闇
私たちは走った。
村を抜け出し、月明かりだけを頼りに森の奥へと。
恐ろしさは何も感じなかった。レィスアルに手をひかれながら、これからどうなるのか、何処へ行こうとしているのか……そんなことは微塵も考えずに、ただひたすら彼女の後を追って行った。
不思議と、夢を見ているような気分だった。
高鳴る鼓動……彼女と二人なら、私はその先に待ち受けている運命がどのようなものでも耐えていける気がしていた。
たとえ、明日にはアムレを殺害した罪人として捉えられたとしても、全てを背負って罰を受けよう。運良く逃げることができるのなら……私は誰よりも強い男になって、きっと彼女を守って行こう。先刻までの悪夢のような体験も忘れ、私はそんな思いさえ抱いていた。
息を切らせて走った、数十分。
あの時のしっとりと優しい森の香り、小さな生物たちの声、玲瓏と輝いていた月の光を、私は生涯忘れられないだろう。この世界の全てが、射干玉色の闇に覆われてしまったあの瞬間まで……その夜の景色は、本当に素晴らしく美しかった。
不意に水音が聞こえて来た。
程なく森が開け、川縁の岩場に辿り着いた。
青白く輝く真円の月が、遥か頭上に神々しく輝き、流れる川の水が、あふれるようなその光を受けて宝石のように煌いていた。水辺特有の冷たい空気が、火照った体に心地好い。大きな岩に両手をつき、月を見上げながら私は思った。なんて美しい世界だろう。なんて素晴らしい夜だろう……小さな冒険を終え、宝物を見つけた夢物語の主人公のように、私はレィスアルを振り返った。
レィスアルは微笑んでいた。
見たこともないくらいに穏やかで……冷酷な顔で。
「素敵なところでしょう? ラルム。思い出を作るには絶好の場所よね」
レィスアルの背後で、何かが動いた。いい知れぬ不安を覚えて私はあとずさろうとしだが、冷たい岩がそれを邪魔した。
「あなたのことを、みんなに話したのよ」
愛らしい微笑みが、悪魔のそれにみえる。
「そうしたら、あなたに関心のある人がたくさん集まったの。ねえ、みんなとお友達になってくれるわよね、ラルム」
「レィス……ア、ル?」
森の闇の中から、複数の人影が現れた。いつもレィスアルの傍にいた取り巻きたちもいたが、見覚えのない者もいる。
「みんなあなたのことが知りたいのよ。あなたがどうやってあたしのアムレを誘惑したのか……その体が普通の女とどう違っているのか。とても興味があるの」
そういってレィスアルは高らかに笑った。まるで地獄の魔鳥が上げる叫び声のように。薄ら寒いその哄笑に促されるように、レィスアルの背後にいた男たちがゆっくりと私に近づいてきた。
好色な表情はなかった。
だからこそ、私は余計に恐ろしかった。
彼らにあるのは、純粋な知的好奇心……ハーフエルフで、しかも両性具有という珍しい存在に対して、冷酷な科学者のような興味を抱いているだけ。
恐怖に立ち竦むことしか出来ないでいる私の腕を誰かが掴み、川の上流特有のまだ形の荒い石が転がる土の上に引き倒した。
レィスアルは笑っていた。まるで楽しいショーを見ている子供のように。四肢を押さえつけられ、解剖されるカエルのように成すすべもなく震えている私を……無慈悲な観察者の眼に全てを晒され、身も心もズタズタに引き裂かれてゆく私を、彼女はただ無邪気ともいえる微笑を浮かべながらずっと冷酷に見下ろしていた。
私の体がどうなっているのか、どんな反応を示すのか……その残酷な"実験"と"観察"は果てしなく続けられた。浴びせされる言葉の中から、今自分が何をされているのかを朧気ながらに理解するうちに、私は羞恥よりも屈辱よりも、何よりも深い絶望を感じていた。
疑いなく男だと信じていた自分の体が普通の男ではないこと。それに気づいたときの絶望よも……初めて恋をした女性にとって、自分が永遠に男とは認められない存在であること。それを知ってしまったことが辛かった。
レィスアル……。
冷たく見下ろす彼女の瞳の向こうに、私は彼女に初めて出会った日のことを思い出していた。
晴れた日の空を思わせる、美しい瞳。
何よりも眩しかった。
何よりも綺麗に見えた、ただ一つの心の支え……。
薄明かり1つない漆黒の闇の世界で、初めて見えた光……それがたとえ地獄から漏れ出でた業火の光であったとしても、私は手を伸ばさずにはいられなかった。
薄々は気づいていた。
それでも私は縋りたかった。
無慈悲にこの身を焼き滅ぼそうとしている炎が、私を暖めてくれる唯一のものなのだと思い込まずにはいられなかった。
ああ、分かってもらえるだろうか?
