嵐の後
森はしばらく、嵐の中にあった。
強い風が木々を翻弄し、激しく打ちつける雨のせいで外は何も見えない。
見えるものといえば、青白く光る稲妻だけ。
そんな日が数日間続き、ようやく空が晴れたときには、家の外は酷い有様になっていた。
しかしそんな嵐にあっても、バルコニーの手すりの一部にひびが入ったぐらいですんだのは、さすがドワーフの知恵と技術の髄を集められて作られた家だと、いまさらながらに感心する。思えば、いつも壊れるのはこのバルコニーの部分だけだ。もしかするとここだけは、少々手抜かりがあったのかもしれない。あのあまりに美しいサルマキスが、常に目に入ってしまうから。
「全く、湖も酷い有様だな……」
水かさは元に戻りつつあるとはいえ、濁った水とそこに浮かぶ折れた木の枝や無数の葉は、彼女の美しさを台無しにしていた。
「保存食もほとんど尽きてしまった。私は食料の調達に行ってくるから、ダルフェイ、すまないが少し外を片付けておいてもらえないだろうか」
この家を避けるようにして、周囲の木々も折れたり曲がったりしてしまったものが結構ある。それを片付けるのは、私には少々骨が折れる仕事だ。ここは役割分担をしたほうがいいというと、ダルフェイは快く頷いてくれた。
「力仕事なら任せて。でも雨で足場も悪いだろうから、君も気をつけてね、ラルム」
「ああ、わかっているよ」
レイピアと弓を携え、私はいつものとおり黒衣に身を包んで森に入った。
枝から枝へと移動するのは得意技だったが、流石に雨のせいで足元がすべる。それでもエルフの血を引く私には、抜かるんだ土の上を行くよりははるかにマシだった。
森の獣たちも、嵐のせいでろくに身動きが取れなかったはずだ。久しぶりの晴天に、外に出てこないはずが無い。さしあたり今日明日分の食料を手に入れたら、戻ってダルフェイを手伝おう……そう考えながら、いつもの狩場近くまで来た、その時だった。
「キャー!」
切羽詰ったような高い悲鳴が、僕の耳に届いた。
ここからは、少し離れている。
「誰かッ! 誰か助けて!」
どうやら、女が何かに追われているらしい。耳に届く足音は、8……いや、10、12だろうか。
厄介だな。と思ったが、無視をするわけにもいかない。
しかし耳に届く範囲とはいえ、それはこの身に流れるエルフの血が成せる技、距離は決して近く無かった。
間に合えばいいが。
「いやーーッ!」
女の絶叫が聞こえた。
視界の先に、しりもちをついたまま必死にあとずさろうとしている姿が見えた。
草色のフードに身を包み、顔は見えないがまだ若い少女のようだ。
ゴブリンの手斧が、今にも動けぬ彼女の頭を割ろうとしている。弓を構えている暇は無かった。
「待て!」
まさに彼女に止めを刺そうしていたゴブリンを切りつけ、私は地上に降りた。
不意を付かれて驚いたように、傷を負ったゴブリンが後退する。
だが、それは致命傷にはならなかった。
「大丈夫か?」
できるだけ安心させてやりたかったが、声に緊張がこもってしまう。彼女からの返事は無かった。気を失っているのかもしれないが、目の前の敵から目を逸らして、それを確認できる状況ではない。
彼女を襲おうとしていたのは、ゴブリンの群れと、3体のオーク。おそらく、飢えに気が立っていたところに彼女が現れたのだろう。そして今また私という獲物が増えたことに、彼らは喜んだのか醜怪な笑みを浮かべた。
樹の精霊よ、私に力を……。
そう願ってみたが、嵐に傷ついた彼女たちは呼びかけに応えない。
風のシルフ、少しでいい、力を貸してくれ……!
だが、シルフも応えなかった。
無理も無い、昨日まで散々暴れて、彼らも今はクタクタのはずだ。
キィィ!
