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サルマキスの淵  作者: レエ
第一章
1/28

灰色の涙

淵───水が深く澱んでいるところ。容易に抜け出せない苦しい境遇。

 私は、とある小さなエルフの集落で、人間の冒険者だった父と、エルフの娘との間に生まれた。

 異種である両親がどのように知り合い恋に落ちたのか、私は知らない。

 母は何も語らなかったし、父は私が生まれたとき既にそこにいなかった。母が身ごもっていることを知っていたのかはわからないが、私が生まれる前に母を捨てて去ったのだという。


 元々閉鎖的(へいさてき)である上に、当然下等な――エルフたちにとっては下等な――種族である人間の血の混ざった私を彼らが受け入れてくれるはずも無く、村での生活は、まさに地獄のような日々だった。

 エルフは人間に好意的な種族だと思われているようだが、それは人間側から見た場合においてのみであり、エルフたちは決して人間に好意を持っているわけではない。


 閉鎖的で狡猾(こうかつ)なこの種族は、美しい姿で人間に近づき、(たわむ)れに知恵を授け、利用する。何故なら人間が敵とする他種族……(すなわ)ちオーガやゴブリンなどは、エルフにとっても敵であり、滅ぼすべき相手だからだ。


 しかしエルフは知恵にこそ優れているが、体は貧弱で(もろ)く、戦闘に適しているとは言い難い。そこで人間の戦士に近づき、敵と闘わせる為に誘導するのだ。モンスターと違い、人間はそこそこ知恵もあり丈夫でもある。そして何より、短命な種族だ。多少の贈り物をしたところで、エルフのように永遠に近い時を生きる者にとってはホンの一瞬の関わりに過ぎない。


 つまり、明らかに自分たちが上位の種族であり、人間を見下しているからこそ、彼らは優しい笑みを浮かべ、友好的なそぶりを見せることができるのだ。

 人間の戦士だったという父は、もしかしたらそんなエルフの本性に気づいて、母を捨てて去ったのかもしれない。


 しかし、母は父を愛していた。泣き暮らし、ついには命を落としてしまうほどに。

 自分の生んだ子供がこの閉鎖的なエルフの村で、どのような思いで生きているか、ついに一度も思う余裕の無かったほど……父だけを、ただひたすら一途(いちず)に愛していた。


 私にとって、漠然(ばくぜん)とした(あこが)れとして想像の中に存在する父は、非現実の英雄だった。

 出会っていれば、私を愛してくれたかもしれない唯一の人。

 私を抱きしめて、無償(むしょう)の愛を与えてくれたかもしれない存在。

 しかし、私が知っている事実は残念ながら()()()()()()()()()()という、その1つだけだった。


 たとえエルフたちの話すとおり悪鬼(あっき)のような男だったとしても、父にはせめて一度会ってみたかったとは思う。だが、それももういまさら叶わないことだった。エルフというものは限りなく不死に近く、ハーフエルフである私にもその血が濃く流れている。自分の正確な年齢など覚えていないが、人間の生きられる年月はもうとっくに越えてきた。普通の人間である父が、今の世に生きているはずがない。


 父ヘの思いをめぐらせればめぐらせるほど……その(あこが)れは次第に憎しみへと変わっていった。

 異種族同士の恋愛は、どんなに美しい物語で語ろうとも所詮は自然の摂理に反した邪道(じゃどう)に過ぎない。結ばれるはずのないもの同士の愛は常に不自然であり、悲劇を呼びやすいものだ。そういう意味からすれば、母と父が別れたのは自然なことだったのかもしれない。そして、不自然な関係の果て産まれた私は当然不自然な存在であり、初めからこの世にあるべきものではなかったのかもしれない。


 幼いころ、私は母というものは泣いているのが当たり前のものだと思っていた。

 薄暗い部屋の窓辺で、細い体を椅子に預け……両手で顔を(おお)い泣き続ける母。床まで届きそうな長い金髪は艶を失い、乱れて頬にかかっていた。ときおり狂ったように甲高(かんだか)い声で嗚咽(おえつ)をあげては泣き続け、疲れはてて眠りについてしまう……それだけが、彼女の日常だった。


