微睡み
ダルフェイは口数の少ない、おとなしい子供だった。
いや、上手くしゃべれない……といった方が正確かもしれない。
オーガの血が邪魔をして、知能の発達は普通の人間の子供よりもやや遅れている。
言葉はいつも片言で、文として未熟だった。
しかし私にとってはうるさく話かけられるよりそのほうがずっとマシだったし、無理に言葉を教えようとも思わなかった。いずれは遅れも取り戻し、普通にしゃべれるようにもなるだろう。その時が来るまで、別にあせる必要はないと思った。
ベッドに寝そべって本を読んでいると、彼のやってくる気配がした。
「ラ……」
「なんだ」
いつも、名を呼ばれる前にこたえてしまう私。それでは彼のためにならないと、頭では分かっていても矛盾した行動をとってしまう気の短さに、自分でもイライラする。話しかけようと努力しているのに、私がぶっきらぼうな態度をとってしまっては、ますます萎縮して話しかけにくくなってしまうであろうことは、よくわかっているはずなのに……。
「腹が減ったのか?」
案の定だまってしまったダルフェイに、私はしかたなく声をかけた。
ダルフェイは、まだ入り口でモジモジしている。
「何か食べたいものがあるなら言え」
そう言ってみるが、ダルフェイは首を左右に振った。
「……では、何なのだ」
彼に対して苛立っているわけではないのに、きつい口調になってしまう自分に、いつも嫌悪を感じる。そしてその嫌悪感が声に篭ってしまうことに、また苛立たずにいられない。まったく、どうして、私はいつもこうなのだろう。
これ以上何か言ってもかえって事態を悪化させるような気がして、私は黙ってダルフェイが口を開くのを待つことにした。
ダルフェイはしばらく何かを言いかけては言葉を飲み込んでしまうのを繰り返していたが、やがて決心したのか、
「あ……あの、ここに、いてもいい?」
と言った。
「……」
問いの意味がよくわからずに黙っていると、次第にダルフェイの表情が曇っていく。
「この部屋にいたいということか?」
私の問いに、ダルフェイは不安げにコクリと頷いた。
「そこに立ってるだけでいいのか?」
まだ入り口でモジモジしている小さな姿。
「こっちへ来てもいいんだぞ」
そう言って苦笑すると、ダルフェイは本当に嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
おそらく、人の側にいるということに慣れていないのだ。
私に向けられる眼差しは、期待と信頼に満ちている。
何も期待するなといったはずだったが、初めて同類を見つけたこの幼い子供に、あまり冷たくあたるのは気が引けた。
誰でもよかった。
手を差し伸べてくれる相手がいるなら……それがたとえ親ではなくても、私はその腕の中に飛び込んだだろう。
そして――この少年は、私に出逢ったのだ。
ダルフェイの生立ちは、おおよそ私が想像したとおりだった。
彼は、数年前のあの日目撃したオーガの率いる一団が襲撃した村で生まれた子供だった。
母親は、結婚したばかりの若い娘。
村でも評判の美人だったその女はオーガの目に留まり、そして不幸な子を孕んだ。いっそそのまま殺されてしまった方が幸せだったかもしれない。しかしそうしてダルフェイが生まれ、哀れな女は呪われた血を引く息子を残し死んだのだった。
彼女の夫がダルフェイを育てようとしたのは、妻への未練か……憐れみか。
たとえほんの数年間とはいえ、自分の血を引いていない……それどころか忌まわしくもモンスターとの交わりによって生まれた子を、手元において育てたというその男は、ある意味立派だったというべきだろう。たとえ自分の血は引いていなくても、愛する妻の血を引くこの幼子を、一度は自分の手で守ろうとしたのだから。
しかし妻との思い出が過去へと移ろい行く中で、彼にとってダルフェイの存在は憎しみ以外の何も生まなくなった。
わずらわしい……というよりも、見ていられなかったのかもしれない。
