天鏡
数ヵ月後、ほとんど元通りに動くことができるまでに回復した私は、今まで見ることができなかったトッドの住まいの探索をすることにした。
天然の洞くつを基に作られた彼の工房は、思っていたよりもずっと広く、幻想的だった。
トッドの職人としての腕は、まさに神業だった。
無骨な彼がどうすればこんなに繊細な細工物を作れるのか。金や銀、さまざまな宝石をあしらった装飾品や調度品の美しさに、私はかつてない感動を覚え、これほどまでに雅なものを生み出すことのできる彼は、きっと心の美しい人に違いないと思った。
実際、彼はとても優しかった。
ぶっきらぼうで自嘲的なところがあったが、動けずにいた私を献身的に看護してくれ、その間も私を傷つけるようなことは決して言おうとはしなかった。同類相憐れむといったところがあったのかもしれない。それでも私はいつしか彼に深い信頼を寄せ、彼のほうも次第にその態度を柔らかなものへと変えていった。
彼は生まれつき顔が醜く歪んでおり、そのために同族から疎まれ、ただひたすら職人芸に磨きをかける日々を送ってきたのだという。
彼の細工品は見るものの心を打ち、次第に仲間として認められるようになっていった。だがそんなある日、彼の才能を妬んだ一部のドワーフの嫌がらせにより、顔半面を焼く大怪我をおってしまった。それ以来心を閉ざした彼は、ドワーフの邑を離れ、ここに一人移り住んだのだという。
しかし、トッドの仕事の中で私がもっとも興味を引かれたのは、高度な美術品や装飾品より何よりも、彼の作った武具だった。短剣から長剣、弓や斧にいたるまで、実用性と芸術性を備えた無数の品々が、工房の壁一面に飾られていたのだ。
「ずいぶんと熱心に見ているのだな」
声をかけられても、私はなかなかそれらの作品から目を放すことができなかった。
「使ったことはあるのか?」
そう問われて、首を左右に振る。
「使い方を教えてやろうか?」
その言葉に、私ははじかれたようにトッドの方を振り返った。
「何だその顔は。武器ぐらい使いこなせなくてはドワーフとはいえん。なりは小さくとも、エルフの坊やなんぞに負けはせんよ」
武器の使い方を教えてくれる。
それだけでも嬉しかったが、それ以上に私はトッドの言った「坊や」という言葉に、喜びを覚えていた。からかい半分にいわれた言葉でも嬉しかった。少なくとも彼は、私を「男」と認識してくれているのだと……そう、感じられたから。
だが今にして思えば、彼はただ私がそうであって欲しいと思ったとおりの言葉を、選んでくれていたのだと思う。
「リハビリがてらに、腕を磨くのもいいだろう。お前さんに合いそうな武器は……やはり、コレとコレだな」
手渡された、銀の装飾が施されたレイピアとショート・ボウ。
繊細なつくりにふさわしく、それはとても軽く、非力なエルフの血を引く私にも扱いやすそうな品だった。
目を輝かせる私に、トッドは頷き、微笑んで見せた。彼の笑みはただ歪んだ顔をさらに歪めただけのように見えたが、それでも私には十分、その微笑の優しさが伝わってきたような気がした。
それからというもの、私とトッドは夜になると表に出て、剣や弓の稽古をするようになった。
トッドは体型に似合わず素早く、力も強い。背丈は私のほうが50cmほども高かったが、有利な点など1つもなかった。目も片方しか見えないのに狙いは正確で、全く隙がない。
毎晩クタクタになるまで稽古して、泥のように眠るのがとても心地よかった。深い眠りは、私を悪夢から遠ざけてくれた。そうして武芸に磨きをかけている間だけは、私は辛いことの全てから解放され、何もかもを忘れることができたのだった。
やがて数年がたち、私はいつしか剣の腕も弓の腕も、トッドを凌ぐようになっていた。身長もさらに伸び、もうトッドの背は私の腰ほどの高さしかなかった。
自分よりもずっと年長だと思っていたトッドは、意外なことに自分と10歳程度しか違わないことも知った。髭と長髪に覆われ、重度の火傷をも負っているその顔からは到底判断できなかったが、彼はドワーフ仲間の中でも大分若い方だという。
一緒に住んでいながら、私たちはお互いの生活にはあまり干渉しなかった。私のほうが武術の腕を凌ぐようになってからは、トッドが稽古に付き合ってくれることも少なくなっていった。それでも私は特に気にも留めなかった。すっかり夜型の生活になっていた私は昼間寝てばかりいたし、トッドのほうは工房に篭って仕事をしているのだろうとばかり思っていたのだ。
