出会い
霧の合間から見える風景が、次第にはっきりとしてきた。
神々しい朝日の煌きが、無数に湖に反射する。
今日はいい天気だ。久しぶりに森の散策をしてみるのも悪くない。ついでに、自生している季節の果物を狩ってこようかと、動きやすい服に着替え、皮袋を肩に下げる。しかしなるべく目立たないようにと選んだはずの黒衣が、この怪異な姿をかえって際立たせているような気がして、私は苦笑した。
幸いにして身軽さは母ゆずりで、私は木々の合間を風のごとくに移動することが出来た。地上の道を歩くよりも、そのほうがずっと楽なぐらいだ。
朝露に濡れた森の香りが心地よい。
風の妖精シルフが、肩先に戯れてきた。
女性に似た、しかし性を持たない小さな存在。
その愛らしさに、自然と笑みがこぼれる。
言葉を交わすことはないが、こんな私にも構わずに戯れてくる無邪気で陽気な彼らが、私はとても好きだった。
だが、今日は彼らの様子がおかしい。
何か警告を発しているのか、私の目の前を遮るように群がってくる。
一体なんなのだ?
不審に思い、太い木の幹に隠れて地上を見下ろした。
やや前方の、土が剥き出しになった山道。
遠くから聞こえてくる微かな音に、私の耳が反応した。
すりあう金属の音。
獣のような奇声。
下卑た笑い声。
足音――それも、かなりの数。
怒声。
誰かが、号令を放っているらしい。
モンスターだ。
私は警戒した。
おそらく、オーガの率いる団体だろう。
すぐにその場から逃げ去ってしまってもよかったが、何故か好奇心が疼いた。
息を殺して待っていると、程なく獣くさい団体がやってきた。
一匹のオーガを頭にした、ゴブリンとオークの戦闘団。
棍棒や蛮刀を振り回し、ゲタゲタと汚い笑い声を上げている。
このまま真っ直ぐ行けば……そこは人間の住む里。
村を襲いに行くつもりなのだろうか?
戦いの予感に興奮しているのだろう、息の荒い……雄の集団。
何故か恐怖よりも、楽しそうだという感想が私の頭をよぎった。
群に囲まれたオーガの、一際大きな体。分厚い筋肉の固まりのような肉体。
ふと、オーガがこちらを見上げた。
見つかったか……?
一瞬戦慄が走ったが、しかしオーガはすぐに視線を前方に戻した。
黄色い、蛇のような瞳。
醜く……猛々しい容貌。
彼らが村の方向に去っていくのを見送っても、私は何故かしばらくそこを動くことができなかった。
彼らが羨ましい――。
何故、そんなことを思ったのか。
たとえ一瞬でもそう感じた自分に、私は慄き、身震いした。
それから、数年が経過したある日のことだった。
あの日のように偶然、私はその道の側までやってきた。
と、近くで泣き声が聞こえる。
子供……?
モンスターではない。
それは、人間の子供の泣き声だった。
何故こんな森の奥に人間の子供がいるのだろう。私は不審に思った。
親と狩にでも来てはぐれたのだろうか?
