ」
たった一人でもいい、誰かに認めて欲しかった。
誰かに必要とされたかった。
私という存在がここにあるということを……誰かに、わかって欲しかった。
「もし、私の願いを聞いてくれるなら……ダルフェイ、これからもずっと、傍にいてくれ」
私はそう言って、ダルフェイの胸に顔を寄せた。
広く……温かいその胸。
たくましい腕が、しかし、不思議なくらいに繊細に、優しく私の肩に触れ……そのまま、そっと抱きしめられた。
自分でも良くわからないのに、涙があとからあとから溢れて止まらない。
嗚咽に震える体を抱きしめる腕の力強さが心地よかった。
自らの持つ性を否定し、頑なに男でありたいと願った――もしかしたら、それこそが私の中の女性の部分だったのかもしれない。
その日の眠りは、今まで生きてきた中で一番安らかだった。
一切の夢を見ることも無く、ただ平凡な安堵と平穏に包まれて……。
私はようやく、自分を愛することができるような気がした。