 虚空(こくう)を見つめる目は常にうつろで、生気のないその目が、ときおり私のほうを向くのがたまらなく恐ろしかった。

 空色の瞳と奇妙なコントラストをなす、真っ赤に泣き()らした目。

 絶望と狂気の入り混じった眼差(まなざ)し。

 しかし、私のほうを見ているはずの目は、いつも私を素通りして何か遠いものを見つめていた。


 母は、ついに私に名を与えることさえなかった。

 一日中泣き暮らす母の様子を哀れんだものたちがつぶやき繰り返す〝(ラルム)〟という言葉がいつしか私の呼び名になった。


 私は母にとって、ただその体からこぼれ落ちただけの存在に過ぎなかった。

 むなしく体外へ排泄(はいせつ)され、かえりみられることもなく、地に()ち、いつか乾き消え果るだけの存在。優しく抱きしめられることもなく、怒りに打ち()えられることもなく、ただ指の間をすり抜け、消えてゆくもの……。


 だが、考えてみれば涙のほうがまだましだったかもしれない。

 どんなに思い出そうとしてみても、私には母の手に触れた記憶は、ただの一度さえ残っていないのだから。


「お前が娘を狂わせた。薄汚い人間の子供め」


 祖母は、そう言って私をなじった。

 私の容姿はおどろくほど母に似ていたが、私には母や他のエルフたちのように、光り輝く黄金(こがね)色の髪も、青空や若葉を写し取ったような美しい色の瞳もなかった。それが祖母にとっては余計に憎らしかったにちがいない。愛する娘の姿形(すがたかたち)だけを受けついだ……醜い、私。


「よく見てごらん、この灰色の髪! (ちり)や燃えカスと同じ汚らしい色! ああ、なんて(にご)った色の瞳だろう。まるで死んだ魚の目ようだよ!」


 髪をつかまれ、大鏡(おおかがみ)の前に引きずられていっては、私は祖母の罵声(ばせい)を浴びた。

 醜い子、(けが)れた子。

 美しかった母を変えてしまった、悪魔のような子供。

 私はそう呼ばれても仕方がないのだと思っていた。

 光の種族、永遠にも近い若さと美貌を持つこの種族の中にあって、私の容姿は異様(いよう)であり、老人のような髪の色はあまりにも奇怪(きかい)で醜く見えた。


 祖母が大事にしていた肖像画の中の母はまるで少女のようで……木漏(こもれ)れ日のように優しく美しく、(おだ)やかな微笑(ほほえ)みを浮かべていた。

 その微笑みを奪ったのは、父か……私か。

 ひとしきり(ののし)ったあと、祖母はいつも最後にこう言った。


「人間でもエルフでもない、お前のようなものには、そんな色が似合いなのかもしれないね」


 与えられた小さな部屋で、私はよく耳をふさいでうずくまっていた。

 まれに外に出て、光の中を駆け回っているほかのエルフの子供たちを木陰からそっと眺めることもあったが、その輪の中に加わることは、永遠に不可能だと思えた。


 たとえどんな人たちであろうと、身内以上に私を愛してくれるものが外にいるはずがないと信じていた。

 私には、そこしか居場所がなかった。

 逃げ出す勇気はなかった。

 いや、私は心の奥底で……いつかは母に愛してもらえることを期待していたのだろう。彼女のそばを離れて何処(どこ)か別の場所へ行こうと思ったことは、一度もなかった。

 私は、そうしてほとんど一日中家にいて祖母の罵声(ばせい)を聞き、夜は母の嗚咽(おえつ)が聞こえなくなるまで耳をふさいでいた。


 不思議と、涙は流れてこなかった。

 名前とは裏腹(うらはら)に、私自身の涙はすっかり()れ果ててしまったようだった。


「生意気に泣きもしない、薄気味悪(うすきみわる)い子だこと」


 そんな祖母の言葉も、いつしか私の心をむなしく素通りするだけとなったそんなある日。


 前触(まえぶ)れもなく母が死んだ。

 風に吹かれた花が散るように、ただ静かに息を引き取った母の亡骸は、ようやく長い苦しみから解放されたかのように穏やかで、やせ細り変わり果てていたものの何故(なぜ)か私の目にはとても綺麗なものとして(うつ)った。


 悲しいとは感じなかった。

 寂しいとも思わなかった。

 このとき私は母に向けるべき感情を知らず、号泣(ごうきゅう)する祖母の後ろに、ただ黒い(もや)のような苦い思いだけを抱いて立ち尽くしていただけだった。


 泣き疲れ、まるで泡沫(うたかた)のように(はかな)く死んでいった母。

 彼女は生涯、自分が産み落とした子のことを思うことはなかったのだろうか?


