淡き日
それが初恋だったとすれば、その淡い想いの対象は女性だった。
明るい金色の髪の、エルフの少女。彼女はきらめく風のようにまぶしく、軽やかで、気まぐれで……残酷に私を翻弄し、それでもなお美しく輝いていた。
レィスアルという名の少女の思い出は、私の中でもっとも呪わしく深い傷として心に残った。思い出すたびに気がふれてしまいそうな苦しみと悲しみがよみがえるのに……私を絶望に突き落とした張本人であるはずの彼女の姿は、その苦い思い出の中で、あまりにも優しく微笑んでいる。淡く輝く風の中……柔らかな金髪をすきあげながら私に呼びかける小柄な少女の幻影から、多分私は生涯逃れることなどできないだろう。
今思えば、エルフの少女にしてはあまり美人ではなかったかもしれないレィスアル。しかし気さくで明るい彼女は、いつも沢山の友達に囲まれていた。
母の死後、祖母の干渉は次第に減り、気まずい自由を手に入れた私はよく家を出て一人で森へでかけるようになった。
私は、一人でいるのが好きだった。
誰からも干渉されず、誰の目線も気にならず……誰の声も聞こえない。
聞こえてくるのは遠いせせらぎと、気ままな小鳥たちのさえずり……森はいつも静かに心地よく私を包んでくれた。
「そこで何をしているの?」
お気に入りの花園が見える梢の上で、いつのまにかうたた寝てしまっていた私に、彼女は突然そう声をかけてきた。
寝起きの目に、木漏れ日は眩しく突き刺さるようで……その光の欠片を背負いながら微笑みかけたレィスアルの姿は、まるで天使が舞い降りてきたかのように見えた。
生まれてこの方、まともに他人と話をしたことのなかった私は、彼女に声をかけられても返事はおろか、声を出すことすら……いや、何事が自分におきているのか、理解することも出来なかった。
「いやだ、寝ぼけているのね」
放心している私を見て、彼女はそういって笑った。
「こんにちはラルム。せっかく気持ちよさそうに寝ていたのに、起こしちゃって悪かったかしら」
「あ……」
あなたは?
そう訊ねようとして、やっと声になったのはそれだけだった。しかし彼女には、それでも十分伝わったらしい。
「あたしはレィスアル。あなたの家のお向かいに住んでいるのよ。あなたは、知らなかったかもしれないけど」
それで、僕の名前を知っているのか……。
私は、少しほっとして、大きく息を吐いた。
「もう少し傍にいってもいいかしら?」
レィスアルの言葉に、私は慌てて寝転んでいた体を起こし、大きく何度も頷いた。
「……どうして離れていっちゃうのよ」
彼女を隣に案内したはいいものの、思わず幹のほうにぴったり寄り添っていってしまう私を見て、彼女は笑った。
「そんなにあたしって怖いかしら? 大丈夫、何もしないわ。あたしはただ、あなたとお友達になりたいだけなの」
「と、も……僕と?」
「あなた以外の誰に話し掛けているように見えるのかしら?」
「……」
「あなた、とても素敵よ。ハーフエルフだということでいろいろ差別的な目で見る人も多いけど……いいえ、あたしだって、きっとちょっとは特別な目であなたを見てしまっているけど。でも、あなたがハーフエルフだって、ちっとも嫌じゃないことは確かだわ。だってあなたはとても綺麗だし、とても優しそうだもの」
「でも、僕は悪魔だから……本当は汚いし、きっと優しくもない」
彼女の明るい金色の髪と比べ、彼女の澄んだ空色の瞳と比べ、いったい私のどこが美しいというのか。
鏡に映る自分の姿を、美しいなどと思ったことは一度もない。罵声を浴びせられ、醜いとののしられ続け……それでも自分は美しいのだと、そう思い込めるだけの自負など芽生えようはずもなかった。
くすんだ灰色の髪。空が泣き出す前の……あの悲しい色。私には誇るべき鮮やかな色彩もなく、それゆえに私の世界もまたくすんでいた。
「あなたは悪魔なんかじゃないでしょ。ただ人間との混血だというだけじゃない、気にすることなんかないわ」
「……」
「人間の勇士というのは本当に強く雄雄しく輝いているものだそうよ。あなたのお父様は人間の戦士だったというじゃない。きっと立派な人だったのに違いないわ」
「……そうかな」
だったら何故、父さんは私と母さんを連れて行ってくれなかったのだろう?