と、不快なおたけびと共に、ゴブリンたちが一斉に襲い掛かってきた。動けない女を背にしては、後退もできない。何としてでも勝つ以外、他に道は無かった。
「……くッ!」
足場が悪い上に、自分より小さな相手は戦いにくい。女を守りながらの戦いはあまりにも不利だ。
襲い掛かる小鬼の腹に蹴りを食らわせ、体制を崩したところで、私はその緑色をした喉を一突きした。それを引き抜き、すぐさま後ろから襲い掛かろうとした一匹の首を突く。だが、その間に襲い掛かってきたもう一匹の手斧が、私の左肩を切りつけた。傷はそれほど深くなかったが、焼けるような痛みが走った。
ゴブリン相手にこんな調子で、どうやって3体ものオークを倒せる? 今はまだゴブリンと私の戦いを面白そうに眺めているだけだが、まともに相手にしては力で負ける。
「やぁっ!」
なんとか4匹目、5匹目のゴブリンを切り殺し、6匹目に狙いを定める。
死ぬわけにはいかないのだ。
私は帰らなければ……何としてでも帰らなければッ!
ゴブリンのナイフが、私のわき腹を掠めた。その頭を思い切り肘で殴りつけ、倒れたところに止めを刺す。
残るはゴブリン3匹と、オーク3匹。
流石にオークどもにも、もう笑みは無かった。凶悪な唸り声を上げ、斧を振り上げ威嚇する。
「ぐぁ……っ」
ゴブリンの投げたナイフが、避け切れずに先ほど傷を受けた左肩に突き刺さった。思わず取り落としそうになる剣を必死に握り締め、気おされまいと敵を睨みつける。
だが、戦況は絶望的だった。
そのときだった。
ギャイィィィ!
悲鳴を上げてゴブリンが1匹、2匹と炎に包まれた。それに驚き、先ほどナイフを投げつけて武器を失っていた最後のゴブリンが逃げてゆく。
「ごめんなさい、今のが最後の魔法よ!」
意識を取り戻したのか、女の声が後ろから聞こえた。
「一人で逃げられるか?!」
私は振り向かず、女に訊ねた。彼女を逃がすことができれば、今ならまだ私も何とか木々にまぎれて逃げられるだろう。
だが、現実はそう甘く無かった。
「ダメよ、足を折られているわ」
「わかった、もう少し待ってくれ」
もう、あまり体力が持たない。
何とか敵の急所をつき、一撃で勝負を決めなければ。
私は無我夢中で真ん中のオークに狙いを定め地面を蹴った。
咆哮を上げる口の中に、渾身の力を込めてレイピアを突き立てる。
だが、絶命する前に、暴れ狂ったオークの腕が私の体を横なぎに跳ね飛ばした。
樹の幹に強かに体を打ち付けられ、意識が朦朧とする。レイピアは倒れたオークに突き刺さったまま……手近な武器はもう、この肩に食い込んでいるナイフしかない。
敵はあと2匹。
もう、絶望的だ。
すまないダルフェイ……私は帰れそうも無い。
許してくれ。お前を、独りにしてしまう私を。
一瞬、ダルフェイの優しい笑顔が頭に浮かんで、私は涙をこぼしそうになった。
2匹のオークが、獲物を味わおうとにじり寄って来る。
女の悲鳴が聞こえた。
結局、彼女も守りきることができないのか。
私が食われている間に、何とかして逃げ延びてくれればいいが……。
私は覚悟を決めて、目を伏せた。
だが、いつまで待っても、最期のときはやってこなかった。
「……?」
恐る恐る開いた視界の先に、オークの胸の中心を貫く、2本の太い木の根。
樹の精霊……助けてくれたのか。
私は声もなく、背を預けているその大木を見上げた。
嵐にも負けず、太い枝を茂らせる、勇壮な姿。
ありがとう、樹の精霊……。
そう心で呟くと、緑の葉がサワと鳴った。
降り注ぐ木漏れ日は、あまりに美しく……私の体から痛みも疲れも、全て取り去ってくれたような気がした。