このまま放っておけばいずれモンスターの餌食になるだけだが、人間は嫌いだし助けてやる義理もない。
私はすぐにその場を立ち去ることにした。
だが……気がつくと、何故か私は子供の前に立っていた。
どうしてそのような行動をとってしまったのか、自分でもわからない。
小さな男の子だった。年の頃は5~6歳といったところだろうか。
突然、空から――正確には木の上からだが――舞い降りてきた私の姿に驚いたのか、少年はしゃくりあげることも忘れたらしい。
私を見上げる、大きく見開かれたその瞳に、私は舌打ちし、顔を背けた。
なんということだ……。
何故この子の前に姿を現してしまったのか。その因縁を感じて、溜め息をつく。
何かを振り払うように軽く頭を振って、私は仕方なく口を開いた。
「このまま行けば、オーガの巣だが――お前は、父親にでも会いに行くつもりなのか?」
私の言葉に、少年はギクリと肩をすくめ、それからおずおずと頷いた。
その答えに、私はもう一度、溜め息をつく。
「……オーガがお前を受け入れると思うのか? まず喰われるか、良くて一生奴隷扱いだ。奴らは、人間の女に孕ませた子に愛情など持たない。いや、奴らにはそもそも愛情などというものは無いのだ。つらいかもしれないが、人間の住処に戻るがいい。それがお前のためだ」
「……」
親切に忠告してやったものの、少年は村に戻る気が無いらしい。
その気持ちは私にも痛いほどわかった。かつて私も、そうしてエルフのもとから逃げ出してきたのだから。
それに、もしかしたら……彼は自分の意思ではなく、人間である親か村人の手によってここに捨てられたのかもしれない。
だとすれば、この子にはもう戻る場所など無いのだ。
自分の力で生きていく以外に、生存の道は無い。
だが、こんな幼い子供が自力で生きていくことなど、到底かなわぬ話だった。
うつむいてしまった少年の姿に、かつての自分の姿が重なる。
この子が望まれて生まれてきた子ではないのは明白だ。
人間の女が、オーガに犯されて孕んだ子。
誰にも愛されることの無い、一人ぼっちの存在。
見た目はほとんど人間と変わらない、幼い、やせっぽちの子供だ。特徴的なところといえば、額の上に微かに2つの隆起があるのと、獣のような黄色い瞳だけ。
幸いにして母親の血を濃く引いたのだろう。オーガの血が混じっているとは思えない、平凡だがそれなりに整った顔立ちだった。
私と同じ宿命を背負った少年に、憐れみを感じないでもなかった。
しかし、同時に苛立ちも覚えた。
こんなものは、見たくない。
「忠告はした。自分の道は、自分で選ぶがいい。この道を進むのも、引き返すのもお前の自由だ」
私はそう言ってその子に背を向けた。
これ以上、関わり合いになりたくない。
この子は私に嫌なことを思い出させる。忘れようと必死に努力してきたあの暗い日々……もう、二度とあんな経験をするのはごめんだ。
私には、この子を救ってやることは出来ない。
そう考えた、直後だった。
ちいさな足音が、走り出した。
思わず振り返ったその胸に、小さな体が飛び込んできたのを……私は、無意識に抱きとめていた。
細い肩が、震えている。
「……お前は、私を選ぶのか?」
問い掛けてみるが、泣きじゃくる少年からの返事は無い。
「私には、お前を幸せにすることは出来ない。何故なら、私はお前と同種だからだ。わかるな? 私に助けを求めても、それは傷の舐め合いにしかならないのだ」
なおもしがみついてくる、小さな体。
正直、私は後悔していた。今日ここを通らなければ、私はきっとこの少年に出合うこともなく、いつもと同じように一人きりで、平穏な一日を過ごせたに違いない。
だが、私にはできなかった。
救いを求め、差し伸べられた腕……縋るもを持たぬ苦しみを嫌というほど知っているこの私が、どうしてそれを振り払うことができようか。
震えている小さな体を抱き上げ、胡桃のように淡い茶色の柔らかな髪を静かに撫でた。
「……お前の名は?」
「ダ……ダル、フェイ」
声変わりもしていない、幼い声。
一人で生きていくには、まだあまりにも無力な存在。
「ダルフェイ、では、私のもとに来るがいい。しかし初めに言っておく。私には何も期待するな」
「……」
「私の名はラルム。お前と同じように異類婚によって生まれた、エルフと人間の混血だ」
少年の目が、一瞬驚いたように見開かれた。それからすぐに私の肩に顔を埋めて、いっそう強くしがみついてきた。
こうして、私はハーフオーグルの少年ダルフェイを手元に置くこととなった。
大嫌いな人間と、おぞましいモンスターとの間に生まれた子供。そして、ハーフエルフの私。
決して相容れないはずのエルフとオーガの血が、人間という1つの接点で結びつく。
この子を拾ったのは同情だったのか……それとも、自らへの慰めだったのか。
今も、私にはわからない。