彼の周りで、少しずつ思い出へと昇華されていく忌まわしい出来事。しかしその象徴とも言うべき存在が目の前にある限り、彼は過去の呪縛から逃れられないのだ。
父に捨てられたのだと、ダルフェイは言った。
だからもう帰る場所が無いのだと。
しかし、たとえ憎しみしかなかったとしても、親にその存在を省みてもらうことのできたダルフェイを私は羨ましく思わずにはいられない。
私に名をつけたのは、親ではなかった。
泣き暮らす母を見て、エルフたちが囁きあっていた涙という言葉が、いつの間にかそのまま私の名として定着したのに過ぎない。
だが、ダルフェイは違った。
彼の名をつけたのは母親だという。
その言葉の意味はわからないが、それが彼女の遺言だったそうだ。
ダルフェイをみて、私は思う。
母とは……父とは、どんなものなのだろう、と。
「こっちにおいで」
私の呼びかけに、モジモジと遠慮がちに……恥ずかしそうにしながら、側に来る小さな子供。
最初は緊張したようにベッドの隅に乗っていたが、やがて少しずつ、甘えたように擦り寄ってくる体。
子供にとっては退屈だったかもしれない本を読み聞かせているうちに、ダルフェイは眠ってしまったらしい。
起き上がろうとして、小さな手が私の服の端をつかんでいることに気が付いた。
「……」
仕方が無いので、私も少し昼寝することにした。
ダルフェイを起こさないように気を使いながら、たたまれたままの薄い毛布を足でたぐり寄せる。
安心しきったように眠る小さな体を抱き寄せ、目を閉じた。
まどろみ行く意識の中で、私は何故か遠い日に読んだおとぎ話を、必死に思い出そうとしていた。
***
鼻につく、血の匂い……私の中の不浄。
吐き気が止まらない――アタマガイタイ。
その日、未だに慣れることの出来ない眩暈に気を失うようにして倒れこんでしまった私を、ダルフェイはひどく心配した。
「そばに寄らないでくれ」
私はベッドの中から、相変わらず戸口でモジモジしている少年にそう告げた。
「何でもない、心配することは何も無いのだ。だから、あっちへ行ってくれ」
だが、そう言ってもダルフェイはまだ躊躇しているようだった。
イライラする。
ダルフェイのうろたえた様子も、オドオドした態度も、普段はさほど気にならなくても、今はひどく不快でたまらない。そうやってダルフェイのことを気にしていなければならないこと自体、今の私には億劫なのだ。
誰にも会いたくない。
誰にも、今の私を見られたくない。
誰にも触れられたくない。
いっそ、この世から自分を消してしまいたい……。
「あっちへ行けといっているだろう! この部屋に入るな! 私に構わないでくれ!!」
たまらずに、私はそばにあった花瓶を床に投げつけた。
それに驚いて、ダルフェイはどこかに走り去ってしまった。
苛立ちの中に、ふとこれまでとは違った感情があるのに気づき、私は今まで以上に自分を嫌悪せずにいられなかった。
あんな小さな子供に……私は何を嫉妬するのか。
惨めだ。
ダルフェイを拾って……同じ苦しみを抱えるあの子を、私は私なりに愛しく思っていた。
だが、同じ異類婚によって生まれた存在ではあっても、ダルフェイと私では、ある一点であまりにも異なっている。
不完全で不自然な私のこの苦しみを……あの子が味わうことは決してない。
あの子は完全で自然であり、私のような生き物ではないのだ。
そう、何も変わってなどいない。
私は一人だ。
今までも……これからもずっと。
寒い……。
凍えてしまいそうだ。
自らの体を抱えるようにして、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
食事の準備をしなければと、けだるい体を起こして、私はあることに気づいた。
床に叩きつられ、粉々に砕けたはずの花瓶はもうそこに無く、代わりに小さなガラスのコップに、バラバラに散らばったはずの花が生けてあった。
ダルフェイの姿は、見えない。
「……」
冷静さを取り戻したとたん、情けない気分になる。
あの子はきっとひどく心配しているだろう。
そばに行ってやらなくてはならない。と、思った。