泡沫
「それからは、ずっと一人でここに暮らして……どの位の時が過ぎただろうか。大分後になって、お前に出会ったのだ」
僕は何も言えなかった。ラルムの辿って来た予想以上に辛い過去に、慰めの言葉さえ何1つ浮かんでは来なかった。
黙ったままの僕に、何を感じ取ったのだろう。
「聞かないほうがよかったと、思っているのか?」
そうだろうな……と、目を伏せるラルムを、僕は堪らずに抱きしめた。気がつけば、僕は涙を流していた。何故だかはわからない。ただ切なくて、悔しくて……怒りにも似たその感情を、僕は抑えきれずにありったけの力を込めてラルムを抱きしめた。
あまりにも力を込めすぎて、ラルムの細い身体が悲鳴を上げる。
「あ……ぅ、……」
苦しげな声が聞こえても、僕は力を緩めることができなかった。
「ダ、ル……私を、殺すのか……」
問いかけとも、確認とも付かない囁く声に、僕はようやくはっと我に返って力を抜いた。
「……それもいいだろう」
僕の腕の中で、ラルムはそういってふと笑った。僕の顔から目を逸らしたまま、少し、寂しそうな顔をして。
その顔があまりにも綺麗で、僕の胸は押しつぶされそうになる。どうしてこの人には、こんなにも哀しみが似合ってしまうのかと。
「すまなかった。私は、お前の気持ちを無視して、自分だけ楽になろうとしていたのだ。過去を話せば、お前が苦悩することはわかっていたのに」
違う。
どうして謝ることがあるのだろう。傷ついているのは、君なのに。
「私は、赦したかったのだ。自分の過去を……そして一人では背負いきれないものを、お前に押し付けようとした。自分では赦せぬものに、赦しを与えて欲しかったのだ。だがそれは、私の我侭に過ぎない。私は卑怯だ。自分のためにお前の気持ちを無視して、お前の優しさに甘えようとした」
「……」
「お前に殺されるのなら、本望だ」
「ラルム……ッ」
「そうしてくれ、ダルフェイ」
まるでそれが至上の喜びであるかのように、ラルムが言う。
僕はそれが悲しかった。
僕の力では、ラルムを救えないのだろうか。死をもってでしか、苦しみを終わらせることはできないのか?
ラルムは僕にいつだって安らぎをくれたのに。僕はラルムの苦しみの、その一部さえをも背負えないのか。
だったら僕は、何のために君のそばにいるというのだろう。
「違うんだ、ラルム」
僕は言った。
「赦せないのは、僕自身なんだ。僕は何も聞かないのが君のためだと思っていた。でも、本当はそうじゃない。自信がなかったんだ。僕には君を愛する資格が、ないんじゃないかと……そう思うのが怖かった」
「ダル……」
顔を上げて僕を見たラルムに、僕は笑顔を作ろうとしたけれど、できなかった。
そのかわり、できるだけ優しい声で思いを伝えようと思った。
「僕は君を守りたい。君がそばにいてくれたからこそ、僕は魔物にならずにすんだ。他人を想うことを知り、他人を愛することも知り……他人を、赦すことも知ったつもりでいた。でも、僕はまだ未熟だ。それなのに、君がこの世から消えてしまったら……」
僕は多分、この世界の全てを生涯にわたって憎み、二度と安らぎを手に入れることなんてできないだろう。
半分だけとはいえ、体に流れる獣の血……。
そんなものは関係ないのだと普段は思えていても、ふとした瞬間、凶暴な衝動に駆られることが無かったとはいえない。愛とは呼べないような欲望で、ラルムを傷つけてしまうこともあった。苦しげに喘ぐその美貌をみて支配欲を満たし、暗く凶暴な心の赴くままに、その細い身体を引き裂き喰らってしまいたいと……そんなことを思ったりもした。
ラルムがそんな僕の心に、気づいていなかったはずがない。
それでも、君は赦してくれた。
そうして全てを受け入れ、傍らに眠る儚くも強いラルムの姿に、僕はいつだって安らぎと勇気と自信を与えられてきたのに。
「ダルフェイ」
静かな声が、僕の名を呼ぶ。
「……私が悪かった。泣かないでくれ」
お前と共に生きると決めたのに、残酷なことを言ってすまなかった。
そう言って、ラルムの手がそっと僕の頬に触れて涙を拭った。
僕はもう一度、縋るようにラルムを抱きしめた。
壊してしまわないように、大切に。
恐れることは何もない。
過去はもう変えられなくとも……未来を作っていくのは、僕たちなのだから。
僕はただ君の手を引いて、まっすぐ光に向かって進んでいけばいい。
今、君のそばにいるのは、この僕一人だけなのだから。