 バカバカしいイメージが、大人になった今でも消えないのが……ひどく苦々しい。

 黄昏(たそがれ)の窓辺で、自らの長い金髪に顔を埋めている女。

 やせ細り(つや)を無くした、血の気のない白い肌。

 ときおり(うつ)ろに向けられる、赤く()れた目の……その異様な瞳の輝きを思い出すたびに、私は軽い吐き気を覚えた。


 嫌な夢を見てしまった。

 何度みても慣れることの出来ない悪夢に、舌打ちする。

 ぐっしょりとかいていた寝汗の不快感と、過去に捕らわれたままの自分の不甲斐(ふがい)なさに苛立(いらだ)ちを覚えた。


 地下水脈から汲み上げた冷たいシャワーを浴びるのが、私の毎朝の日課だった。

 お気に入りのこの家をプレゼントしてくれた唯一(ゆいいつ)の友は、もうずっと昔に亡くなった。彼がいかに優れた才能を持っていたのかは、新築の時とほとんど変わらずに美しいこの建物を見ればわかるだろう。決して大きな家ではないが、私の理想と好みを知り尽くした設計。今はまだ美しいこの家も、いつかは()ちてしまうときが来るのだろうか。


 深い森の奥に、こんな開けた場所があると……知る人間はおそらく誰一人いないだろう。

 木造の小さな家の、ほんのささやかなバルコニー。嵐で何度か壊されたことはあったが、いずれも大した被害ではなかった。

 目の前には大きな……青い湖。早朝の霧に(かす)む湖はたとえようもなく哀しく美しく、まるで天上の風景のようでありながら、黄泉(よみ)への入り口のようにも見える。


 ここへ来て、もうどのくらいの時が過ぎただろう。

 初めてここに来た日から、湖の姿は変わっていない。

 人里離れた、深い森の奥。

 湖の見える、私の家、私の居場所――。

 白い鳥が、岸辺にたくさん集まっている。

 遠くで、銀の魚が飛び跳ねる。

 清々しい……閑静(かんせい)な美の風景。


 どんな芸術家だって、これほど美しい光景を描きあげることは、生涯をかけても不可能だろう。

 何の変哲(へんてつ)もない、自然。

 しかし、それこそが神の領域なのだから。

 どんなに嫌な夢を見た朝でも、その風景を見ているだけで心が安らいでいくのを感じた。

 この風景は私だけのもの。

 いつか、この湖に溶けるように死ぬことが出来たら……多分、私にとってそれ以上の幸福な死は無いだろう。


 この美しい湖に、私は敬意と皮肉をもって"サルマキス"と名づけた。

 私の心を虜にした(かのじょ)に……それ以上ふさわしい名はないと思った。

 素晴らしい場所に住処(すみか)を置くことができ、私は幸せだったが、問題が全く無いというわけでもなかった。


 この場所は、オーガの巣に近いのだ。

 オーガとは、いわゆるモンスター……それも、恐ろしい食人鬼である。

 体は大柄で分厚い筋肉に覆われており、知性が低く、強暴なのが特徴だ。

 姿は人間型ではあるが、一様(いちよう)に醜くおぞましい。

 額の上に角を有しており、目は黄色く濁っている。

 好色で何故か宝物を収集するという癖があり、オークやゴブリンなどの下等な魔物を従えて村を襲っては、人間を喰らい女を(さら)い、財宝を奪う。まったく最悪の連中だ。


 だが、奴らが近くに住んでいるおかげで、この美しい風景が人間たちに荒らされることなく済んでいるのならば、むしろ奴らには感謝するべきかもしれない。

 一度、あの澄んだ水の中で思うさま泳ぎ回ってみたいとも思うが……万が一誰かにこの姿を見られたらと考えると、それは到底(とうてい)叶わぬ夢だった。


 人は、この私の姿を見てどう思うだろう。

 美しい……と、いうかもしれない。

 森の妖精……美しき光の種族であるエルフは、みな明るい色の髪と瞳を持ち、男も女も繊細で輝くばかりの美貌を持っている。


 しかし、この私はなんだろう。

 人間である父の血のために魔力に劣り、母であるエルフの血の為に体力に劣る、何の()()()もない、脆弱(ぜいじゃく)な存在。

 まるで()まわしき混血の身を象徴するような、白とも黒ともつかない灰色の髪と瞳。

 青白く、不健康そうな肌の色。

 貧弱な体つき。

 人間にはありえない、長く、尖った両の耳。

 

 そして……。

 そして――。


 それを思う時、私はいつも軽い眩暈(めまい)と吐き気に襲われた。


登場人物・用語


■ラルム

灰色の髪と瞳を持つ美貌のハーフエルフ。身体にある秘密を持つ。


■ダルフェイ

人間の母とオーガの間に生まれた、ハーフオーグルの少年。

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