たとえ太陽の光で無くても、それが紛い物だと気づいていても……それでも、初めて見た光の美しさを、忘れることなど出来ないのだということを。
「もう、やめてくれ……ッ」
私は叫んだ。
「放せ! 放せぇぇぇ――!!」
突然暴れだした私の様子に男たちが一瞬怯んだ隙に、私は必死に逃げ出した。
けれど縺れる足は自由にならず、僅か数メートル進んだだけで転んでしまった私の髪を誰かが掴んで引き起こした。
手の掛かる実験動物を捕まえたとでもいうように、呆れたような冷笑。
無我夢中で暴れる身体を、容赦なく打ち据える手。
まるで何かの儀式のように、機械的に繰り返される陵辱……。
月はまだ空高く輝いていたのに、私の世界はドロドロとしたどす黒い何かに覆われていった。
何も見えない。
何も聞こえない。
全てが、遠ざかってゆく。
闇に包まれ堕ちてゆく、私だけを置き去りにして。
果てしのない暗黒の中に、自分一人だけが取り残されたのだと――そう感じたのを最後に、私の意識は途切れた。
もう、何も感じない……。
それからどれくらいの時が過ぎたのだろう。
体を打ち据える冷たい雨に起こされ、私は薄っすらと眼を開いた。
不思議と痛みは感じなかったが、冷え切った体はいうことをきかず、次第に激しさを増してゆく雨に、しばらく打たれるがままになっていた。
レィスアルも男たちも、もうそこにはいなかった。
怒りも哀しみも絶望もない。ただどうしようもない虚無感だけが私の心を支配していた。
そのまま二度と起き上がれなくてもよかったのに、何故か私は重い身体をゆっくりと起こした。
立ち上がって、そしてすぐに両膝をついた。咳き込んだその口から、胃液と共に血が溢れた。
改めて見れば、傷だらけの体。雨で少しは洗い流されているものの、悲惨な状態に変わりはなかった。それが何故か可笑しくて……私は笑った。体中に痛みが走ったが、それでも私は笑い続けた。
次いで、涙が溢れてきた。それも全て雨に洗い流された。
村には戻れない。戻ったところで、私を助けてくれるものなど誰もいない。
激しさを増す水音に、私は川の方を振り返った。先刻見た美しさなど名残の一欠けらもない。まるで私の心の中を写したように、濁り、どす黒く渦巻いている。
私は歩いた。
身に纏う布の一枚もなく、少しずつ水嵩を増してゆく川縁を。
光射さぬ暗黒の流れを見ながら、私は思った。
私の帰るべき場所はここなのだ、と。
しばらく歩いて、やがて、滝にさしかかった。
轟々と音を立てて流れ落ちる濁流。月明かりさえ無い闇の中で、それは地獄の底まで続いているように見えた。
「……」
川の中に足を踏み入れる。身を切り裂くような水の冷たさは心地好くさえあった。
やがて激しく流れる水が私の身体を押し流したその瞬間も、私の心に過ぎるものはもはや何もなかった。
生まれ変わりたいとも思わなかった。ただひたすら無に還りたかった。
最初から、何も無かったのだと思いたかった。
何も、何も……。
私という存在さえも、初めから何処にも無かったのだと……。
 