こんなエルフの村にいるより、ひょっとしたら幸せなことがあったかもしれないのに。
母さんだって、死なずにすんだかもしれないのに。
私を……抱きしめてくれたかもしれにのに。
「君は父さんのこと、何か知ってるの?」
私は恐る恐るそう訊ねたが、レィスアルは首を左右に振った。
「いいえ、残念だけど詳しいことは知らないわ」
「そう……」
「ごめんなさいね」
「いや……話し掛けてくれてありがとう。でも、僕みたいなやつとは友達になんかならないほうがいいよ。きっと君まで嫌な目で見られることになるだろうから」
「大丈夫よ、確かに大人たちの中にはひどいことをいう人たちもいるかもしれないけど、子供はみんな小さなことにはこだわらないものよ。みんな、ホントはあなたと仲良くなりたいと思ってるの。ね? みんなにはあたしから紹介するわ。だから、あたしと一緒に行きましょうよ。ひどいこというやつなんて、みんなあたしが倒してあげるわ。あたし、こう見えても魔法は得意なのよ」
「……」
私は、戸惑いながらも嬉しかった。胸の中に広がる暖かな想い……飢えていた温もりの心地よさに、自然と笑みがこぼれていた。
「……ありがとう」
かえってきたレィスアルの笑顔は、とても眩しく……私を光の中へと導く優しい天使そのものに見えた。
いや、そう信じていた。
拭えない絶望を背に、エルフの村を離れた……あの忌まわしい悪夢の日までは。
レィスアルの友人たちは、彼女の傍らに立つ私の姿に微かだが明らかに警戒していた。無理もない。私はやはり異端であり、彼らのような純血のエルフとは違うのだ。
「レィスアルは本当に優しいね」
誰かが呟いた何気ない一言に、レィスアルはとても嬉しそうに笑っていた。
レィスアルは優しい。それはそうだ。しかし……この時感じた何か不快な思いの正体に気づいていれば、私はきっと今ほどには傷つかずにすんでいただろう。
今思えば優しいレィスアルは、自らの優しさの証明と確認のために私という存在を必要としていたのだ。きっと、彼女自身も気づかないまま……。
レィスアルの友人たちとは、結局私は深くなじむことができなかった。彼らがよそよそしかったのか、自分自身が心の壁を取り除くことができずにいたのか、どちらかといわれれはきっと後者のような気がする。しかし、少なからず向けられる好奇の目は、幼く弱い少年の日の私には耐えがたいものだった。自ら殻にこもり、距離を置くことでしか他人と共存していくことができない……私はどうしようもなく臆病で、どうしようもなく卑屈な、醜い心の持ち主だった。
いや、その性格は、今もきっと直っていないような気がする。ただ一人、ダルフェイとともにいる……そのときを除いては。
しかし、信頼のおける相手が一人もできなかったというわけでもなかった。
輝けるレィスアルには、彼女にふさわしい恋人がいた。彼の名はアムレといい、私やレィスアルよりもずっと年長のエルフだった。もっとも、ほとんど永遠に近い寿命を生きるエルフにとって、その程度の差は人間で言えばほんの4.5歳差の感覚にすぎなかったが。
アムレは長い銀色の髪を持つ、エルフの村の若者の中でもとりわけ美しい青年だった。華奢に見えるが均整の取れたバランスのよい肢体。一見クールな顔立ちながら、笑うととても優しそうで、誰からも好かれ、また誰に対しても公平だった。もちろん、私に対しても……多分彼だけが、本当に何の偏見もなく暖かく接してくれていたと思う。
アムレは武芸よりも魔術や精霊術を得意とする、思慮深く聡明な男だった。レィスアルが他のエルフたちとはしゃぎまわっているときも、彼はいつも一歩引いた位置で、難しそうな分厚い本を片手に静かにみんなを見守っていた。
いつもいつのまにか輪の中からあぶれてしまっていた私と、いつも一人離れたところにいた彼は、自然と近くにいることが多くなっていた。
初めはお互い口もきかず……しかし、そこに気まずい空気は微塵もなく、ある時ふと目があった瞬間に彼がやわらかい微笑を返してくれたのを皮切りに、私たちは次第に仲良くなっていった。お互いまったく話をしない日もあれば、ふいに話が弾んで笑いあったりもした。
「君の父さんを見たことはないが、なんでもどこか遠い国から来た戦士だったのだそうだよ」
アムレは、ある日唐突に、まるで独り言のように私にそう語った。
「彼と君の母さんは村の外で出会い、恋に落ちたらしい。君の母さんは村を出て、その戦士としばらく行動をともにしていたが、やがて彼は故郷へ戻らなければならなくなり、君の母さんは失意の中一人村に戻ってきた。村に戻ってきた直後の彼女は、沈んではいたけれど君が知っているほどひどい状態ではなかった。しかし……今君が差別を受けているように、彼女もまたもはや他のエルフから見れば異端であり、嫌悪の対象にすぎなかった。彼女が狂った原因は……君の父さんや人間たちよりも、むしろ私たちエルフにあるに違いない」
「……あなたは、昔の母のことを知っているのですか?」
「私は君よりも、むしろ君の母さんのほうに歳が近いのでね。君の母さんは君にそっくりな……とても美しい人だった」
