女神
「ラルム」
突然窓辺から呼びかけられて、私は驚いて飛び起きた。
あれから一週間と少しが過ぎ、原因不明の出血と下腹部の痛みは嘘のように治まっていたが、体のだるさと頭痛が続いたのと、すっかり外に出る気力を無くしてしまったのとで、私はほとんど一日中ベッドに臥せったまま本ばかりを読んで過ごすようになっていたのだ。
「アムレ……」
ガラス戸が外れっぱなしの窓から部屋の中に入ってきたのは、あのアムレだった。
「ラルム、大丈夫かい? 可哀想に、どれだけ不安だっただろうね……」
そういって、私の頬にそっと触れた、アムレの手。
「少しやつれたみたいだ……」
「……」
「一体何の病気なのかと思ってとても心配したよ。レィスアルはなかなか話してくれないし……何度も問い詰めて、やっと聞き出したんだ」
「僕の病気が何なのか、知っているのですか?」
「病気じゃない、君は特別な体なんだ。とても神聖な……そう、まるで天使のように、ね」
「天使?」
「とにかく、顔が見られて良かったよ。家の中に閉じこもっていてはかえって体に良くない。また以前のように外に出ておいで。何かあったら、きっと私が守ってあげるから」
アムレは優しくそういって励ましてくれたが、私にはもう外に出る勇気など湧いてこないように思えた。
何もこたえずに俯いていると、アムレは私の髪をそっと撫でて、その日はそれで帰っていった。
それから、ほとんど毎日夜になるとアムレが訪ねてくるようになった。相変わらず大した話をするわけでもない。アムレが持ってきてくれた本を読んで日中を過ごし、夜になると私が語る感想にもならないようなつまらない感想を、アムレが横で頷きながら聞いている……それが二人の日課になった。
私の身体のことについてアムレは何も聞こうとしなかったし、私も語りたくはなかったので、あえて何も言わなかった。
今思えばアムレはこの時すでに私の身体の秘密をすべて知っていたのだろう。
そうして二週間と少し経ったころ、あれ以来毎晩のように訪ねて来るアムレに、私はふと疑問に思っていたことを口にした。
「アムレ」
「ん?」
「心配して訪ねてきてくれるのは嬉しいけれど……レィスアルは承知しているの?」
私は密かに、レィスアルが彼をここによこしてくれているのではないかと思っていた。あの日……なぜか怒って帰ってしまったレィスアルだが、本当は私を心配してくれていて、自分の代わりにアムレをこうして来させてくれているのではないかと。
確かにアムレはもともと優しい人ではあったが、あえて自分からこのように訪ねて来てくれるような人には見えなかった。それがこうしてたびたび私の様子を見に来てくれると言うことは……つまり、そういうことなのではないかと、私は考えたのだ。
だが――。
「レィスアルとは、ここしばらくずっと会っていないんだ」
と、アムレは言った。
「彼女とは、別れたいと思っている……いや、別れるつもりだ」
「ど……どうして?」
私はアムレの意外な告白に、少なからず動揺した。
「レィスアルのこと、好きなのでしょう?」
「嫌いではないが、愛してもいない」
アムレの言葉に、私は目を丸くした。
「嘘だ。レィスアルはあなたのことをとても好きなのに……もしかして、僕のことで喧嘩でも?」
「君のせいではない、初めからだよ。私の両親とレィスアルの両親は仲がよくてね。彼女が生まれた時から、私たちは恋人同士になるように決められていたんだ。でも、私は彼女を妹のようには思えても、恋人だとは思えなかった。なぜなら、私には他にずっと好きな人がいたから……。もっとも、残念ながらその人はもう死んでしまったのだけれどね」
アムレはそう言って、ふとかすかに微笑んだ。
「彼女があんなことになってしまい、一時はレィスアルと結ばれることにもはや何もためらいはないと思っていた。だが、今は違う。私にはもう……自分の気持ちを偽って生きていくことはできない」
言葉と共に向けられた彼の真剣な眼差しに、私は戸惑いというよりもむしろ恐怖を感じた。差し伸べられた腕に力強く抱きしめられ、私は思わず渾身の力で彼の体を突き飛ばした。
アムレは少々、機嫌を損ねたようだった。そして荒げこそしなかったが、確かに威圧を含む声で私にこう言った。
「ラルム、私なら君の全てを受け入れられる。君が半分人間の血を引いているということも、君の体のことも、全てだ。だから君にも私の想いを受け入れて欲しい。君も……私のことが嫌いではないだろう?」
アムレの言葉に、私は首を横に振った。確かにアムレのことは好きだ。だが、それは決して恋愛感情ではない。
「あなたのことは尊敬していた。でも……」
当時私の目に映っていたのは、私の心を満たしていたのは、彼ではなくレィスアルだった。酷い言葉を投げつけられたあとも、ずっとそれが彼女の本心ではないと信じていた。私にとって彼女は女神にも等しい存在であり、いつでも光り輝いて見えていたのだ。
それに、アムレの想いを受け入れられない理由は他にもあった。
「僕は男だ。あなたのことを、恋愛の対象としては見られない」
「違う、君は男ではない」
冷ややかなアムレの言葉に、私は絶句した。
「自分でも薄々気がついているのだろう? 自分が普通の男とは違うことを」
「でも、でも僕は女じゃない!!」
「だが、君は女でもある。……そうだろう?」
穏やかな口調。それがその時の私にはたまらなく恐ろしく思えた。
呼吸さえ忘れてしまいそうな衝撃に、目を見開いたままただ体を震わせることしかできすにいる私に、再びアムレの手が触れた。そのまま押したおされ、唇を奪われても、私は呆然と我を忘れたまま、混乱する意識に、ただされるがままになっていた。
冷たい手が未成熟な乳房に触れ、私は思わず痛みに悲鳴を上げそうになった。だが、それも口づけに封じられた。言いようのない恐怖に襲われ、私はただ震えながら涙を流し続けていた。行為の意味に対する知識などまだ持っていなかったが、それが何かとても恐ろしいことであることは、本能的に感じていた。それでも、抵抗はできなかった。アムレはそれを承諾と取ったのか、ゆっくりと、しかし確実に私の体を攻略にかかっていった。
絶対に、誰の目にも触れさせたくないと思っていた下肢を開かれ、私は恐怖よりも羞恥よりも、何より深い絶望を感じた。この忌むべき体を見られてしまった……そのことのほうが、当時の無知な私にとってはずっとずっと辛いことだったのだ。
やめて、見ないで……!
そう心で叫んでも、震える唇は声を発してはくれない。
両腕で顔を覆い、泣きじゃくる私の上で、しかし、その時予想だにしなかった出来事が起こった……。
「――!」
正確に喉を射抜かれて、アムレは声もなく絶命した。生暖かい血が私の体に降りかかり、次いでアムレの死体が私の上に倒れこんできた。気がふれてしまいそうなショックを憶えながらも、まだ細かく痙攣を繰り返すその体の下から、私は転げ落ちるように必死で這い出した。
と、その時だった。
「何をぼやぼやしているの、ラルム。逃げるわよ、早く!」
銀色の小弓を片手に、窓辺に立つその姿。
レィスアル……!
彼女に導かれるように、私は急いで衣服を身につけ窓から飛び出した。それは血に汚れていたが、そんなことは気にならなかった。
レィスアルが助けにきてくれた。
そのことが、私に先刻まで起こっていた出来事の全てを忘れさせていた。
私の手を取り、走り出すレィスアル。
鼻先を掠め揺れる金色の髪を見ながら、この時私が感じていたのは、確かな幸福と、安らぎだった……。