共に暮らすようになって10年ほどが過ぎたある日。
トッドは不意に、私を散歩に連れ出した。
月明かりに照らされた夜の川辺は私に過去を思い出させたが、それでもその美しさに、心惹かれずにはいられなかった。
次第に夜霧が濃くなり、視界の悪さに何度か足を滑らせそうになりながら、私たちは朝が近づいた頃、ようやくそこに辿りついた。
霧が深くよく見えないが、なにやら建物があるらしい。
「さあ、入ってみろ」
そう促されて扉の奥に足を踏み入れた私は、その内部の光景に、はっと息を呑み、感嘆した。
優しい木のぬくもりを感じる、その部屋。
大きな窓には、白いレースのカーテンと深い緑のビロードのカーテンが2重にかけられ、シンプルながらセンスのよいつくりのテーブルと椅子が、その窓辺にセットされていた。
キッチンには銀細工やガラスの食器、調理器具が綺麗に棚に並べて置かれている。
「こっちに寝室と……バスルームも作っておいた。規模は小さいがドワーフの知識と技能の全てを詰め込んだ、最高の代物だぞ。エルフの血を引くお前さんが一生住んでも、朽ちることはないだろう」
「……トッド、あなたがこの家を?」
「そうだ。お前さんのように美しいものが、いつまでも地下の生活をしているのは忍びない。ここは人里にも比較的近いから、エルフたちが寄り付くことも少ないし、逆にオーガどもらモンスターの巣も近くてな。よもや人間たちが入ってくることもないだろう。少々危険な場所ではあるが、お前さんほど腕が立てば問題もあるまい」
「トッド……」
「もうすぐ夜が明ける。お前さんに本当に見せたかったものは、こっちだ。ついてくるがいい」
そう促されて、私は彼の後について、大きな窓の向こうにあるバルコニーに出た。
遠くの森の向こうに日が昇り始め、次第に霧が晴れてゆく。
まばゆい光の点滅が現れ、数を増やし……やがて私は、それが湖に反射した光の煌めきだということを知った。
「あ……ぁ……」
目の前に広がる光景に、私は圧倒されて思わずその場にへたりこんだ。
青空を映す、澄んだ水を湛える湖……。
まだ朝霧の残る森に囲まれ、それはどこまでも神秘的で、幻想的だった。
私たちは、いつの間にか天国へ迷い込んだに違いない。
でなければ、こんなにも美しい光景が、この世にあるはずがないもの。
「この湖は、いつかお前さんが命を絶とうとしたという滝の下流にあるものだ」
その言葉に、私ははじかれたように傍らに立つトッドを見上げた。
「こんな景色を見られるなら、生きて行くのも悪くはないと思えるだろう?」
トッドのいったその言葉に、涙が後から後から溢れて、止まらなくなった。
私は何も知らなかった。
世界はこんなにも綺麗なのに、何故穢れたものにばかり、目を向けてしまうのだろう。
この景色があれば、私の醜く汚れた心も、いつか浄化されるときが来るのだろうか。
この景色と、共にあれば……。
「この景色は俺のお気に入りだったが、今日からはお前のものだ。俺はこのとおり顔も心も歪んでいるが……美しいものを愛でたいという気持ちは、誰より強いと思っている。この湖は美しい。そして、お前もまた、それ以上に美しい」
「トッド……」
「ラルム、俺はな……」
トッドは何かを言いかけ、口をつぐんだ。
そのときは彼が何を言いたかったのかわからなかったが、今ならばわかる気がする。
孤独だった彼が、私に何を求めていたのか。
返しきれないほどの愛情と恩を受けていたのに、私は彼に何も返せなかった。
そのことが、今でも……いや、今だからこそ、余計に申し訳なかったと痛烈に感じずにはられない。
「トッド?」
「いや、なんでもない。なあ、湖のそばまで下りてみよう。離れて観ても美しいが、近くで観るのもまた素晴らしいぞ」
そうして光の中で、水と戯れたのはいつ以来だっただろう。
いや……もしかしたら、それが初めてだったかもしれない。
ひとしきりはしゃいだあと、後ろを振り返ると高台に白く塗られた小さな家が建っていた。
「今日から、お前はあそこに住むといい」
「トッドは……?」
「俺は土の中が性に合っているのでな。もちろん、時々はたずねてくるさ」
そういって、トッドは笑った。
生涯最高の友人にして、命の恩人だったトッド。
だが彼はそれからまもなくして、地震のために崩れた工房の爆発事故により、帰らぬ人となってしまった。




