第5話
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「――以上の様に “群体”、若しくは超個体を成していると考えられます」
「安井教授、群体、ですか?」
「例えばイソギンチャクの一種であるサンゴ虫が群体を成して、我々の言う、いわゆるサンゴができています。一個体では脆弱であっても、集合体として活動すれば個体総数以上の能力を発揮することが出来るわけです。火炎放射器によって、表面にあったなっとうは確かに焼き殺されたでしょう。しかしその内側にいたなっとうは無傷、いやむしろ焼かれたなっとうの骸を喰らって能力を増した、とも考えられます」
「抜本的な対策は」
安井は大きく息を吸い込む。
「わかりません。ただ、奴らは剥き出しの細胞体と思われますから、先に私が提案した通り、冷凍して隔離するのが最適と思われます」
これまでのなっとうによる被害状況を、安井を中心に報道機関各社への情報開示がされた。これ以上、情報不足による不必要な混乱を避けるためであったが、少なからず混乱は避けようがなかった。
連続家畜盗難事件の犯人がみとなっとうであり、しかも移動しながら餌を求め、更には警官まで喰い殺した事実を知った国民は、一斉に食品としての納豆排斥へと向かう。特に当時まだ納豆好きが少数派であった関西圏で顕著で、たちまちマイノリティへの批判が集中し、納豆好きが職場を解雇されたり、いじめの対象になったりという「なっとう差別」と称される人権問題にまで発生した。店頭から納豆は消え、生産業者の元には返品不可のものまでが送り返された。彼らは、うずたかく積み上げられた返品の山に愕然とする他はなかった。
県警は有害な(“肉食”という表現は避けていた)なっとうは東海村周辺に出没するのみであって、一般の納豆商品には全く危険性はないと繰り返したが、効果はなかった。まさに、水戸納豆の危機であった、
一方、マスコミへの公式発表以来、肉食なっとうによると思われる被害はパッタリと止んでしまっていた。ミステリー・サークルの出現した採餌場所にも戻った様子も一切覗えず、以前にも増して強化した警備体制が肩透かしを食らった形となった。
「なっとうは、東海村から出て行ってしまったのでしょうか」
県警の一室に詰め所を与えられた安井の部屋で、助手の波崎が報告書を眺めている。
「ああ、私も今それを考えていた。その後の粘液の発見状況はどのようになっているかな」
波崎は報告書にある調査地点と発見地点を示す地図を翻した。
「東海村の(国道)6号(線)沿いに三カ所、です」
「国道か。私の杞憂であればいいのだが」
「何か?」
立ち上がって開けた窓の外、雲一つない快晴の青空が広がっている。安井は青空を見上げながら告げた。
「なっとうは火炎放射器の攻撃を受けて以降、その行動パターンを変えている。
奴には……奴らにはあらゆる有機物を消化できる酵素が存在している。だとすれば、有機物が集中する場所へ向かうはずだ。東海村や那珂町以上に有機物が集中する場所といえば……」
「日立市、或いは水戸市でしょうか。地理的には日立市の方が狙われるのでは」
「いや、これは私の予想に過ぎない。忘れてくれたまえ」
安井は自分の語った言葉の重要性に、その時まだ気付いてはいなかった。
東海村より国道6号線を南下すると、那珂町との境付近で突然車線が広がる。左手には広大なスタジアム等のスポーツ施設を備えた笠松運動公園が現れる。毎年開催され、主催の都道府県が必ず総合優勝する出来レースの会場として、1974年に茨城国民体育大会が開催された場所である。建設利権が絡み、運動公園直前まで四車線という状況が、いびつな開発の名残である。
運動公園の向かい側でガソリンスタンドを経営する古川和夫(47歳)は、備蓄タンク内のガソリンの残量が異様に減少していることに気がついた。
タンクローリーが補給に来てからまだ半日しか経過していないにもかかわらず、である。
古川の脳裏に不安が過ぎる。
(ガソリン漏れか?)
しかし、鼻をつくガソリン臭がしない。周囲は普段の臭いと大差ない。もしガソリンが流出していれば必ず気付く自信もあり、なおかつ漏洩に対する検知器も備えてある。
(タンク内のゲージが壊れたか)
まず一つ目の備蓄タンクを確認するが、予測通り燃料漏れなど発生してはいなかった。
心の中で胸を撫で下ろし、二つ目のタンクの元に向かった時、タンクの真下で蠢く陰を見止めたのだった。陰は暖かいを受け、まるで風になびくようにさざめいている。
だが、その日は無風の快晴であった。
そして古川は驚愕した。やはりタンクが破損し、細いガソリンの筋が真下へと垂れていたからではない。ガソリンの行き着く先、受け止める陰がゆっくりと動いていたからだ。
古川は身を竦めた。その正体が何か、おぼろげに予測がついた。
物体がヒトの存在に気付き、ガソリン臭を纏って緩慢な移動を開始する。
古川は悲鳴をあげた。
「みとなっとうだ!」
物体が、その全貌を現した。
なっとうの群体はその集合する個体数を明らかに増していた。体積にして凡そ200㎡、つまり200倍に増殖していた。悲鳴を聞いて駆けつけた他の店員も、床面を覆う淡い茶色の粘液に立ち竦む。間合いにして数m、到底触手の攻撃からは逃げられない。
なっとうは意外にも、ガソリンスタンドの内外を仕切るコンクリート壁を乗り越え国道に面した店頭の給油スタンド側へと移動を開始した。より魅力的な獲物を嗅ぎ付けたように。
コンクリート壁を乗り越えたなっとうが、茶色の津波となって店頭側に押し寄せる。津波の先には丁度給油を終えたばかりのワゴン車が停車していた。内部に誰と、何人乗っていたか、未だに不明である。津波に岸辺の構造物が襲われるように、ワゴン車はそのままなっとうに覆われた。
なっとう津波に覆われたワゴン車の輪郭が溶解すると、群体はそのまま国道を水戸方面に南下、行き交う一般車を摂取し増殖を続け、見る間に個体量を数倍にする。
陸上に現れた琥珀色の津波は、南下を続けていた。
「教授の悪い予感が的中してしまいました」
研究中の安井に、県警からの緊急連絡を受けた波崎が取り次ぐ。
「なっとうが笠松運動公園付近で大増殖し、国道6号線を南下、日立市には向かわず、水戸に向かって移動を開始しました」
暫しの沈黙の後、
「そうか」
とだけしか、安井は答えることはなかった。