その静かな声に、ふと彼は母のことが……愛とは言わないまでも、好きだったのではないかと思った。
「僕の母さんは……どんな感じの人だったのですか?」
「とても明るく朗らかで、無邪気で……ちょっと無鉄砲なところがあったけれど、誰もが好きにならずにはいられないような、そんなすばらしい人だったよ」
「そう……」
私は嬉しかった。彼の話を聞いてはじめて……おかしな言い方だが、母が確かに生きていたのだということを知ったような気がした。
ふと目を向けた先に、大勢の友人を従えて走り回っているレィスアルの姿が目に入った。彼女には光と、そして風がよく似合った。長い金色の髪を揺らし、軽やかに舞う細い肢体……。私の母も、かつてはあんな少女だったのかもしれない。
「ラルム、君はレィスアルが好きなのかい?」
そうアムレに問われて、私は一瞬あっけにとられ、慌てて首を横に振った。きっと耳まで真っ赤になっていたことだろう。
「そんな、彼女はあなたの恋人だし……。あなたは、レィスアルが好きなのでしょう?」
「彼女のことは、妹のように思っているよ」
彼の不自然な言葉に気がつけるほど、私は恋愛についても、世の中についても知らなかった。
「もちろん、彼女のことは私が引き受けるつもりでいる。ラルム、だから君は……私がこういったら怒るかもしれないが、あまり彼女には深く思いを寄せないことだ」
「……僕は、そんなつもりはありません」
「そうか……おかしな事を言って悪かったね」
アムレはそういって、私の髪をなでた。その行為がなんとなく小馬鹿にされているような気がして私はムッとしたが、アムレにそんなつもりはなかったのに違いない。
いつもは誰に対しても傍観的なアムレが、何故私に対してそんなことを言ってのか。当時の私は、私がレィスアルと親しくしているのが気に入らないからなのではないかと思っていた。それ以外に理由は浮かばなかったし、考えようもなかったのだ。
アムレは、誰に対しても公平に優しかった。いつもは冷ややかな表情で周囲を見つめているようなところはあるが、誰かと話をしているときの彼は本当に優しげな笑みを浮かべていた。そう、どんな相手であっても……寸分たがわぬ、穏やかな笑みを。
それは彼の恋人であるはずのレィスアルに対しても同じで、だからこそ私は自分に向けられる彼の眼差しが特別であるなどとは思いもよらなかったのだ。
レィスアルはアムレに対しては他の誰に対するよりもわがままだったが、アムレはそんな彼女のわがままをただ静かに微笑して聞いていた。私はもしかしたら、レィスアルはアムレのことを愛してはいないのではないかと勘繰りもした。アムレはいつも離れたところから彼女を見守っているだけだし、レィスアルはレィスアルで、沢山の男友達に囲まれながらいつも女王然として、アムレのことなど眼中にないかのように振舞っていたからだ。しかしレィスアルがわがままを言うのも相手がアムレであるからこそであり、また少々ひどすぎるようにも思えるそのわがままをアムレが黙って聞いているのも、また相手がレィスアルだからこそであろうと思うと、私の余計な勘繰りは瞬く間に霧消していった。
そんな日々の中で、私自身にもある重大な変化が起こり始めていた。
初めは気のせいだろうと思い、あまり気にもとめていなかったその変化は、しかし次第に顕著となり、私を激しく混乱させた。
私は、具合が悪いといってはレィスアルやアムレの誘いを断り、再び部屋に篭りだすようになっていった。特に医学の知識をもつアムレはことさら私を心配し、たびたび家に訪ねてくるようになったが、私は誰にも会いたくないと、頑として拒みつづけた。
たまに外に出るときがあっても、それはだいぶ夜もふけた頃……誰かに出会っても、なるべくこの姿を見たれなくてもすむような、そんな時間だけとなった。
私は不安におののいていた。
肋骨の浮いた痩せた胸に、ほんの微かだが……しかし明らかに膨らみ始めた乳房。もう少し私の肉付きがよければ気がつかずにすんだかもしれないそれは、貧弱な私の体にはかえって異様に際立って見えた。
私は体系的には、普通のエルフの少年たちと何ら変わるところはなかった。より繊弱に見えるところはあったかもしれないが、それは他の少年に比べて外で転げまわって遊んだりすることのない私には当然のことだと思ったし、何より私の体には、男性の象徴というべきものがきちんと存在していたからだ。
しかし、日に日に増してゆく不安と恐れを、いつまでも一人胸に押し隠していることなど、当然できるはずもなかった。
下腹部にいやな痛みが走るようになり、もしかしたら自分は本当に何か悪い病気なのではないかと疑い始めて数日後のこと。
下着を染めた鮮やかな赤……それとは対照に、私の全身は蒼白となった。
やはり自分は病気なのだ。きっと、このまま死んでしまうのに違いない。
僕にとって生きていくということは、決して楽しいことではないかもしれない。しかし、死ぬのはもっと恐ろしかった。こんなところで死んでしまったら……僕はいったい何の為に生まれてきたのだろう?
