サルマキス
一週間ほど経過し、体調を取り戻した私は、ダルフェイを誘って湖のほとりを散歩することにした。
霧の晴れた湖は何処までも澄んでいて、魚が泳ぐ姿も、水の深いところの小石や砂さえも見ることができる。
太陽を無数に反射して煌めくさまは、真昼の星空のようであった。
「この間はすまなかったな」
そう切り出すと、ダルフェイは黙って首を横に振った。
「お前は何も悪くないのだ。ただ……私がああなった時は、何も構わないようにしてくれ」
ダルフェイは返事もしなかったし頷きもしなかったが、私はそれを強要したりはしなかった。
「綺麗な湖だろう?」
私の問いに、小さく頷くダルフェイ。
「……なまえ、なんていうの?」
「名前など無い。これは、ただの湖だ。だが――もし私が名付けるとしたら……」
遠い異国の、古の物語のように。
「〝サルマキス〟と名付けるだろう。意味は――」
そう、意味は……。
「……もしこの湖が伝説のサルマキスの泉ならば、お前は水に入らないほうがいいぞ」
口調に自嘲が混じったのに気づいたのか、ダルフェイが困惑したような視線で私を見上げた。
この子は、頭は良くないが人の心にはひどく敏感だ。
繊細な……心優しい子供。
「この湖が本当にサルマキスなら……お前は、大事なものを失うことになるだろう」
美しい……古の、サルマキス。
呪いをかけたのは、私だ。
「帰るぞ」
怯えたように湖を見つめていた目が、はっと私を振り返る。
ぎゅっと腕にしがみついてくる、小さな体。
あの伝説を作り上げたのは、深い泉に愛しい息子がさらわれないようにと心配した、古代の親たちだったのかもしれない。
胡桃色の髪をなで、私はダルフェイを抱き上げた。
この小さな存在に癒されている。
そう、確かに感じながら。
■サルマキスの泉
ギリシア神話の中にでてくる、泉に棲む妖精の名前。
泉を訪れた美しい青年ヘルマプロディトスに焦がれるあまり、彼と融合する。
以来、泉にはヘルマプロディトスの呪いがかけられた。