在処
早朝の霧に霞む湖は、たとえようもなく哀しく美しく、まるで天上の風景のようでありながら、黄泉への入り口のようにも見える。
ここへ来て、もうどのくらいの時が過ぎただろう。
お気に入りのこの家をプレゼントしてくれた初めての友は、ずっと昔に亡くなった。彼がいかに優れた才能を持っていたのかは、新築の時と殆ど変わらずに美しいこの建物を見ればわかるだろう。決して大きな家ではないが、私の理想と好みを知り尽くした設計。今にして思えば、これほど私を想ってくれた人に対して、私はなんと残酷だったことだろう。
初めてここに来た日から、湖の姿は変わっていない。
人里離れた、深い森の奥。
湖の見える、私の家、私の居場所――。
「そんな格好でいると風邪を引くよ?」
家の中から、聞きなれた低くあたたかい声が聞こえた。
そういえば、まだ夜着のままだったっけ……急に肌寒さを感じた肩に、ふわりとガウンが下りてきた。
振り返ると、そこには私の心の居場所が微笑んでいた。
「ダル……」
「どうかしたの?」
「……いや」
「昨日のスープの残りを温めたけど、飲むよね?」
「……ああ、ありがとう」
彼に出会うまで、私は自分が誰かに心を寄せ、全てを委ねて生きていけるなどとは考えたこともなかった。
心の奥……無意識の底で求めてやまなかった安らぎ。
誰かに愛されたい、抱きしめて欲しいという願いを叶えてくれた人。
かつては必死に否定しようとした、呪わしい両性具有のこの身体に、生きる価値を与えてくれた人。
彼はいつも暖かく微笑している。
何も追求しないし、何も探ろうとしない。私の微細な心の動きを敏感に察しながらも、あえて気づかないフリをしてくれる。決して無視をしているわけではなく、常に全てを受け止める準備を整えた上で、私が語りだすのを待っていてくれる。
何があっても、彼は何処にも行かないだろう。
今更、あえて何かを言う必要などないのかもしれない。彼は聞き出そうとはしないだろうし、何も言わなくても彼は全て知っている。
解放されたいのは、ただ私の心なのだ。
考え事をしていると、周りが何も見えなくなる癖がある。
気がつくと信じられないほど時間がたっていて、昔はわけのわからない苛立ちに支配されたものだ。
カタリと音がして、私ははっと我に帰った。
驚いて見上げた目の先に、ダルフェイが微笑んでいる。
「おまたせ」
彼はそう言って私の前にスープの皿を置いたが、私にはそれが二杯目のスープだということが判った。
席についたきり、考え事に没頭してしまった私のスープはとっくに冷め、今、ダルフェイは再びそれを温めなおしてきてくれたのだ。
かつてはこんな自分が大嫌いだった。
奇妙な癖をゆるせなくて、今ごろはヒステリーを起こして、せっかくのスープを床に叩きつけていたに違いない。
「ありがとう」
私はぎこちなく、それでも精一杯微笑んでスープを口にした。
本当に、どうして私はまともに笑うことすらできないのだろう。
少々熱すぎるスープの熱が、冷えた心を溶かすようで……。
私は今ならば、封印してきた過去を優しく見つめ返せるような気がした。