恐怖に駆られた私が助けを求めた相手は、祖母でもなく、アムレでもなく……初めて私に手を差し伸べ語りかけてくれた、あの輝ける少女レィスアルだった。
優しいレィスアル。彼女ならきっと……少なくともこの不安な心をなぐさめてくれるに違いない。
しかし、恐る恐るすべてを打ち明けた私に彼女が返した言葉は、全く予想だにしないものだった。
「もう二度と、あたしの……いいえ、あたしとアムレの前に現れないで」
私は一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
「親切にしてあげたのに……よくもあたしをだましてくれたわね。この化け物! あんたなんて大嫌いよ! 二度とアムレに近づかないでッ」
怨嗟の篭った声でそう叫んでレィスアルが飛び出していった部屋のドアを、私はしばらくただ呆然と見つめていた。いったい何を言われたのか……何事が起こったのか、私にはさっぱりわからなかったのだ。
「化け物……?」
近頃はあまり耳にすることのなくなっていた単語を、私は呟いた。
「化け物……」
では、今私の体に起こっているこの変化は、私が化け物であるせいなのだろうか?
そうなのかもしれない。母を狂わせ、祖母を嘆かせ……私は何故生まれてきたのだろう?
見たこともない私の父は、もしかしたら異国の戦士だったというその人間ではなく、この灰色の髪にふさわしい……穢れた魔物だったのではないだろうか。
「うああああぁぁぁ……ッッ!!」
私は絶叫した。
父さんが去ったのは、きっと僕が自分の子供じゃないと知っていたからだ。
母さんが狂ったのは、きっと生まれてくる子供が化け物だと知っていたからだ。
祖母が僕を呪ったのは、生まれてきた僕が悪魔の子供だったからだ。
僕がみんなを苦しめた。
僕が母さんを殺した。
僕は魔物だ。
だから、誰も愛してはくれないんだ。
僕なんか、生まれてこないほうがよかったんだ……!
体が震えた。
とても恐ろしかった。
気がふれてしまいそうな衝動をどう抑えたらいいのかわからず、気が付くと私は部屋の中で暴れていた。
花瓶を投げつけた鏡は、どちらも派手に砕けた。それでも足りずに椅子で窓を叩き割ったところで、驚いた祖母が部屋に飛び込んできた。
「何をしているの!ラルム!」
そういえば、祖母の声を聞いたのもずいぶん久しぶりのような気がした。
話せばこの家を追い出されるかもしれない。そう思いながらも、私はすべてを語らずにはいられなかった。
祖母は激しく驚いた様子だったが、何故か意外にもそっと私を抱きしめ、私が泣き止むまでずっと髪を撫でてくれた。
祖母がこんなふうに私を包んでくれたのは、後にも先にもこのとき以外になかったと思う。
祖母は私の下着を替えさせ、ベッドに横たえてから静かにこういった。
「安心おし。それは病気じゃないから、一週間もすれば収まるよ」
「……」
「誰にもこのことは言うんじゃない。いいや、もう一歩も外に出てはいけないよ、わかったねラルム。もう誰にも会うんじゃないよ」
私はしゃくりあげながら必死に声を振り絞って訊ねた。
「……僕は、やっぱり化け物なの?」
「……さあね」
祖母はただ冷たくそういって部屋を出て行った。
私は叩き割った窓から吹き込む風の冷たさに震えながら、体を抱えて泣いた。
下腹部の不快な痛みと、体の中を落ちてゆく奇妙な感覚に……私は結局、その晩一睡もすることが出来なかった。
様々なことが頭の中を駆け巡った。
泣きはらした母さんの目。不機嫌な祖母の顔……。静かなアムレの微笑み。そして、風に舞うレィスアルの髪……。
眩しい、光。
それらはみな遠ざかり、私は暗闇の中ただ一人取り残された。
私を取り巻くものはもう何もない……。
私は、ただ一人……泣きつづけた。




