聖母の死
私は、ある小さなエルフの集落で、人間の冒険者だった父とエルフの娘との間に生まれた、いわゆるハーフエルフと呼ばれる存在である。
私が生まれたとき、すでにそこに父の姿はなかった。母が私を身ごもっていることを知っていたのか、それとも知らなかったのかはわからないが、私が生まれる前に母を捨てて去ったのだという。
話に聞いた父というものはまるで悪鬼のような最低の男だったが、それもみなエルフ側の話だから、本当のことはわからない。
ただ、せめて一度会ってみたかったとは思うが、それももう今更かなわないことだった。父がいったいどこのどのような素性のものだったか、エルフたちは聞かせてはくれなかったし、なにより普通の人間である父が、今の世に生きているはずがない。
私にとって父とは漠然とした憧れとして想像の中に存在するだけのものであり、非現実の英雄だった。
そう、私にとって存在しない空想の父と言うものは常に憧れだった。
出会っていれば、私を愛してくれたかもしれない唯一の人。
私を抱きしめて、無償の愛を与えてくれたかもしれない存在。
しかし、私が知っている事実は「父は母を捨てて去った」というただそのことだけだった。
異種族同士の恋愛は、どんなに美しい物語で語ろうとも所詮は自然の摂理に反した邪道に過ぎない。結ばれるはずのないもの同士の愛は常に不自然であり、悲劇を呼びやすいものだ。
それでも愛し合い、私という存在を儲けてくれた二人に、今の私は感謝することができる。
もしかしたら、父にとっては恋愛ではなかったかもしれないが……少なくとも母は真剣に父を思っていた。
そう、去ってしまった父を思い、生まれた子供をかえりみることさえ忘れ……焦がれ狂い、ついには泡沫のように果ててしまうほど母は父だけをひたすらに思い続けていた。
昔は憎悪の対象でしかなかった母の心が、今ならば少し理解できる。
私ももし愛を失ったら、きっとまともな精神ではいられない――だからもう母を恨むことはないだろう。とはいえ、彼女を好きになることは生涯できそうもないけれど……。
幼いころ、私は母というものは泣いているのが当たり前のものだと思っていた。
薄暗い部屋の窓辺で、細い体を椅子に預け……両手で顔を覆い泣き続ける母。床まで届きそうな長い金髪は艶を失い、乱れて頬にかかり、時折狂ったように甲高い声で嗚咽をあげて泣き続け、疲れはてて眠りについてしまう。
虚空を見つめる目は常にうつろで、生気のないその目が時折私のほうを向くのがたまらなく恐ろしかった。
空色の瞳と奇妙なコントラストをなす、真っ赤に泣き腫らした目。絶望と狂気の入り混じった眼差し。しかし、私のほうを見ているはずの目は、いつも私を素通りして何か遠いものを見つめていた。
母は、ついに私に名を与えることさえなかった。
母を見て哀れんだものたちがつぶやき繰り返す涙という言葉がいつしか私の呼び名になった。
私は、母にとってただその体から零れ落ちただけの存在に過ぎなかった。
排泄され、かえりみられることもなく、地に堕ち、いつか乾き消え果るだけの存在。抱きしめられることもなく、ただその指の間をすり抜け、切り離されて消えてゆくもの……。
だが、考えてみれば涙のほうがまだましだったかもしれない。
どんなに思い出そうとしてみても、私には母の手に触れた記憶は、ただの一度さえ残っていないのだから。
「お前が娘を狂わせた。薄汚い人間の子供め」
祖母は、そう言って私をなじった。
私の容姿は驚くほど母に似ている。しかし、私には母や他のエルフたちのように、光り輝く黄金色の髪も、青空や若葉を写し取ったような美しい色の瞳もなかった。
「よく見てごらん、この灰色の髪!塵や燃えカスと同じ汚らしい色! ああ、なんて濁った色の瞳だろう。まるで死んだ魚のようだよ!」
髪をつかまれ、大鏡の前に引きずられていっては、私は祖母の罵声を浴びた。
醜い子、穢れた子。
美しかった母を変えてしまった、悪魔のような子供。
そういわれても仕方がないと思っていた。
光の種族、永遠にも近い若さと美貌を持つこの種族の中にあって、私の容姿はやはり奇異であり、老人のようなこの髪の色は、あまりにも浮いて見える。
祖母が大事にしていた肖像画の中の母はまるで少女のようで、本当にやさしく美しく、穏やかな微笑を浮かべていた。
ひとしきり詰ったあと、祖母はいつも最後にこう言った。
「人間でもエルフでもない、お前のようなものには、そんな色が似合いなのかもしれないね」
与えられた小さな部屋で、私はよく耳をふさいでうずくまっていた。
時々は外に出て、光の中を駆け回っているほかのエルフの子供たちを木陰からそっと眺めていることもあったが、その輪の中に加わることは、私には永遠に無理だと思えた。
例えどんな人たちであろうと、身内以上に私を愛してくれるものが外にいるはずがないと信じていた。
どんなところであっても、私にはここしか居場所がない。
私はそうしてほとんど一日中家にいて祖母の罵声を聞き、夜は母の嗚咽が聞こえなくなるまで耳をふさいでいた。
不思議と、涙は流れてこなかった。
名前とは裏腹に、私の涙はすっかり涸れ果ててしまったようだった。
「生意気に泣きもしない、薄気味悪い子だこと」
そんな祖母の言葉も、いつしか私の心を空しく素通りするだけとなったそんなある日。
前触れもなく母が死んだ。
風に吹かれた花が散るように、ただ静かに息を引き取った母の亡骸は、ようやく長い苦しみから解放されたのか穏やかで、やせ細り変わり果てていたものの、何故か私の目にはとても綺麗なものとして映った。
私は悲しいとは感じなかった。
寂しいとも思わなかった。
このとき私は母に向けるべき感情を知らず、号泣する祖母の後ろに、ただ黒い靄のような苦い思いだけを抱いて、立ち尽くしていただけだった。
一章との微妙な違いに気づいてくれたら嬉しいです。
 




